4.レオン・シャルボノーと魔法の石
工房の机に向かって、周期表をぼんやりと眺めていたときだった。
「レオン、悪いけど買い物、お願いできる?」
母がエプロン姿のまま、ひょいと顔を出した。
「今日こそ行かなくちゃいけなかったんだけど、煮込みが火から離せなくて」
「うん、いいよ」
素直に頷いて立ち上がると、母は紙に書かれたリストと小さな財布を手渡してきた。
シメイの町は、歩いて回れるほどの大きさだ。
石畳の道が静かに伸び、白壁の家が並び、ところどころに店や教会が点在している。
日差しにまだ少し春の冷気が混じる午後、僕はパン屋の前で立ち止まった。
「こんにちは、ムッシュ・マリオー」
「おや、シャルボノー家の末っ子じゃないか。今日は珍しいね。お母さんは?」
「火の番してるって」
にっこり笑って応えて、僕は棚に並んだパンを見渡した。
「パンを一斤、ください」
「いつもの大きさのだな、はいよ」
紙袋に包まれた焼きたてのパンを受け取りながら、
僕は母から預かった財布から50サンチームの銀貨を取り出して差し出した。
「ちょうど30サンチームだから……はい、おつり20サンチーム」
僕は小さくうなずきながら、その感触に一瞬、別の世界を思い出していた。
1フランは100サンチーム。
それは今も、フランスとベルギーの間で共通して使われている貨幣単位だ。
父から聞いた話によると、これは“ラテン通貨同盟(Union monétaire latine)”という制度によるもので、
同じ規格の貨幣が複数の国でそのまま使えるように調整されているらしい。
(EUができるはるか前から、ヨーロッパには“共通通貨”が存在していたんだ……)
令和の記憶がふっと顔を出す。
統合通貨ユーロに驚いた学生時代の僕が見たら、この制度の先進性に驚くだろう。
そして、ここシメイの人々――フランス語を話し、フランスと同じ貨幣を使い、
まるで国境の向こうと変わらない文化圏に住んでいるのに、「ベルギー人」として生きている。
(不思議な感じだ)
その後、八百屋で野菜をいくつか買い足した。
「やあレオンくん、今日は一人?」
「ええ。母が煮込みにかかりきりで」
「そりゃ大変だ。君が家の救世主だね」
笑い合いながら、人参とタマネギ、トマトを受け取る。
顔なじみの店員――マダム・トリュフォーは、どこか母の友達のような温かさがあった。
「珍しいわね。普段は工房から出てこないでしょ」
「たまには外の空気も吸わないと」
石畳の通りを歩いていると、大聖堂の尖塔が目に入った。
遠くからでもその姿ははっきりとわかる。
どの通りにいても、そこに“信仰の中心”があることを思い出させてくれるようだった。
(このあたりじゃ、カトリック党が強いのも当然だよな……)
昔、父が話していたのを思い出す。
この地域――ワロン西部の田舎町では、教育と福祉を担ってきたのは教会だった。
だからこそ、保守的で信仰心の厚い土地では、自由主義のパリ風の論理よりも、カトリックの価値観に親しみを覚える人が多い。
ベルギーは王国だが、議会制度を取り入れた憲法国家だ。
政治は政党によって争われており、今の政権は自由党が握っている。
誰もが投票できるわけではない。
選挙権は厳しい財産資格による制限選挙で、投票できるのは高額納税者などごく一部の男たちだけ。
有権者は人口の2%程度。
しかも、選挙はまだ公開投票で行われていて、
記憶の世界では当たり前の無記名投票も導入されていない。
それでも、投票率は非常に高い。
70%を超えるのも珍しくない。
(それだけ投票の「重み」が違うんだろうな)
父は、地元の名士として投票権を持っている。
そのことを、誇らしげに語っていた。
この国が1830年に革命で独立を勝ち取ったこと――
血を流して作った王国だからこそ、投票は特別な意味を持つのだと。
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今日も父は、村の学校へ教えに出かけている。
僕は工房の片隅に腰を下ろし、机の上の周期表を見つめていた。
ゲルマニウムがあるべき場所に記載された「ー」。そこから目を上げて、僕は静かに思考を始める。
(……トランジスタを、作るには)
記憶の中の世界では、トランジスタはシリコンウエハーの中に数十億個単位で整然と埋め込まれていた。
それは、銀色に光る薄い円盤――ウエハーと呼ばれる結晶の平板で、
この上に微細な構造として、無数のトランジスタが作り込まれている。
僕が働いていた時代では、一つのウエハーに数億個、場合によっては数百億個のトランジスタが搭載されていた。
その一つひとつが、電流の流れを制御する小さな“スイッチ”として機能している。
それは専門職の仕事で、素人には到底手が出せない――そう思われがちだった。
だが、本当にそうだろうか?
ーーーーーーーーーー
トランジスタの話をしよう。
まずは、この記号を見てほしい。
おそらく、多くの人がどこかでこの図を見たことがあるだろう。
けれどこの記号を見て、「シリコンウエハー上に何十億個も並ぶ部品」と結びつけられる人は、そう多くはない。
この矢印が、あの高価な半導体基板とどう繋がるのか。想像しづらくて当然だ。
では、人類が最初に作ったトランジスタはどうだったか。
それは点接触型トランジスタと呼ばれるものだった。
1947年、アメリカのベル研究所で発明されたこの装置は、驚くほど簡素な構造をしていた。
ゲルマニウムの結晶に2本の金属針を立て、電流の流れを微妙に制御する――
それだけのことだ。
まるで魔法のように感じられたその装置は、実際には非常に単純な原理で動いていた。
そしてこの「点接触」こそが、今でも使われている回路記号の元になっている。
あの矢印の形は、まさに針の配置を図示したものであり、
初期のトランジスタの構造をそのまま表しているのだ。
この形式のトランジスタは、実は他の元素――たとえばシリコンでは作ることができない。
表面が自然に酸化してしまうため、針が安定して接触しないのだ。
ゲルマニウムは、酸化皮膜が弱く、電気的な接触が取りやすい。
まさに点接触トランジスタにとって、奇跡のような素材だった。
だがそれでも、このトランジスタには欠点があった。
構造が不安定で、取り扱いが難しい。
何よりも、利得――つまり電流の増幅率が小さく、実用性に乏しかった。
しかも、電子の流れをつくるにはある程度の“不純物”が必要だった。
純度が高すぎてもダメ、低すぎてもダメ――精製そのものが高度なバランスを要求された。
そして現代では、この点接触型はすでに使われていない。
より安定し、より高効率な接合型トランジスタ(junction transistor)が登場したことで、
その役割を終えたのだ。
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僕はそこで思考を止め、息を吐いた。
(……ゲルマニウムが、ないんだよなぁ)
周期表の“空欄”が、重くのしかかる。
この世界には、まだその鉱物すら知られていない。
(じゃあ、点接触トランジスタは無理だろうな)
僕は机に肘をつき、遠くを見た。
工房の壁の向こうに、肥沃なベルギーの地、
そして鉱物資源の宝庫であるアルザス=ロレーヌ地方・そしてルール地方が広がっている。
そのどこかに、未来を変える鉱石が眠っているのかもしれない。
(でも、接合型なら……あるいは、錬金術で再現できるかもしれない)
点ではなく、面で接触させる方法。
錬金術で素材を精製し、構造を操作する――
もしかすると、錬金術だからこそできる“微細な制御”もあるのではないか。
(今はまだ、夢物語にすぎない。だけど……)
僕は再び、父の机の上に目を向けた。
あの空欄の先に、まだ名前を与えられていない鉱物と、
“まだ存在しない回路”が確かに見えていた。
資料探している中でYoutubeで点接触トランジスタを自作している人を見つけて驚愕しました。
https://www.youtube.com/watch?v=ENX_b6Bw7oA
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Belgien_50_Cent._1886_Av.JPG
1886年製ベルギーサンチーム硬貨。
「DER BELGEN」はオランダ語で「ベルギー人の」。時の王であるレオポンド二世が描かれている。
なお、同じ硬貨がフランス語でも作られており、そちらには「LEOPOLD II ROI DES BELGES」との記載がある。
[1]npnトランジスタ記号のライセンス表示 Creative Commons BY-SA 2.0 tw
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%82%B9%E3%82%BF#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Icon_of_Bipolar_transistor.png
[2]米政府撮影。パブリックドメイン
https://clintonwhitehouse4.archives.gov/Initiatives/Millennium/capsule/mayo.html