3.静かな炉
朝の光がまだ少し霞んでいた。
春の空気は冷たくもなく、まだ少し土の匂いが残っていて、窓の外では鶏が忙しなく鳴いていた。
台所には、黒パンとカフェオレ、それに焼いたリンゴが置かれていた。
目をこすりながら席に着くと、母が手際よく食器を並べ、父は新聞の束を広げながら椅子を軋ませて腰を下ろした。
「……そういえば、来月の話だけどな」
父がふいに言った。
「パリでまた万博が開かれる。今回はとくに規模が大きいらしい」
「1855年のときは、マティスも連れて行ったよね」
母がカフェオレを注ぎながら言った。
「暴れて大変だったぞ。展示品にはしゃいで走り回るし、二度も迷子になりかけた。あいつが大きな蒸気機関にしがみついて離れなかったときは、さすがに冷や汗が出た」
「ふふ。あなたもあのときは困った顔をしてたわ」
母の声には、思い出を懐かしむような、少しだけあきれた響きが混じっていた。
マティス――それが、僕の長兄の名前だ。
兄は今、ブリュッセルの商会に勤めていて、錬金術の道は選ばなかった。
「今回は、向こうの親戚に顔を出すのが目的だ」
「アルモンの家よね。リヨンの……」
「そうだ。あの家も、もとは錬金術に縁のある商人の家系でな。今では材料の流通や注文の紹介くらいしか付き合いはないが、それでも礼を欠くわけにはいかない」
父の口調は淡々としていたが、その目はすでに地図と旅程を思い浮かべているようだった。
「で、パリの万博には“ついでに”寄るつもりってわけね?」
母がカフェオレを注ぎながら、少しだけ眉をひそめた。
――リヨンとパリは、約500kmあり、決して“ついで”で済む距離じゃない。
「せっかくフランスに行くんだ。立ち寄らない手はないだろう。展示を見るだけでなく、向こうの技術や商流の流れも見ておきたい」
「最近は、本当に仕事が減ってきてるから……。うちも変化を考えなきゃね」
母の声は穏やかだったが、その底には確かな焦りがにじんでいた。
確かに、最近は注文が減っている。
以前は金のメッキや細工の依頼が途切れることなく続いていたのに、今では工房の炉に火が入らない日も珍しくない。
それでも父は、地元では“先生”として知られていて、近くの学校で理科や算術の手ほどきを頼まれることもある。
だがそれも、ほとんどは地域の頼まれ仕事に近い形で、報酬といえばほんのわずかな礼金があるだけ。
暮らしは、ぎりぎり成り立っている――そんな日々だ。
「じゃあ、今度行くときは、僕も連れて行ってよ!」
僕は口にした瞬間、心臓が早くなった。
言ってから断られるのが怖くて、父の顔をうかがった。
だが父は思ったより真面目な顔でこちらを見た。
「……見たいか、万博を?」
「うん!」
「なら、仕事をこなしておけ。約束は、それができてからだ」
母が横で笑った。
「条件付きね。でも、ちゃんと努力すれば行けるんじゃない?」
僕は小さくガッツポーズを作った。
父の言葉に耳を傾けながら、
僕の心は、すでに万博へと旅立っていた。
蒸気機関、巨大な構造物、ガラスのドーム、精巧な歯車仕掛けの装置。
そして――
思いを巡らせるだけで、胸の奥がじんわりと熱を帯びた。
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万国博覧会――それは、近代の列強たちの「武器なき戦場」であった。
万国博覧会(Exposition Universelle)とは、世界中の技術・芸術・産業を一堂に集め、国家の力を見せつけるための巨大な見本市である。
もともとは1851年、ロンドンのクリスタルパレスで開催された「第一回ロンドン万博」が始まりで、以後、列強は競い合うように博覧会を開催するようになった。
国家の威信、誇り、先進性を示すことこそが第一の目的であり、ただの市民の見世物ではなかった。
出展される機械、建築物、科学技術のすべてが、“自国がどれだけ文明化され、強く、美しく、豊かであるか”を他国と見比べる材料となった。
会場の大きさ、建物の高さ、展示品の量――すべてが“国力”の証だった。
戦場で流す血ではなく、ガラスと鉄で組まれた塔や、機械仕掛けの動力装置がその国の力を雄弁に物語った。
フランスにとってはなおさらだった。
ナポレオン三世の治世下にあるこの博覧会は、国内の結束を示し、ヨーロッパ諸国にフランスの地位を知らしめる舞台だった。
背後には、イギリス、ドイツ(プロイセン)、ロシアといった列強たちとの駆け引きがある。
さらに――それは「文明化の使命(Mission civilisatrice)」という名のもとに、植民地支配を正当化するための装置でもあった。
会場には、アジア、アフリカ、中南米の植民地から持ち込まれた“工芸品”や“人々”までが展示された。
“未開”とされた文化が“文明国”の支配の下にあることを見せつける構造。
万博はつまり――武器を使わない帝国主義の戦場だったのだ。
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朝食を終えると、僕は台所の食器を片付け、作業着に着替えて工房へ向かった。
父はもう一足先に火を入れていて、錬金炉の下には地脈の熱が静かに集まりつつあった。
「昨日の続きだ。縁取りの乾きもよさそうだ」
父がそう言いながら、作業台を指差した。
「今日は印章の加工だな。小さいから気を抜くな」
「うん」
僕は返事をし、指先に意識を集める。
小さな作業でも、集中を要するのは変わらない。
けれど――心のどこかでは、まだ万博のことを思い浮かべながら、
どこか浮ついた気持ちのまま、僕は作業に向かっていた。
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父は朝から出かけていた。
村の学校で教える日だ。理科と算術を子どもたちに教えている。
教師という肩書きは一応あるものの、それで報酬を得ているわけではない。
頼まれてやっている、というのが実際のところだった。
その日、工房の炉は冷えたままだった。
火を入れる予定もない。
注文が減ってきたので、稼働も必要に応じて間引くようになった。
こういう“空白の日”があること自体、別に不思議じゃない。
……けれど、最近はその“空白”が少しずつ増えてきている。
僕は一人、工房の隅の椅子に腰かけて、火の入らない炉をぼんやりと眺めていた。
そしてふと、自分が何のためにここにいるのかを考えた。
(錬金術とは、いったい何なんだろう)
父の背中を見て育ち、自然と弟子入りしたけれど、根本的な問いは常に胸の奥にあった。
錬金術は、遠い昔――アッバース朝の時代に、アラビア世界からヨーロッパへと伝えられたと聞いている。
学者たちは文献を翻訳し、そこに含まれる不思議な術式と理論を神秘の学問として受け取った。
けれど、実際にそれを使った最初の使い道は、詐欺だったらしい。
銅や鉛に金箔を貼り、あるいは魔術式で一時的に金色に変え、
「金が作れる」と騙しては金貨を巻き上げる――そんな話が文献にも残っている。
錬金術はもともと、「卑金属を貴金属に変える技術」として扱われていた。
だが、その多くは実際に金に変えたのではなく、単に表面を“それらしく”装っただけだった。
今、僕たちがやっている“メッキ”の原型だ。
もちろん、すべてが偽物だったわけではない。
かつて錬金術が精錬や金属加工の技術として発展していた時代も確かに存在した。
たとえば――
かつて王国の英雄が用いたという、錬金術で鍛えられた剣の逸話。
その剣は今も首都の博物館に展示されていて、僕も一度だけ見たことがある。
無数の戦いをくぐり抜けたその剣は、美しく、そしてどこか不思議な光沢を放っていた。
柄の奥には、術式を刻んだ痕跡がかすかに残っていた。
(あれを錬金術で仕上げるのに、いったいどれだけの人手と時間がかかったんだろう)
僕は視線を、机の上に置かれた小さな真鍮製の印章に移した。
昨日の昼から作業に取りかかっていたそれは、まだ途中のままだ。
金の縁取りを施し、安定させる――
ただそれだけの工程に、数時間を要する。
たったこれだけの小さな物に、だ。
工業的な製鉄が普及した今となっては、その手間は想像もできないほど途方もない。
大量に安く、安定して供給される工業製法に、錬金術は仕事を奪われていった。
そして皮肉なことに――
錬金術に残された唯一の“市場価値”が、かつて詐欺に使われていたメッキだったということだ。
その事実を思うたびに、胸が少しだけ苦くなる。
僕にはもうひとつの視点がある。
――僕が生きていた、もうひとつの世界。
電機メーカーで働いていた記憶の中には、錬金術など存在しなかった。
今、ここで見ている錬金術の原理は、
どうしても――原子の結合に干渉しているようにしか見えない。
分子構造、結合エネルギー、電子の遷移……
科学の言葉でなら説明できるはずの現象が、
錬金術の世界では“魔力”や“反応”という名で語られている。
錬金術の本質は、まさにそこにあるのではないだろうか。
子どものころから自然と身につけていた知識が、そう語りかけてくる。
(もしかすると、これは生かせるかもしれない)
ふと目をやると、工房の木製の机の上に、一枚の読みかけの論文が置かれていた。
メンデレーエフが提唱した、元素の周期表。
今年になって発表されたばかりのそれは、フランスの学会を大いに驚かせたと聞く。
父はそれを、馴染みの文献商を通じていち早く入手し、
今も書き込みの跡が残るまま、大切そうに机の上に置いていた。
僕はその表を見つめながら、ある元素に目を留めた。
Si――ケイ素、シリコン。
そして、そのすぐ下。
周期律に従えば、そこには“もう一つの鍵”があるはずだった。
けれど、枠の中にはただ一つ――「—」の記号があるだけだった。
(ゲルマニウム……)
記憶の中の世界では、ごく当たり前のように使われていた物質。
工業高校の教科書にも載っていたし、製品の構造図には何度もその名が出てきた。
けれど今、この時代にはまだ発見されていない。
当然ながら、手に入れることも、試すこともできない。
僕には、どこで産出されるのかも、どうやって精製するのかも分からない。
それでも“当たり前”に存在していたという事実――
それがどれだけ恵まれた時代だったのかを実感する。
(ゲルマニウム……名前のとおり、ドイツで見つかるのだろうか?
北ドイツ連邦か、あるいはオーストリア=ハンガリー帝国か……)
どこかの鉱山の中に、まだ“名もなき元素”として眠っているのだとしたら。
そしてその物質は、やがて世界を変える鍵になる。
初期のトランジスタ――電流を制御するための電子部品。
その原型は、シリコンではなく、このゲルマニウムを素材にして作られた。
僕がかつて知っていた未来の世界では、コンピュータも、通信機器も、すべてその原理の上に築かれていた。
(そんなものが、この世界にも作れたら……)
僕はじっと、周期表の空欄に目を落とした。
(僕は、――半導体を作れるのだろうか)
まだ分からない。
けれど、この世界の“錬金術”という技術を使えば、あるいは――
僕は再び工房の方へ目をやった。
冷えたままの錬金炉が、静かにそこにあった。




