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2.錬金術

家に帰ってからも、旅の道中でも、僕は父にしきりに歴史のことを尋ねた。

王政はどこから始まったのか、オランダとの関係はどうなったのか、言語の問題はどう扱われているのか……。


もちろん、そんな話を繰り返せば、父の顔にも疲れが見えてくる。

はっきりと口にこそ出さなかったが、「なぜそんなことを何度も聞くのか」とでも言いたげな目を向けられることが増えた。

時折、少し不審そうな様子さえ見せていた気もする。


だが僕にとっては、それがどうしても必要な確認だった。

目を覚ましたときに押し寄せた記憶――令和という未来の断片。それがどこまでこの世界と一致しているのかを、どうしても確かめたかったのだ。


そして、答えは……おおむね、一致していた。


この国は確かに、僕がかつて学んだ「ベルギー」として成立していた。

王政、国語問題、独立の背景、列強の利害、そして中立という立場。

細部の違いはあれど、歴史の大筋は、僕の知っていたとおりだった。


ーーーーーーーーーー


ベルギーという国家は、19世紀中盤のヨーロッパにおいて、戦略と偶然によって生まれた存在だ。


ナポレオン戦争後の秩序が再構築されると、ベルギー地域はオランダと統合され、「ネーデルラント連合王国」の一部とされた。

だが、これが新たな軋轢の始まりとなった。


その不満がついに爆発したのが、1830年のベルギー独立革命だ。

ブリュッセルに始まった蜂起は、南部諸州全体へと広がり、臨時政府の樹立とオランダからの分離を宣言するに至った。


だが、オランダ王国は新国家の独立を認めず、国際的な承認も得られていなかった。

この膠着を解いたのが、ロンドンで開かれた列強会議(1830–1831)。


イギリスとフランスはベルギーの独立に理解を示し、“中立で軍事的に弱い緩衝国家”として存在させることで、欧州の均衡を保つという妥協が成立した。


ベルギーは、「独立国」として生まれながら、その成り立ちは列強の調整の結果であり、またその後の国際秩序の中で常に列強の思惑に左右される運命を背負っていた。


ーーーーーーーーーー


僕の記憶が正しければ、いずれこの小さな王国は、

列強の衝突の只中に巻き込まれ、国そのものが「西部戦線」と呼ばれる戦場になる未来が待っている。


そのことを考えると、今目の前にあるこの穏やかな田舎の風景さえも、どこか儚い夢のように思えてくる。


「レオン、ごはんよ!」

母の声が廊下の向こうから届いた。


その響きがあまりに自然で、僕は現実に引き戻される。

あわてて手元のノートを閉じ、椅子を静かに引いて立ち上がった。


台所には、焼いた根菜とスープ、それに素朴なライ麦パンが用意されていた。

素朴だが、こういう食卓にはどこか安心感がある。


「首都から帰ってきてから、ちょっと様子が変よ? 何かあったの?」


母さんがそう言いながら、スープをよそってくれる。

やさしい目をしているけれど、勘は鋭い人だ。


「いや、特には……。ちょっと人混みに酔っただけかも」


苦笑しながら返すと、母はそれ以上追及せずにパンを切り分けた。


この家には電気がない。

だから夜は早い。

ランプの明かりだけが頼りで、その油も高価で貴重なものだった。

だから、眠るのも、起きるのも、自然と太陽に合わせた生活になる。


僕の家があるのは、村のはずれだ。

畑と草地に囲まれた、ぽつんとした一軒家。

通りから少し離れていて、訪ねてくる人も少ない。


玄関を入ると右側が工房、左が居住スペースだ。

工房には錬金術のための器具が整えられ、壁際には小さな炉が備わっている。

居間と台所は繋がっていて、奥に母の寝室と僕の部屋。

書斎は工房の奥にあり、父が長年書きためた錬金術の記録がぎっしり詰まっている。


――この小さな家で、僕は育った。

この場所で、錬金術を学びはじめた。


ーーーーーーーーーーー


朝の光が窓辺に差し込む頃、家はもう静かに動き始めていた。

母が火を起こし、鍋の蓋を開ける音。湯気がゆらゆらと天井へ昇っていく。

この家には電気がない。だから、朝は暗いうちから始まる。


「レオン、ご飯できたわよ」


木の椅子を引く音とともに、僕は朝食の席についた。

焼いた黒パンと、昨晩の残りのスープ、それに干し肉を温めたもの。特別なものはないけれど、体の芯に染みる食事だった。


「今日は、薬瓶の縁取りか」


向かいに座った父がスープをすすりながら言った。

その口ぶりは淡々としていたが、僕には“今日も同じように仕事がある”という安心が含まれているように聞こえた。


「注文書には金か銀か書いてなかったけど、あの家紋ならたぶん金だと思う。前にも見た気がするし」


僕はそう答えながら、頭の中で作業の手順を組み立てていた。


かつては錬金術師にも多くの仕事があった。

だが今では、回ってくるのは一点物の贅沢品のメッキばかりになった。

金や銀を薄く施した装飾品、貴族や成金商人の気まぐれな注文。

大量生産できない錬金術では、時代の波に逆らうことはできない。


食事を終えると、僕は手を洗い、エプロンを身に着けて工房の扉を開いた。

重たい木の扉が軋み、ひんやりとした空気が頬をなでる。


工房の中は薄暗く、静寂が支配していた。

厚い石壁と土間は、魔術の揺らぎを外に漏らさぬためのものだ。

棚には薬品の瓶や金属粉、鉱石の箱が並び、奥には小さな錬金炉が据えられている。


中央の作業台には、昨日のまま置かれた銅製の薬瓶が一つ。

今日はこれに金の縁取りを施す。


父が後ろから入ってきて、小さくつぶやく。


「……地脈は安定してるな」


棚の隅に立てかけられた水晶棒が、うっすらと青く光っていた。

この土地――シメイには、浅くて濃い地脈が流れている。

錬金術は地脈から力を引き出すことで、物質の変容を媒介する技術だ。

つまり、術そのものが触媒となる。


父が作業台を示して言う。


「火はお前が」


僕は頷き、深く息を吸い、静かに目を閉じる。

“火を点ける”というより、術式の回路を内側に呼び起こすような作業だった。

心の中で構造を描き、地脈との結び目を探す。

それに軽く触れた瞬間、爪の奥がじんわりと温かくなり、錬金炉の底に白い光が静かに灯った。


表面から見れば、ただじっと念じているだけにしか見えない。

けれどこの瞬間にも、術式は物質にわずかな影響を及ぼしはじめている。

この作業は派手でも劇的でもない。地味で、集中力を要する“仕事”だった。


「金粉を三つまみ。慎重にな」


父の声に従い、僕は小さな匙で光る粉末を計り取る。

手元の動きに注意を向けながら、ちらりと父の机の方に目をやる。


そこには、数枚の書類とともに一冊の冊子が置かれていた。

見開きのページには整然と並んだ記号の一覧が印刷されている。

表紙にはフランス語でこう書かれていた――

《Tableau périodique des éléments, par Mendeleïev》

“メンデレーエフによる元素の周期表”


ロシアの若き天才化学者が今年提唱したばかりのこの理論は、パリの学会に大きな衝撃を与えたという。

錬金術師としては異例の最新科学への興味――だが、父はこういうものを手放さない。

「物質を変える者は、まず物質を知らねばならない」が、彼の口癖だった。


僕は再び視線を金粉に戻す。

均一に散らすだけでも数分の集中が必要になる。

術式と地脈の力が、素材に染み込んでいくように、ゆっくりと、静かに進めていく。


小さなもの一つをメッキするのにも、数十分の念入りな作業が必要だった。

それでも――これは、僕たちに残された、わずかな“本物”だった。

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― 新着の感想 ―
歴史を変えるものは、歴史を知らねばならない。 儚い夢の中の永世中立という、僅かな本物はしかし、頷き、深く息を吸い、静かに目を閉じて、ゆっくりと、静かに進める、地味で、集中力を要する仕事を経て、メッキへ…
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