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1.目覚めの煙と記憶

目の前が、白くかすんでいた。

いや、正確には、目を開ける前から“音”があった。


「レオン! 聞こえるか、レオン!」


誰かが呼んでいる。怒鳴るような、でもどこか心配を帯びた声だ。

それが父さんの声だとわかったのは、その瞬間だった。


「……父さん……?」


喉が焼けるように乾いている。

まぶたが重くて、視界はまだ揺れていた。

まるで夢の中にいるような感覚だったけれど、頬に触れる地面の感触は、あまりに現実的だった。

冷たい石畳。土埃の混じった匂い。そして、耳の奥で響く、「ポーッ!」という汽笛の音。


——汽笛?


その音を聞いた瞬間、胸の奥がぐわっと揺れた。


「よかった……! 急に倒れるから、びっくりしたぞ」


父さんの顔が、にじむ視界の向こうにあった。

歳のわりに深い皺、一張羅の少しくたびれたモーニングコート、そして顔中に浮かぶ安堵の色。

その手が僕の肩に触れる。あたたかくて、少しざらついていた。


「レオン、急に転んで動かなくなるから……」


「あ……僕、転んだのか……?」


そうだ。思い出してきた。

汽笛。蒸気。――そう、僕は蒸気機関車を見にきていたんだ。

父さんに連れられて、初めて間近で見るというので、胸が高鳴っていたのを覚えている。


機関車が目の前を通った。黒光りする鋼鉄の車体。轟音。そしてあの、鼓膜を揺らす汽笛。

あまりの迫力に、僕は……。


「……転んで、気を失って……」


言葉に出した途端、全身を貫くような寒気が走った。


なんだこれ。


目の前にある風景が、おかしい。


人々が着ている服が、映画で見たような古臭いジャケットと帽子だ。

石畳の道を走る馬車。道ばたで売られている新聞には、フランス語が刷られている。

そして、建物。屋根の形、煉瓦の積み方、看板の字体。どれもこれも、どこかで見た「過去」の世界。


……いや、違う。違うんだ。


頭の中に、洪水のように情報が流れ込んでくる。

蛍光灯のまぶしさ。コンベア。安全靴。

図面と仕様書。はんだの匂い。

工場の朝礼。数字と効率。

――そして、“あの時代”の常識。


そうだ。僕は、電機メーカーの技師だった。令和という時代の。


「なんだ、頭でも打ったのか? レオン?」


父さんが怪訝そうに覗き込んでくる。

その表情は、明らかに僕の“困惑”を異常だと感じている。


「父さん……ここは……ベルギー? 今、何年……?」


「どうした、レオン。まだ頭がはっきりしないのか?

ここはブリュッセルだ。年は――1867年だよ。

無理をせず、もう少し横になっていなさい」


1867年。

19世紀。

――ベルギー。オランダからの独立を果たして30年あまりの新興国。

列強の間で揺れながらも、産業の波に飲まれつつある、この場所。


僕の中にあった記憶と、今見ている現実が、重なった。


「おかしい……本当におかしい。僕、確かに……令和にいた。」


錬金術。

そうだ。僕の家は、代々錬金術師の家系として知られている。

とはいえ、どこか時代遅れなものとして見られることもある。

産業革命以降、魔術よりも科学のほうが「現実的な力」として幅を利かせはじめていたからだ。


でも――

この世界では、魔術も錬金術も確かに存在している。


母さんは毎朝、暖炉に火をつけるとき、魔法の言葉を小さく唱えていた。

青白い火が、何の燃料も使わずにふわっと灯るのを、僕は何度も見てきた。

父さんと一緒に鉱石を溶かし、小さな金属の塊に変える錬金術の実験もした。

本物の力だった。


「レオン、本当に大丈夫か?」


父さんが心配そうに訊ねる。

けれど、僕の頭の中はぐるぐると回っていた。


(これは……ただの夢じゃない。僕は、本当に――)


「……僕は、過去に来てしまったんだ」


声に出すと、急にすべてが現実味を帯びた。


父さんは困ったように笑った。「また詩人みたいなことを言って。しっかりしろ。ほら、立てるか?」


僕は父さんの手を借りてゆっくりと立ち上がった。

視界がはっきりしてくると、汽車の吐き出す白煙が、青空の中にゆっくりと溶けていくのが見えた。


あの鉄の塊が、時代を象徴している。

蒸気と鋼鉄の時代。魔術が失われつつあるこの世界で――


(僕は、何ができる?)


まだ震える足で立ちながら、僕は空を見上げた。

僕の知る歴史とは違う未来を、この手で描けるかもしれない。

少なくとも、失うものはもう何もない。


父さんが隣で呆れたように笑った。

「何をぶつぶつ言ってるんだ。ほら、帰るぞ」


「うん」


そう言って並んで歩き出す。

父さんの背中を見つめながら、

僕はふと、ひとり思った。


世界はまだ、電子の夜明け前だ。


ーーーーーーーーーーー


馬車が石畳を抜け、ぬかるんだ田舎道に入ったあたりから、揺れがひどくなった。

体が左右に振られるたび、車輪が泥に沈みかける重たい音が響く。

石畳の硬い振動とはまるで違う、柔らかく不規則な感触が足元から伝わってきた。

まるで、町の時間が過ぎ、僕が“こちら側”に戻ってきたことを告げているようだった。


「……また揺れるぞ、つかまれ」


父さんの低い声がして、僕の肩にそっと手が置かれる。

その手は大きく、皮膚は厚く、節ばった指先がごつごつとしていた。

今日は工房で見るときの作業着姿ではない。

古びてはいるが手入れされたジャケットに身を包み、帽子もきちんと被っている。

商会で働く長兄には到底及ばないが、それでも父なりに“街に出る格好”をしたのだろう。


僕たちはいま、ブリュッセルから故郷のシメイへ向かう乗合馬車の中にいる。

旅の目的は兄達に会うことだった。

でも本当は――汽車を見たかったのだ。

蒸気を吐き、轟音を鳴らして走るあの鉄の巨獣を、どうしても自分の目で見てみたくて、父に無理を言った。

そしてあの汽笛に驚き、転び、そして――目を覚ました。


「顔色、まだ冴えないな」


父がちらりと僕を見る。

無理もない。あの瞬間から、何かが変わった。

汽車の前で倒れたとき、僕は確かに思い出してしまった。

令和という名の未来の時代を生きた、もう一人の自分の記憶を。


でも、それをどう説明すればいいのか、僕にもわからなかった。


「疲れが出たんだよ。慣れない街と、汽車と……兄貴たち」


僕はそう言って、誤魔化すように笑った。

父は「ふむ」とだけ返して、窓の外に視線を戻した。


田園風景が広がっていた。

遠くには小さな教会の尖塔が見え、風に乗って牛の鳴き声がかすかに届いてくる。


「……兄さんたち、すっかり都会の人だったな」


ぽつりとこぼすと、父さんは少し笑った。


「ああ。長男なんて、もうすっかり“商会の顔”だ。服の仕立ても、靴のつやも違う。言葉遣いも柔らかくなって……まるで別人みたいだった。次男も軍服が似合ってきた」


「なんだか……俺だけ取り残されたみたいだ」


「お前はまだ十七じゃないか」


「でも、もう学校は卒業した。進学は……しない。だから、俺は……」


家業を継ぐんだろう、と言おうとして、言葉が途切れた。


兄たちはそれぞれの道を選んだ。

錬金術なんて時代遅れだと、笑って、迷いも見せずに背を向けた。

僕だけが、父のもとに残っている。見習いとして。


もう、ベルギーの大学では錬金術を教えていない。

かつてはどの大学にも魔術学部があり、その中に錬金術課程が存在した。

けれど時代が変わった。

最後まで錬金術を教えていたブリュッセルの国立大学も、二十年前にその課程を閉鎖した。

今では魔術学部そのものが縮小の一途をたどり、いずれ消えるとまで囁かれている。


錬金術はもう、この国では学ぶ場所を失った技術だった。


だから、僕は家で学ぶ。父のもとで。

書斎の奥に積まれた革表紙の書物と、棚に並ぶ実験器具。

それを幼い頃から、僕は憧れをもって眺めていた。

けれど父は、「錬金術に未来はない」と僕を弟子にすることを渋っていた。

それでも僕は諦めなかった。説得を重ね、頼み込み、三年前にようやく正式に弟子入りを許された。


「父さん、ご先祖様がシメイに住み始めたのは、地脈の関係なんだよね?」


不意にそう尋ねた。


「この土地には、浅くて濃い地脈が通っている。錬金術の反応に必要な魔力を安定して引き出せる場所は、そう多くはない。だから、ご先祖様はここを選んだんだ」


父は、そう言って静かに目を細めた。


「……魔女狩りの時代に?」


「ああ。あの頃、フランスでは錬金術師も片っ端から捕まった。ご先祖様は命からがら国境を越え、こっちに逃げてきたんだ。ワロンの人々は、フランスに比べてずっと寛容だったからな」


「それでも、田舎だよ」


「だが、生き延びて技術を継ぐには、それが必要だった」


父は窓の外を指さす。

そこには、穏やかな森と、なだらかな丘陵が広がっていた。

都会のような利便性も派手さもない。けれど、ここには確かに“落ち着く”空気が流れている。


「……今じゃ、都会では電気でメッキができるらしいね」


僕はぽつりとつぶやいた。


「そうだな。錬金術で金属を扱うより、ずっと安くて早いらしい。電気を流すだけで、均一に、しかも大量にメッキができる」


父は苦笑した。だが、その目は少しだけ鋭くなっていた。


「メッキの仕事はもう来なくなった。昔はうちに頼まれていた仕事も、今じゃ電気仕掛けの職人に流れてる」


少し間を置いてから、父は言葉を継いだ。


「だがな、うちはメッキだけじゃない。……他にもあるさ、やることは。あー、あるとも」


空元気だった。でも、その声音はどこか寂しげだった。

錬金術師の特権であった、精密でムラのないメッキ技術は電気の力の前に陳腐化しつつある。


僕はふと、ポケットの中の小さなノートに手をやる。

そこには、目を覚ました2日前から浮かび始めた“未来の記憶”を、できるかぎり書き留めていた。


この時代にはまだ存在しない素材。

回路。部品の構造。

そして、この国がこれから歩むであろう苦難の歴史。


それは、確かに僕の中に“あった”。


(……俺には、何ができる?)


ふと、馬車が大きく揺れて思考が途切れた。


「……あの曲がり角を抜けたら、もうすぐシメイだな」


父が帽子を整えながら言う。

窓の隙間から、懐かしい匂いが流れ込んできた。


しっとりと濡れた土の香り。薪の煙。遠くで犬が吠える声。


「……ああ、帰ってきたんだな」


僕はそうつぶやいた。


「明日から、また仕事だぞ」


「……わかってる」


馬車が止まり、重たい戸がぎいと開く音がした。

僕たちは荷物を手に取り、ぬかるんだ地面へと足を踏み出した。


家までは、ここから歩いて十五分。

「ただいま」の挨拶と、火のぬくもり。僕は帰ってきた。

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日本人がベルギー人に転生か、面白い巡り合わせだな。 史実では、アメリカの新聞社が日本に対して批判的な記事を出したらベルギーの公爵だったか伯爵がその新聞社にクレームを入れて削除させたってことがあったはず…
うむ。非常に面白い。 この時代のベルギーは独立間際だがそれでいて大国の緩衝国家として重要だ。 ドイツ諸侯の統一戦争にフランスの対独意志、英国の巨大経済圏それらに挟まれた“ベネルクス”の最大陸軍を所有す…
多様性と団結の国ベルギー。令和日本から遠く150年以上遡り、この時代のベルギーに転生した少年、レオン。産業と民族国家主義とが過去かつてなく隆盛していくこの地、この時代において、寂れ消えゆく魔術と錬金術…
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