報われなかった恋の話をしようよ②
千春が悠理の隣に座って、10分ぐらい経っただろうか。
夜通し泣きはらしたであろう目元は真っ赤で、ひどい隈ができている。
いつもの元気で快活な千春とは余りにもかけ離れたその姿に、悠理は胸を痛めた。
しかし、悠理から声をかけたりはしない。
きっと何か伝えたい事が、相談したい事があって、他の誰でも無く悠理を選んでここに来たのだろうから。
だからずっと、幾らでも。
千春がその口を開く覚悟が決まるまで、悠理は待ち続けるつもりだった。
『ふぇええええ……うぁあああああっ!!』
どこからかけたたましい泣き声が聞こえてきた。
ケイオスの一番幼いメンバーである美守が、お昼寝から起きたのだろう。
目覚めてすぐに母親を探し、どこにもいないと寂しがって泣いているのだ。
もうすぐその泣き声を聞いたいくみや他の子供達が慌てて美守をあやしに来る筈だ。
毎日では無いが、この第二小ではよくある事だ。
美守の母親である有美は生活班の一員として誰よりも頑張って働いている。
父親を失ったまだ幼い美守を育てる為に、自分と手間のかかる美守をケイオスで保護してもらう為に。
悠理や愛蘭、他の生活班のメンバーはそんな有美に、『そんなに気負わなくていい』と何度も伝えているが、やはり心配なのだろう。
戦闘に参加できず、娘と二人して食料を消費するだけの存在とみなされれば、いつかケイオスから追い出されてしまうのでは無いかと、ある種の強迫観念に突き動かされているのだ。
勿論そんな理由で大河が、そして愛蘭が二人を追い出すなんてあり得ない。
有美もそれは充分理解している。
しかし良く泣き良く笑い、そして良く食べる美守がケイオスの負担と認識されてしまえば、万が一があり得ると。
だから母親として、有美は美守の為に身を粉にして働き続ける。
『みぃちゃん、おっきしたの?』
『だいじょうぶだよー。ママもすぐ戻ってくるからねー』
『コウくん、みぃちゃんのおやつ持ってきてあげてー』
『りょうかーい。みもりー、クッキー持ってきてやるからなー』
『おねえちゃんが抱っこしてあげる。ほーら良い子良い子』
階下で子供達が美守をあやす声が聞こえる。
風通しを良くする為に窓を全開にしているからだろう。
その声の中には、さっきまでグラウンドでドッヂボールをしていたはずの男の子たちの声も混ざっていた。
『まぁまっ……ぐすっ、まぁま……』
ぐずる美守の声が、徐々に小さくなっていく。
ケイオスの子供達は偉いなぁ。
悠理はそう考えて、隣の千春をチラリと見た。
いつもなら千春だって、子供達と一緒に美守をあやしに駆けていただろう。
面倒見が良く優しい千春は、年少の子供たちを放っておけないから。
だけど今は、美守の泣き声すらその耳に届かないほどに打ちのめされている。
恋をしていたから。
小さなその胸に無自覚に秘めたその恋が、恋と気づいた時に失われたから。
誰かを好きになる事が、どれだけ心と身体に影響を与えるのか。
悠理はそれを知っている。
だから悠理は、千春の気持ちに寄り添って居たい。
恋と愛を知った、女同士なのだから。
「……あの人を、助けてあげたいって」
ぼそりと、喉から絞り出すように。
千春は掠れた声で喋り出した。
ろれつが回ってないように聞こえるのは、きっと泣き出しそうになるのを必死に堪えているから。
「救ってあげたいって、思っちゃったんです……」
「うん」
一度頷いて、悠理は千春の頭を優しく引き寄せ、頬を寄せた。
「あの人は、悪い人で……千春以外のみんなが、あの人に死んで欲しいと思ってたのに……千春はあの人を、抱きしめたかったんです」
「うん」
ふるふると震え始めたその肩を優しく撫でる。
「なにもかも、分からない人でした。本当のお顔も、本当の名前も……千春は知りません」
「うん」
「どんな気持ちで、千春たちと一緒に居たのかなんて、想像すら出来なくて」
「そうだね」
「リーダーと戦っていた時の、あの人の声が……話してくれた過去が、あまりにも可哀想で……」
「うん」
「助けてあげなきゃって、慰めてあげなきゃって……思ってしまったんです」
「うん」
悠理が相づちを打つ度に、千春の声が濁っていく。
「だって、だって──」
「良いよ。言いたい事、言わなきゃどうしようも無い事、全部言おう。私はちゃんと聞いているから」
そうしなければ、きっと千春の心が壊れてしまう。
「──っ!」
悠理のその言葉に顔を上げた千春の表情は、悲痛。
唇を噛み締め、目を細め、涙を堪え。
だけどもう、限界だった。
「……うっ、うぅううううっ」
ぽろぽろと零れる新しい涙が、頬を伝って落ちていく。
悠理は千春の頭をそっと引き寄せ、胸元へと優しく押しつけた。
「優しかったんです……っ! 祐仁くんはっ、千春に優しくしてくれてっ! あれが嘘だったなんて、思えなくてっ!」
悠理の着ているTシャツの裾をぎゅっと握って、千春は想いを吐き出した。
「……うん」
正直な気持ちで言えば、悠理は千春の思い人──あの祐仁の事が嫌いだ。
この中野でたくさんの人を傷つけ、虐げた。
確かにそれも許せない。
しかし一番許せなかったのは、大河の心を傷つけた事。
大河が必死に隠し通そうとして来た過去を、あんな簡単に暴き出し、辱めた事。
それがなにより許せなかった。
千春が悠理を頼ってきたのは、他のメンバーより歳が近く、そして大河と言う明確な恋人が居たからだろう。
きっと悠理なら、千春自身にもどうすることもできない想いを、理解してくれるので無いかと言う、期待があったのだろう。
でも実際の所、悠理が千春へとかけてあげられる言葉はそんなに多くない。
だからせめて、その悲痛な想いを全て受け止めてあげたい。
堰を切ったように泣く千春の言葉を、悠理は長い時間をかけて最後まで逃さず聞き届けた。
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「悠理っ! 千春がどこに行ったか知らな──ああ、良かったぁ……ここに居たのね」
時刻は夕暮れ。
屋上へと続く扉を勢いよく開けて出てきたのは、愛蘭だった。
汗が滲んでシャツが張り付いているその姿から察するに、姿が見えず連絡も取れない千春を心配して走り回っていたのだろう。
「うん、泣き疲れて眠っちゃったみたいだから、しばらくこうさせてあげたいの」
膝の上で寝息を立てる千春の頭を撫でながら、悠理は優しく笑う。
「だからごめんね愛蘭さん。私もしばらくここから動けそうにないみたい」
「ううん、むしろアンタも休ませてやりたかったところだから……申し訳ないけど、その子の事お願いね?」
愛蘭はそう言ってジーンズの右ポケットからスマホを取り出し、画面を操作して薄手の掛け布団を取り出した。
丁寧に広げたその掛け布団、優しく千春の身体を包んだ。
高温多湿の中野とは言え、夜が迫れば少しだが気温も下がる。
「大河達、もう起きた?」
「廉造は起きてきたけど、大河と海斗はまだ寝てるみたい。本当に疲れていたのね」
「そっか……」
咎人の剣のスキルやアビリティで消費されるのは体力だが、これまでの経験上、精神力もすり減っているのかも知れないと悠理は考える。
大きな戦いの後、大河は決まって普段からは考えられないほど深く長い眠りに就くからだ
「もし大河が起きてきたら、私はここに居るって事だけ伝えて欲しいの」
「うん。じゃあウチは夕飯の仕込みに行ってくる」
「手伝えなくてごめんね?」
大所帯であるケイオスでは、人数分の食事を用意するのも一苦労だ。
食べ盛りである子供達もそうだが、戦闘で疲れて帰ってくる戦闘班のメンツもよく食べる。
普段は悠理と瞳がメインとなって、生活班の皆で一丸となって準備するのだが、今日だけはここから動けそうにない。
「良いよ」
ひらひらと手を振って愛嬌たっぷりに笑い、愛蘭は校舎の中に戻っていった。
愛蘭の姿を見送った悠理は、しばらく薄く暗い空を仰ぎ見て、そしてゆっくりと千春を見る。
「……千春ちゃん」
すっかり暗くなった第二小の屋上で、少しだけ強まった風に悠理の髪が靡く。
「千春ちゃんには言えなかったけど、少しだけ。本当に少しだけ、千春ちゃんの気持ちが分かるの」
穏やかな寝息を立てる千春を起こさないよう、細めた声で呟く。
「好きになった人が、みんなから憎まれていても。嫌われていても」
さらりと、千春の髪を梳く。
「どんなに酷いことをしたとしても、きっと私は大河を好きで居続ける。だって、大河は私の全てなんだもん」
もしもこの先、大河の心が壊れ、人に忌避される存在に成り果てたとしても。
きっと、そこに至る原因が必ずある。
なぜなら今の大河が最もそれを恐れているから。
だから悠理は、最後の最後まで大河の隣に立ち続けるだろう。
「千春ちゃん……私はね?」
寝ている千春には届かない言葉。きっと千春の心を救えないであろう、酷い言葉。
しかしその言葉は、嘘偽らざる悠理の本心だ。
「どんな結末を迎えたとしても、大河と一緒に、大河の隣で死にたいんだ」
大河があの祐仁のような見下げた悪党に成り下がろうが。
心を失い、剣を振るう事しかできない獣になろうが。
最後の最後に大河がその目に映すのは、自分でありたい。
大河の死を見届けて、そして自分も死にたい。
この理不尽で残酷な廃都・東京で、もしかしたらあり得るかもしれないそんな結末。
悠理は少し前から、その結末を迎える覚悟をそっと固めていた。
「……さて、と。なにしようかな」
ベンチの隅に置いていた本を手に取り、しかしもう暗くなって文字が読みづらくなっている事に気づき、また本を戻す。
千春を起こさないように気をつけながら、身につけているハーフパンツの左ポケットからスマホを取り出した。
特に何かあるわけでなく、手持ち無沙汰になっただけだ。
「あれ……? メッセ欄に未読が40件?」
今日は読書に集中する為に、スマホを消音設定にしてあった。
だからこんな大量のメッセージに気づかなかったのだろう。
「だれだろ」
悠理とメッセでやりとりするメンバーは大体決まっている。
主に大河、たまに愛蘭か瞳か香奈。
膝の上で寝ている千春もそうだ。
「朱音さんから?」
メッセ機能を開くと、画面端にずらりと並ぶフレンド登録者。
その一番上に、少し懐かしい名前を見つけた。
池袋で別れたかつてのパーティメンバー。
瀬田朱音。
中野区に入る前までは頻繁にメッセージでのやりとりをしていたのだが、最近は一件も来なくなっていた。
「急にどうしたんだろ……」
そう独りごちて、悠理はスマホを操作して一番新しい未読メッセージを開いた。




