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東京ケイオス  作者: 不確定 ワオン
征服者の祭壇《アラ・ヴィクトルム》
210/234

生きている実感を〝アタシ〟に③

 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


『お疲れ様……海斗くん……』


 柔らかく甘い匂いに包まれて、海斗は微睡(まどろ)んでいる。


 ずっと焦がれていた、愛おしい女の胸の中。

 どんなに強がっていたとしても、どんなに虚勢を張っていたとしても、やはりここに誤魔化しは無い。


 海斗が心から安らぎを得る事が出来るのは、紡の腕の中なのだから。


『疲れたね……頑張ったね……逢いたかったよ海斗くん……』


「あ、ああ……俺もだ。俺もだよ……紡……」


 まるで小さな子供の様に、海斗は蕩けきった目を細めて気持ちよさそうに紡の胸に顔を(うず)めた。


 事実上、肉親の縁が全て途絶えた海斗にとって、紡は唯一の理解者であり、妻であり、母である。


 みっともない所も、弱い所も全て曝け出して、それでもなお自分を愛してくれた。

 たった一人の女性(おんな)


 東京が異変に見舞われ、紡が待つ蒲田に帰宅することが困難と判明した時。


 海斗の絶望は深かった。


 ただ同じ時期に廉造と出会った事で年長者としての意地や見栄を張った結果、ギリギリで表層化しなかっただけだ。


 本当はずっと、叫びたくてたまらなかった。

 付き合ってもう七年。

 結婚してからは四年。


 それなりに喧嘩もしたし、倦怠期らしき時期も通り過ぎた。


 だが紡を愛おしく感じるこの想いだけは、その熱だけは、決して消える事は無かった。

 

 だからもう、その姿を目の前にしてしまっては。


 海斗は何も取り繕えない。


『疲れたでしょう……? ゆっくり休もうね……このまま抱きしめてあげるから……暖かくして……もう寝ちゃおう……?』


 時間が緩慢に流れていると錯覚するほどに、心地よく耳に優しい声に身を預ける。


 紡の言葉に従って、そのまま目を閉じて寝てしまいたい欲求が抑えられない。


 その時、鼻の奥にツンとした──鋭い匂いが通り過ぎた。


 それはお世辞にも良い匂いとは言えない刺激臭。

 鉄と塩を同時に舐めたような得も言われぬ不快感に、海斗は眉を顰める。


(なんだ……これ……)


 始めは小さな違和感としか感じなかったその匂いが、次第に鼻の奥で存在を大きく発し始めた。


 同時に、微睡(まどろ)みの海に揺蕩(たゆた)う海斗の意識が急速に覚醒へと浮上し始める。


(……俺は、まだ)


『良いんだよ海斗くん……海斗くんはいっぱい頑張ったもの……たくさん、たっくさん頑張って、もうクッタクタだもんね……』


「いや、俺は、俺には、まだやるべきことが……れ、廉造が……大河が……」


 そうだ。


 自分は一体何をしているのだ。


 可愛い弟分達が、愛すべき馬鹿達が必死に戦っていると言うのに、なぜ自分はこんな場所で眠ろうとなんてしていたのか。


「つ、紡……俺は、俺はアイツらを……あいつ──」


『──いいの』


 か細く弱々しい海斗の声を遮るように、紡は言い放つ。


『だって、海斗くんは頑張りすぎたもの。みんなのお兄さん役を、お父さん役を。海斗くんだって辛いのに、文句も言わずに働いてきたのに。みんなみんな、都合良く海斗くんを頼って、無責任だよね?』


「俺が……頑張った……?」


『そう、海斗くんは頑張りすぎだよ。だから少しぐらいお休みしても、誰も何も言わないから……だから……』


「そうか……確かに……俺は……」


 本当に、そうだろうか。


 確かに練馬から中野に至るまでの旅程で、そして中野に到着してから今の今まで。


 海斗は矢面に立ち続けて来た。


 廉造を守る為に戦い続けて来た。

 ケイオスの中核を担うメンバーとして前衛を担い、戦い続けて来た。


 命の危険を感じた経験なんて両手両足じゃ数え切れない。


 しかしそれは──。


「俺、なんか、より──」


 そうだ。


 自分よりも遙かに、重すぎる責任を背負って傷ついている馬鹿がいる。


 肩の力を抜くことすら不器用で、放っておけない馬鹿がいる。


 そんな馬鹿をなんとかフォローしようと、理解しようと、必死に食らいついている愛すべき馬鹿ももう一人いる。


 かつての荒れていた幼少期から高校時代の自分を見ているようで、捨て置けない弟分二人が、自分なんかより必死に、そして危険な場所で戦い続けている。


「俺は、眠ってなんか……いられない」


『ううん、海斗くんはもう休んでもいいんだよ? だってこんなにも疲れてる……みんなの前で弱音を吐けない海斗くんだから、誰にも疲れているって言えない海斗くんだから、ここで休まなきゃだめなの』


 紡がその甘く優しい声を発する度に、海斗の意識が深い眠りへと誘われる。


 しかし海斗にはもう、理解できていた。


 なぜなら──。


「紡、ごめんな。俺はアイツらを見捨てる事なんざできない。本当のお前なら、きっと分かってくれるよな?」


 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


「──え?」


 海斗の腰に馬乗りで跨がっていたジュリの白く艶のある腹部に、ハヤテマルの長い刀身が深く突き刺さっている。


 切れ味が鋭いその刃は、まるで豆腐を刺したかのようにすんなりと、抵抗も無く腹を貫通していた。


 背中側の腰から、血の纏わり付いた(きっさき)が飛び出ている。


 地面に次々と滴り落ちるその赤い滴は、土を巻き込んで粒となり、徐々に大きくなっていく。


「──なん……で?」


 呆気に取られた表情のジュリが、仮面の奥に隠した両目を見開いて海斗の顔を凝視する。


「……アンタのお陰で、良い夢が見れたよ。幻でもなんでも、紡の顔を見れたのは正直嬉しかった。だけど」


 海斗はそう語りながら、左手だけで掴んでいたハヤテマルの柄を、ぐっと持ち上げて両手で握る。


「俺の嫁は、たとえ夢や幻の中でも俺に都合の良い事を絶対に言わないんだ」


 苦しんでいる仲間を放って、海斗だけが楽をする事を認めてくれない。


 戦っている弟分を放って、海斗だけがふんぞり返っている事を許してくれない。


 海斗の愛した紡はいつだって海斗以上に、海斗の正義に妥協しない。


 惚れた男の信念が折れるのを良しとしない。

 惚れた男の真義に悖る行動を是としない。


 心の底から惚れた男が、その生き様を汚すような存在に成り果てるのを黙って見ていられない。


 だからこそ、海斗は紡を愛しているのだ。


 どんなに苦しい時も、一緒に苦しんでくれる。

 迷った時、共に考え、共に歩んでくれる。


 夫婦として永遠を誓いあった二人は、幸せも困難も分かち合うモノと。


 強大な誰かの意思で己の信念をねじ曲げるぐらいなら、ぶつかって来いと背中を蹴りあげる女だ。


 その結果がどうなろうと、一緒に歩む事を辞めたりしないと、平然と言ってのける女だ。

 海斗はそんな紡に救われ、そして惚れ込んだのだ。


「あはっ……あはは……奥さんのこと……愛しちゃってんだぁ……やっぱり、お兄さんは良い男……だなぁ」


 苦痛に顔を歪めるジュリは、決して海斗の顔から目を逸らさない。


「うふっ、うふふっ……」


 痛みに耐えきれず、その双眸に大粒の涙が浮かび上がっても、決して海斗の腰の上から退こうともしない。


「……お前、死ぬぞ」


 この程度の刺し傷、今の東京のシステムで言えばまだ致命傷には程遠い。

 

 すぐにハヤテマルの刀身を身体から抜き、なんらかの回復手段を取れば、命を繋ぎ止められる余地が充分に残されている。


 だがジュリは左手でハヤテマルの刀身を固定するように握っている。

 

 その手のひらに新しい刀傷が増え、血を流すほど強く、握り続けている。


「……も、もうすこし毒を流しておかない……と……お兄さんすぐにカネくんを殺しにいっちゃう……じゃない?」


 右手の人差し指に光る『毒爪ソニア』の先端は、まだ海斗の心臓の少し上に刺さったままだ。

 そこから流れ出る毒が、自分の身体を徐々に弱めていく感覚がはっきりと感じ取れる。


「お、お兄さんやあそこの子をもう少しここに……留めておかないと……王サマやミヤくんが……ちゃんと終われない……から……」


「……自分の命を賭けてでも、仲間の邪魔をさせないってか」


「……あはは、じ、実はそ、そんな格好いい理由じゃ、ないんだなぁ……こ、これが──」


 ジュリは首を大きく持ち上げて、空を仰ぎ見る。


 雲一つ無い晴天。


 今日の中野は亜熱帯に珍しく、湿気の少ない暑さだ。


「──これが、〝痛い〟って感覚だったねぇ……」


 ジュリの目元を隠していた仮面が落ちる。


 両耳の付け根で眼鏡の様に固定していたその仮面が、ジュリの腹部に突き刺さったままのハヤテマルの刀身にこつんとぶつかり、そして広場の床に転がった。


「ああ……良かった……アタシ……やっぱりちゃんと、生きてた……」


 様々な色のメッシュで鮮やかに彩られたその髪。


 しなやかで男好きする肢体。


 露出が多く、派手な下着。


 発言や行動、為してきた悪行からイメージできたジュリの仮面の下の顔、それは海斗が想像していた派手な姿と大きく離れ──どこか素朴な印象を受ける、透明感のある美女だった。


「ああ……痛い……ちゃんと痛い……うふふっ、これが、自分の命が消えかかっていく時の……痛み……」


 陶酔。


 その大きな目が、小さな唇が。

 

 酒に酔ったかのように蕩ける。


「……お前」


 今まさに自分が刺し殺そうとしている相手に、海斗は思わず心配を含んだ声をかけてしまう。


「……アタシは、ずっと、自分の肌から外側の感覚を……無くしていた……から……」


 掠れ行く声。


 強ばる身体。


 だがジュリは少しでも海斗をここに縛り付けようと、どこか演技臭い声色で、語り始める。


「た、たくさんの、男の人に、乱暴された時、自分に起こっている酷い事とか……周りで起こっている地獄みたいな光景が、なんだかとても現実味が無くて……」


 ふるふると唇を震わせながら、ジュリはゆっくりと海斗の視線と自分の視線を合わせた。


「き、気づけば、痛いとか……熱いとか……冷たいとか……自分の肉の外の感覚が……感じられなくなっていたんだぁ……」


 その表情は、不敵。


 どこまでも蠱惑的に、そして魅力的に。


 ジュリは淫靡に笑う。


「じ、自分が本当に生きているのか……それともあの時……死んでいたのか……分からなくなって……でも、アタシの(ナカ)で硬くなった男の人が柔らかくなった時……強烈な生の熱が、ゆっくりと冷たくなっていくあの感覚……あれだけは……しっかりと感じられたから……だからアタシは……」


 性行中に、男を殺すようになってしまった。

 ソニアの毒による殺害に限り、本来硬いままで事切れるはずの〝ソレ〟が、芯を失ったかの様に柔くなるその手応え。


 目の前の雌に命を植え付けようと迸っていた筈の熱が、ゆっくりと毒に奪われ冷えていくあの感覚。


 それこそがジュリに己の生を実感させる唯一の手段だった。


 そして生まれる、〝男殺し〟と言うシリアルキラー。


 自分を辱め汚した〝男〟という性別を、その行為を求め、生きている感覚を取り戻そうともがく、悲しい女。


 ジュリはどこまでも純粋に〝生きている快楽〟を求め続けた。


「ん、んふふ……こ、このままじゃ……お兄さんはアタシの毒で……ドロドロに溶けちゃうよ?」


 突き刺さったままのハヤテマル。

 通常ならその傷と失血が原因で充分に死因たり得るが、今の東京では、ジュリのレベルと身体能力(ステータス)に対してはまだ足りない。


 トドメには、ほど遠い。


「あ、アタシとしては……死ぬ時は……誰よりも格好いい男の人の腕の中で死ぬのが……理想的……だから、このままでも……全然良いんだけど……」


「……」


 命が失われつつある状況で、嗤い続けるジュリの姿は酷く魅力的で、海斗は思わず目を奪われる。

 

 この美しく淫靡なケダモノの願いを叶えてやろうと、思わず想ってしまいたくなるほどに。


 だが、すぐに考えを改めた。


 大きく首を振って、覚悟を決める。


「悪い。こんなみっともない姿を晒しちまってるが、俺はアイツらの兄貴分なんだ。お前に構ってられない。なにより俺の胸の中は、嫁の特等席だ。だから、お前が居続けていい場所じゃない」


 この哀れな女を、殺す覚悟を。


「……やっぱり、お兄さんは……かっこいいなぁ……」


 諦めたように、自嘲気味な笑みを浮かべて。

 ジュリは目を細めた。


「ジュリ!!」


 遠く、広場の奥から叫び声が聞こえた。


 ジュリと海斗が視線を向けた先に、祐仁──王サマが腕を組んで笑っている。


「楽しかった! お前と出会えて、俺は幸せだったぞ! また地獄(むこう)で会えたら! もっともっと遊ぼうな! 先に行って待っててくれ! 俺らもすぐに行くからさ!!」


 DJカノーの様な拡声器も無しに、王サマの声は広場中に響く。


 その声を聞いたジュリは、さっきまでの妖艶な笑みとは違う、どこか優しい──その素朴で透明感のある顔立ちに相応しい、柔らかな笑みでコクンと頷いた。


「うん。お兄さんもかっこいいけど……ウチの……アタシの王サマの方が……ずうっとかっこいいよね……」


 海斗と向き直り、そう言って笑う。


「……ああ、そうかもな」


 海斗は両手でハヤテマルの柄を固く握り、ぐっと力を籠める。


 もう時間をかけていられない。


 もう少しでも時間を置けば、海斗の身体は毒の影響で立てなくなる筈だ。


 まだ廉造や大河が戦っているのに、それを指を咥えて見ているだけなんて状況は、海斗の兄貴分としての矜持に反する。


 だからここで、この美しく可憐なケダモノを、殺す。


 自分とそう歳の違わない女性を殺す経験など、勿論初めてだ。


 海斗の中の倫理観が、培ってきた正義感が、その行為をはっきりと忌避している。


 だけど、殺さねばならない。


 だからせめてと、海斗は死に征くジュリの表情をしっかりとその目に焼き付けようと見つめ続けた。


「……俺がアンタを殺したって事実から、逃げねぇから。死ぬまで覚えとく。忘れねぇ」


「──あはぁああ……なんて素敵な……〝殺し〟文句……」


 ゆっくりと目を閉じたジュリが首を下げるタイミングと同時に、海斗はハヤテマルを捻り、全力で上方へと持ち上げた。


 腹から、肩にかけて。


 その柔らかく白い肌が断ち切られていく。

 

 きっと想像を絶する痛みが感じ取れただろう。


 しかしその美しいケダモノは、最後の最後まで笑みを浮かべたまま、美しく絶命した。

 

 醜い悲鳴も、汚い断末魔も上げずに。

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