生きている実感を〝アタシ〟に①
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『飛嶋くんは、なんでいつもそんなにイライラしてるんですか?』
昼下がり。
校舎裏の貯水タンクの側。
教室からも職員室からも離れ、通路からも死角となったその場所でいつもの様に隠れて安売りのパンを食んでいた海斗に、安城紡はそう投げかけた。
肩口で綺麗に揃えられた、色素が少し薄い淡い茶髪を揺らして、少しだけ着崩した制服がほんのり汗で湿っている。
『あ?』
学内で唯一と言える安住の地。
同学年の気にくわない奴らや、偉そうな先輩。
口煩い先生達の監視から逃れて、海斗が一息つけるベストプレイス。
そんな心安らぐ場所に突如として現れた、学年でも評判の良い優等生。
だから海斗は、少し不機嫌に返事をしてしまった。
『俺がイライラしてるように見えるんだったら、多分それはアンタのせいだろ』
『私ですか?』
『アンタだけじゃなくて、俺は人とお喋りすることが嫌いなんだよ』
イチゴジャムのコッペパンに大口で噛みつき、わざとらしくもごもごと大げさに咀嚼する。
紙パックのレモンティーで口の中を濯ぐように、パンを飲み込む。
まだ出来て間もない口内のキズに少し染みて、眉間に大きな皺が寄った。
『アンタラみたいな、高校生活が楽しくてしょうがない人種と違ってな。俺にとってこの学校も、この街も、なにもかもがくだらないんだ。ガキだろ。笑いたければ笑えよ』
人と──女子とまともに会話なんてするのは何ヶ月ぶりだろうか。
高校に入学してすでに九ヶ月。
思い起こされるのは狂ったように罵詈雑言を叫ぶ厳ついヤンキー達の声や顔だけで、同世代とのちゃんとした会話の記憶など数える程度。
最近ではバイト先にまで敵対している相手が乗り込んでくる始末。
わざわざ遠く離れた街の町中華にバイト先を決めたのに、その苦労まで笑われているようで、余計にイライラが募る。
『ここは良い街だと思うんですけど……この学校も、良い人ばかりですし……』
わかりやすく機嫌の悪さを表した海斗に臆す事無く、紡はスカートを抑えながら腰を下ろした。
貯水タンクを背にあぐらを掻いて座る海斗と目線を合わせる様に、膝を抱える紡。
『ああ……? ああ、そうか。アンタ……県外から引っ越してきたとか言ってたな』
『そうです。うわぁ、覚えててくれてたんですね。飛嶋くんにその話したの、入学式後の自己紹介の時だけだったと思うんですが』
キラキラと目を輝かせて、紡ははにかんだ。
日本人離れしたその整った顔立ちでそんな表情をされては、人嫌い女嫌いを自認する海斗ですら思わず目を奪われかける。
『……余所者のアンタに教えといてやるよ。俺はこの街──ここら辺の地域じゃちょっとした有名人なんだ』
『それがあんまり良い感じのニュアンスじゃないのは、私でも分かります』
『ヤクザもんの親父と、売女のお袋。三年前に捕まった時は全国ニュースになるほど悪名高い極悪夫婦の一人息子で、案の定素行も悪い。味方は一人もいねぇのに、敵だけは掃いて捨てるほどいやがる。ウチの二年と三年は俺の事を生意気だと毛嫌いしてて隙あらば襲いかかってくるし、一年の不良どもにとっちゃ良い腕試し相手だ。今時、番なんざ張ろうとはこれっぽっちも思ってねぇのによ』
もう一度、パンを大口で頬張る。
一昔前のヤンキー漫画の様な学年ヒエラルキー。
三年が絶対で、二年が幹部、一年が兵隊。
そんなアホくさい力関係に未だに支配されているこの学校が死ぬほど気にくわない。
海斗の住む地域では遠く昭和の頃から続く中学同士の抗争なども頻発していて、OBやOGが反社会勢力に就職しているのも珍しくない。
ここは平成と令和に置き去りにされた、古く殺伐とした文化に毒された街だった。
『だから飛嶋くんはいつも傷だらけなんですね』
『群れるのが大好きな負け犬どもがキャンキャンと威嚇してくるからな。俺みたいなのは、舐められたら最後、死ぬまで追い込まれる。喧嘩なんざほんとはごめんなんだが、やらなきゃやられるんだよ』
博打と性売買と詐欺と恐喝。
これらの罪状で有罪となって服役している両親は、その懲役期間に相応しい程に恨まれていたらしい。
小学校の時点で両親との関係改善は諦めていたが、親元を離れ祖母の元で暮らすようになってもなお、その呪いは海斗を絡み取って離さなかった。
親が犯罪者だからと罵られ馬鹿にされ、しかし反応を返せば余計に悪評が増えるだけだと我慢した中学の三年間で、反撃しないとどうなるかは充分に理解できた。
噂は消えてくれない。
心の底から嫌悪する両親が残してくれた偏見と侮蔑の印象は、海斗を含め祖母にまで至り、ついにはその心労に耐えきれず祖母が病に倒れ帰らぬ人となった事で、海斗は黙るのを辞めた。
目には目を。
歯には歯を。
悪意には悪意をもって。
暴力に対するには、暴力しかない。
『そうですか……』
紡はそう言って、少しだけ俯く。
『どうでも良いが、パンツ見えてるぞ』
短いスカートから見えるレースの下着。
硬派を気取って一匹狼をやっている海斗にとっては、単なる布きれ──と必死に己を騙しているが、このまま見えっぱなしだとさすがに興奮が隠せなくなるので、ここはすっぱりと指摘する事にした。
『あっと、見えちゃいましたか。これは失礼』
物言いはどこか平坦だが、紡は少しだけ頬を赤く染めて、スカートの前部を押さえながら立ち上がった。
『でも私。飛嶋くんが良い人だって知っているんです』
腰を揺らしスカートの丈を調節しながら、紡は海斗を見下ろした。
『……何言ってんだアンタ』
『この間、駅前でカツアゲされてた中学生を助けてくれましたよね。アレ、私の弟なんです。お父さんの誕生日プレゼントを買うって10000円なんて大金を持ってたから、同じ学年の嫌なお友達とそのお兄さんに目を付けられたらしいんですよ』
そう言われて、海斗は記憶を探った。
確かに二週間ほど前、バイト前に駅前を通過した時。
華奢で女みたいな顔立ちの少年が、二人組に絡まれていたのをなんとなく助けた覚えがある。
ド派手で品の無い髪色をした中学生と高校生の二人組で、高校生の方は何度か海斗が叩きのめした事のある、ここら辺へ幅を効かせていた名の通ったヤンキー。
顔と名前を覚えていて、なおかつ気にくわない相手が弱そうな奴をカモにしてイキっていた。
海斗がその二人をぶん殴ったのは、それが気にくわなかっただけに過ぎない。
『──アレは別に助けたってわけじゃ』
『でも現に弟は救われました。姉としてお礼をさせて下さい。ありがとうございます』
深々と頭を下げる紡。
着崩したワイシャツの襟元から、ショーツと同じガラのブラが見え隠れして、海斗は慌てて視線をズラす。
『……もう良いだろ。礼は確かに受け取ったから、いい加減一人にしてくれ』
誰かに礼を述べられるなど、自分の人生で今まで一度でもあっただろうか。
どこか気恥ずかしい思いに動揺しながら、海斗は残っていたパンを口に無理矢理詰め込んだ。
『でも私、飛嶋くんの事が少し気になってきました』
勢い良く上半身を跳ね起き、紡は穢れが一切含まれていない視線で海斗の顔をまっすぐに見つめる。
『はぁ?』
『悪ぶっていても、どこか憎めない人。私が飛嶋くんに感じた印象は今そんな感じなんです。もう少しお話してみませんか?』
経験した事の無い、純粋な好意。
勘違いだと己に言い聞かせても、紡の瞳からは海斗に対するまっすぐなプラスの感情が向けられている。
『あ、アンタ……変な奴だって言われないか?』
『ええ、誠に不本意ながら。前に住んでいた街のお友達にも、ここで新しくできたお友達にも不思議ちゃんだって言われてしまい困っています。私、そんな変な子に見えますか?』
『すまん……見える』
二人だけしか居ない校舎裏貯水タンク横の空間の空気が弛緩している。
海斗はそれに全く気づいていない。
人を避け、一人を好むはずの己が、全くの自然体で女子と会話を続けている──その変化に。
『むぅ。心外です。どういう所が変な子に見えます?』
『どういう所って言われても困るが……俺と話をしようだなんて思う所、かな?』
『そうですか? 飛嶋くん、ちゃんとお話できる人じゃないですか。少なくとも、同じクラスの派手な男の子達に比べたら全然お話しやすいです。あの人たち、やべーとすげーしか言わないから。あと人の胸を見過ぎなのも不愉快です』
『それは、まぁ。仕方ないかなって。お前や他の女子連中、胸開けすぎなんだよ』
『だって開けてないと可愛くないし、それと胸を凝視するのはまた別の問題なのでは?』
『高校生男子にそれは通用しないだろ……俺らなんざ猿みたいなもんだし』
まるで普通の高校生男女の様に、二人は会話を続けていく。
他愛の無い、中身の伴っていないその会話を楽しみだしている事に海斗が気づくのは、二人が一緒に昼休憩を過ごすようになって二ヶ月経った頃だった。
海斗にとって紡はたった一人の、かけがえの無い存在になっていく。
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だからこそ、今目の前に立つ愛おしい者の姿に。
海斗の思考は捕らわれる。
「つ、つむぐ……おれ、おれは……」
ふらふらとおぼつかない足取りで、海斗は目の前のほぼ全裸の下着姿の女性──ジュリへと近づいていく。
「そうだよ。おにいさん、ツムグちゃんはこっちだよぉ?」
クスクスと喉を鳴らしながらジュリは楽しそうに腰を揺らし、海斗を誘う。
DJカノーのスキルである【妖精の叫び】で相手を固定し、カネのスキル【催眠の光】で暗示にかかりやすい状態異常を付与し、最後にジュリの【毒婦の芳香】で『魅了』のデバフをかける。
これがクラン〝覇王〟の非戦闘員である三人のお決まりのコンボパターン。
直接的な戦闘能力を持たないカノー・ジュリ・カネが持ち得る、最高率の攻撃手段である。
元々【毒婦の芳香】は男性に対してのみ有効な限定性を持つ代わりに必中の付随効果を持つが、高レベル巡礼者であればあるほど持続時間が短くなるという欠点があった。
戦闘にほぼ参加せず、またレベル上げにそれほど執着していなかったジュリと海斗のレベル差はかなり大きく、普通ならその効果時間は5分にも満たない。
だが事前にカネのスキルによって暗示にかかりやすい状態に持って行けさえすれば、単純に効果時間が倍になるという相乗作用がある。
約十分。
それだけの時間があっても、【毒爪ソニア】の攻撃力では海斗を殺しきる事はできない。
だが弱らせる事はできる。
ソニアの持つアビリティ【滴毒】は通常攻撃に毒属性を常態付与する。
所詮ただのネイルであるソニアの攻撃力はゼロに等しいが、この毒は一定時間注入し続けなければならないという制約こそあれど、高レベルの巡礼者にも充分通用するスリップダメージを持っていた。
「あとはー、どこに刺すかだよねー?」
舌なめずりをしながら、ジュリもまた海斗に向けてゆっくりと歩を進める。
すでに手を伸ばせば届く距離。
それでも海斗の虚ろな目は、ジュリの姿を最愛の妻と信じて疑わない。
「えいっ」
ぽすっと、軽い音が出る程度に。
ジュリは海斗の身体を押した。
尻餅をつきながらも、口を半開きにしたまま海斗はジュリを見上げている。
「心臓が良い? 顔が良い? 下半身だとあんまり効果無いんだよねー。よいしょっと」
開かれた海斗のまたぐらに、ジュリは勢いよく腰を下ろした。
ぐりぐりと下腹部をすり合わせるその仕草はとても淫靡で、性行為を連想させるには充分すぎる。
「愛する奥さんの幻想を見ながら弱っていく姿、とっても可愛いよお兄さん。本当は最後に実はアタシでしたーって種明かしするのが好みなんだけど、今日はそうも言ってられないか」
そう言ってジュリは、海斗の首筋に吸い付いた。
「んふ。最後の相手がお兄さんなのは、ちょっとラッキーだったかもね」
どこまでも卑猥に、ジュリは海斗の首筋をなめ回しながら、上着を脱がしていく。
「ここが、いいかなっと」
鎖骨の下、心臓の少し横。
そこにソニアの鋭利な爪先をぐっと差し込む。
「ゆっくり、ゆっくり溶けちゃおうねお兄さん。気持ちいいユメを見ながら……気持ちいいコトをしながらさ」
「うっ、ぐっ、つ、つむぐ……」
「んっ、んふふっ。熱ぅい♡」
股間に感じる海斗の〝熱〟に興奮し、ジュリは露出された海斗の肌に何度もキスを繰り返す。
深く差し込めば差し込むほどに、ソニアの毒は相手に流し込まれる。
それは内部から肉を溶かす、細胞を壊死させるバクテリアに似た毒性。
「あっ、がっ、ぐっ」
海斗の身体が三度跳ねる。
ジュリの『魅了』下にあるその身体は興奮と相まってとても熱く、だが毒がまわるにつれてゆっくりと色を失っていった。
「きもちいーね♡ いっぱい、いっぱい出して死のうね♡」
陶酔。
青ざめていく海斗とは対照的に、人が死にゆく姿に性的興奮を催すジュリの顔が、徐々に真っ赤に染まっていく。
「アタシも、もう我慢ができそうもないや♡」
もぞもぞと身体を動かして、ジュリは器用に下着をずらした。
「アタシの中で、強い男の人がゆっくり死んでいくの……本当に最高♡」
「くそっ! 兄貴! しっかりしろよ馬鹿兄貴!」
廉造はそんな海斗とジュリの姿を、満足に動かせない自分の身体を呪いながら見ている事しかできない。




