それは悲劇の中からこそ生まれ出づる②
その言葉は、会話の節々で祐仁がずっと言っていた言葉だ。
英雄、救世主。
大河にはその言葉の意味は分かるが、意義が分からない。
祐仁の言わんとしている事だけは、かろうじて分かる。
つまりこの中野に存在している虐げられた弱い人々を、強い力の有る者が中野の外へと導き連れ出す事こそが、この男の目的なのだと、それは理解できた。
だが、何故それを願っているのかが分からない。
「ア、アンタは一体何を言っているんだ。今の中野の地獄みたいな環境を作って整えたのは、アンタらだってさっき言ったじゃないか」
怖い。
今まで様々な異形のモンスターや様々な悪党と対峙しそれを葬ってきた大河ですら、目の前の得体の知れない男の考えに恐怖を覚える。
その双眸に宿る暗く深く、だが力強い黒い輝きが、只ひたすらに怖い。
「そう、俺らはこの中野に悲劇を作りたかったんだ」
「悲劇……?」
気を抜けばその輝きに全身が飲み込まれそうで、大河は身体を強張らせる。
対する祐仁はと言えば、さきほどの憎悪に塗れた険しい表情を一変させて、穏やかな笑みを浮かべた。
「人類の歴史上、色んな英雄や救世主が居たよな。弾圧された宗教だったり、迫害された民族だったり、存亡の危機にある国家だったり。多くの人間が苦しみに喘ぎ、沢山の血が流れ、誰しもが希望を忘れ絶望に心を堕とす時。そんな時に、〝彼ら〟は現れる。当たり前っちゃ当たり前だよな。平和な時代に、英雄は要らない。救いを必要としていない」
天井を見上げ、蛍光灯の眩しさに目を細めて。
祐仁は言葉を紡ぎ続ける。
「流れた血が多ければ多いほど。悲鳴や叫びが遠く遠く響けば響くほど。憎悪や殺意が昏く昏く、深く深く広がれば広がるほどに、その時代に燦然と輝く誰もが最も待ち望んだ英雄は現れるんだ。強者の為ではなく、どこまでも弱者に寄り添い道を切り開き、導いてくれる──そんな英雄。俺は、俺らは……そんな英雄がこの中野に生まれるのをずっと期待していた」
祐仁は細めた目を歪ませて、どこかうっとりと蛍光灯を見つめる。
「だから俺らは、この中野に地獄を作った」
ゆっくりと、祐仁は大河の顔を見る。
その言葉に、その表情に惑いは無い。
自分の言葉の全てに確信を持ち、正しいと信じる者の目。
大河はそれが、何よりも恐ろしい。
「ふ、ふざけるな……ふざけんな!!」
だけど、その目と言葉に気押されてはいけない。
恐怖から目を逸らして、その言葉を受け入れてはいけない。
「何が! 何が英雄だ! 何が救世主だ!」
怖れを振り払うかのように椅子から立ち上がり、祐仁へと右手の人差し指を指す。
「その為に、どれだけの人が苦しんだと思ってんだ! お前らの勝手な理想の為に、何人が死んだと──!!」
「おいおい、人殺しが言う台詞かよそれ」
「──っ!!」
祐仁はくくくっと喉を鳴らして笑う。
大河の怒気に、言葉に怯んだ様子は1ミリも無い。
「さっきも言ったけどさ。俺らが整えた今の中野で弱者のままで甘んじてる様な奴らは、そもそも救われる権利が無いんだ。俺がアンタに救って貰いたいのは、強くなりたい奴。弱いままの自分を良しとせず、変化を受け入れ前に進める奴。たとえば──そう、千春みたいなさ」
ゆっくりと視線を千春へと動かした。
その視線を受けて、そして突然名前を呼ばれて、千春の身体がビクンと跳ねる。
「千春は今の俺の言葉を聞いて、どう思う? 教えてくれたよな? 昔はなにもできなくて悔しい思いばっかりしてたって。ずっと強くなりたくて、弱い自分を憎んでいたって」
「そ、それは──」
確かに。
千春はつい先日、祐仁に己の過去を少し打ち明けていた。
異変が起きる前までの千春は、要領が悪く鈍くさく、他人に迷惑ばかりかけていた駄目な人間だったと。
だから今、大河に憧れて強くなりつつある自分が、とても嬉しいと。
祐仁にそう零した事があった。
「千春なら分かってくれるだろ? いや、元アンダードッグのメンバーなら、俺の言葉を理解できる筈だ。自分たちは弱者だからって諦めて、強者に縋り色んな物を──命を、身体を、尊厳さえも譲り渡して。そんな惨めな生き方しかできなかったあの頃を皆は今でも後悔してるだろうし、大河によって変化した今がとても誇らしいはずさ。なぁ? 愛蘭さん。郁さん。瞳さん?」
祐仁は視線でなぞるように、名前を呼んだ三人の顔を見る。
祐仁が顔を見たその三人こそが、生き残る為に新中野ファラオに身体を売り渡した三人である。
他にも数名のケイオスの女性メンバーが、列の後ろの方で息を呑んだ。
「……アンタっ!」
顔を背ける郁。
俯く瞳。
そして瞬時に顔を真っ赤に染めて、祐仁へと詰め寄る愛蘭。
三者三様の反応を見せた三人に対して、祐仁は悪びれる事なく大河へと向き直った。
「生き残る為の犠牲と言えばかっこいいけど、つまりは諦めからの身売りでしかなかっただろ? でもケイオスの皆は大河と言う希望に逢えた。そして弱者のまま、虐げられる立場のままでは駄目だと奮起し、変化した。俺が尊ぶのは、そういう人立ちだ。強くなる意思を持ち始めた弱者こそが、導かれるべきだ」
「お前らじゃ、駄目だったのか?」
冷たい声でその言葉を遮ったのは、今まで黙って聞いていた廉造だった。
「それはつまり?」
祐仁は振り向いて廉造の顔を見る。
「大河や僕らじゃなくて、〝覇王〟の連中がその弱者を導けば話は早いじゃないか。こんな回りくどい、それこそ何年かかるかもわからないクソ面倒で不確定要素しか無いプランを計画しなくてもさ。中野の支配者であるお前ら自身で中野の住民を啓蒙していけば、そう遠くない未来に理想的な形で中野から多くの人が脱出するんじゃないか?」
「無理だよ。それは無理な話だ。だって俺らは──」
廉造の言葉に大げさに首を横に振り、祐仁は笑う。
「──俺らは弱者を見下し、憎んでいる。知ってるか? 最初のクラン・ロワイヤルを俺らが優勝するまでは、今みたいに中野は閉鎖なんてされてやいなかったんだぜ? じゃあ、なんで誰も外に行かなかったと思う?」
祐仁はぐるりと周りを見渡す。
この中の誰かが、答えを知っていると期待しているのだろうか。
その期待に答えたのは、郁の肩を支えていた健栄だった。
「──外に出た人間は、誰も生きていないからだ。覚えているさ。ワシが最初に所属していたクランが、真っ先に外に出ようと試したのだから」
目を伏せ、辛そうに健栄は言葉を続けた。
「この中野を取り囲む亜熱帯の樹海は、外に出れば出るほど遭遇するモンスターが手強くなる。当時のワシらでは、多くの犠牲を出して最初に出くわしたモンスターから逃げ帰ることしかできなかった」
「そう。そしてその話は中野にあっという間に広がり、誰も外に行こうなんてしなくなった。弱者が強者に支配される今の構造は、もうその頃から形成されつつあったんだ。俺は──俺らはそんな臆病者たちを悠長に育ててやれるほど、善人じゃない。むしろこの手で殺してやりたくなるくらいには憎んでいる。そんな俺らじゃ、英雄なんて役割には適してないだろ?」
悠理の煎れた毒入りの茶を手に取り、ちびちびと呑む。
パキパキと薄い硝子が割れるような音は、毒のダメージが中野の加護によって相殺された効果音だ。
「俺には俺の理想の英雄像があって、多くの条件をクリアした者じゃないと英雄たり得ないという信念がある。そしてその条件の殆どを無自覚でクリアしたのが、大河。アンタだよ」
すでに適温にまで冷めていた毒茶を飲み干して、祐仁は大河を指さし不敵に笑った。
「さて、俺や〝覇王〟に関しては大体伝え終わったかな?」
空になった湯呑みをテーブルの上に置き、祐仁は肘をついて手を組んだ。
「じゃあ、今度は俺の番だ。常磐大河、アンタに聞きたい事がいくつかある」
「……なんだよ」
ゆっくりと、大河は椅子に座り直す。
悠理のくれた清涼飲料水のペットボトルの蓋を開け、乾ききった喉へと流し込み、ゴクリを音を立てて飲んだ。
「アンタ、俺らに──悠理を含めた全員に……何か大事な事を隠してるだろ?」
じとっと睨むように、祐仁は大河の目をまっすぐに見る。
「……別に、そんな」
「いや、有るはずだ。アンタは時々、何かを言い淀んだような、苦痛に耐えるような表情で人の話を聞いている時がある。俺はアンタのファンだからな。結構ちゃんと見ているんだ。そうだな……例えば、この世界のシステムとか……異変前は出来たのに今は出来なくなった事なんかを誰かが愚痴ってたりする時だ。他にも、自分じゃない誰かが誰かを殺したり、弱者が傷ついたり殺された時に、アンタの不安定さは増す。この間の自殺した女の子たちとかさ」
「……っ」
心臓が高鳴る。
嫌な汗が滲み出る。
悪寒の様な寒さが首筋に走り、全身の毛が総毛立つ。
「言いたくない、言えないなら言えないで良いんだけどさ。気になったんだよね。アンタが大事にするそこの悠理も知らなさそうだし。悠理だって隠し事が有る事には気づいていたんだろ? でも聞いてないって事はよほど言いにくい事なんだろうな? そうだな……」
組んでいた手を解き、芝居がかった所作で考え込む祐仁。
大河は内心の動揺が表に出てこないように、必死に押し殺したままそれを見つめる。
そして祐仁は、ゆっくりと口を開いた。
「これはあくまでも勘なんだけどさ。大河……アンタ、東京が今のような世界になった原因──いや、その一端を知っているんじゃないか?」
ぎりぃっ、と。
奥歯が欠けかねないほどの強さで、大河は歯噛みをした。




