良い酒を飲もう!
「おはよう香奈さん。瞳さん。大河達はもう出発した?」
翌日、家庭科室の入り口から顔を出した悠理が昼食の準備をしていた香奈たちに問いかける。
「おはよう。さっきみんな出たみたいよ」
「おはよう悠理ちゃん。珍しいね。悠理ちゃんがお昼まで起きてこないの」
香奈と瞳は悠理に顔を向けて応える。
「あはは……朝、大河とちょっと喧嘩しちゃってね……」
気まずそうに首筋を掻く悠理。
香奈はその首に目立つ無数の虫刺され──キスマークを見てぎょっと目を開き、顔を赤くして俯いた。
「喧嘩?」
「うん。あの……助けた女の子が自殺した事を、ずっと黙ってたから……」
困った顔で笑う悠理の言葉に、瞳も目を伏せて俯く。
「ああ、それで二人とも朝食に来なかったのね。おはよう悠理」
たくさんの洗ったレタスをボウルに入れて運んで来た愛蘭が、女三人の間に流れた微妙な空気を悠理の背中から破った。
「おはよう愛蘭さん。うん。怒られちゃった。昨日そうとも知らずにシちゃった事、嫌だったんだって」
「アイツも結構なナイーブよね」
愛蘭は口を尖らせて、ため息を一つ零す。
「悠理がそこまで気が回せない女じゃないって、普通気づくもんでしょ。んっとにもう、男ってばこれだから」
「香奈、駄目だよそんな事言ったら……」
香奈の放った言葉に、瞳は慌ててフォローする。
大河の彼女である悠理を前にして、言って良い愚痴では無い。
他人の口から自分の彼氏の悪口を聞かされて気分を害さない女など、あまり居ないだろう。
「ううん、大河だってちゃんと分かってるよ。今朝の喧嘩も、私を責めるって言うより、我慢できなかった自分が許せないって感じだったし」
悠理は苦笑しながら、壁に掛けられている自分用の青いエプロンを手に取る。
昨日、あのシャワー室で。
そしてそのまま移動した二人に割り当てられた自室で時間も忘れて熱中した行為は、全て大河の精神の安定のために必要だったものだと悠理は思っている。
あのまま消化しきれないモヤモヤを抱えて一日を過ごせば、きっとどこかで誰かに無駄に強く当たり、要らない軋轢を生んでいたかもしれない。
あのまま抱え切れない衝動を発散させずに居たら、誰かに対して余計な一言で関係を悪化させていたかも知れない。
なにより、そんな感情を抑えきれない自分を誰よりも許せないのは、大河自身だ。
だから悠理は伝えるべきことを伏せ、大河の思うままに、欲望のまま、衝動のまま、情動のままにその身体を愛しい男に委ねた。
代償として若干の腰の痛みと、体中至る所に目立つキスマーク、そして寝不足気味な思考が残ったが、悠理としても溜め込んだ物を発散させたのだから文句は何一つない。
「一応、出発前に少し仮眠取ったみたいだから、帰ってくる頃には機嫌も戻ってると思う。大河はそういうとこ、しっかりしているから」
きっとおそらく、それは大河の過去の何かがそうさせたのだろう。
高校生くらいの年齢で、抱えきれない程の感情をしっかりとアンガーコントロールできる者などそういない。
悠理は大河の過去の全てを知っている訳では無いが、愛する男に何かしらの重大なトラウマが残っていて、本人は平気そうに振る舞うが時々そのトラウマによって苦しんでいるのを知っている。
だから愛蘭や香奈や瞳にバレないように、薄く唇を噛んだ。
「あ、そうそう。悠理」
いそいそとエプロンを身につける悠理に愛蘭が声をかける。
「なに?」
このあと後ろ髪を結うつもりで口にヘアゴムを咥えていた悠理が返答する。
「アンタと大河、今日から数日は完全に休日ってことにしたから。だから何もしなくていいよ」
レタスの詰まったボウルをステンレス製のテーブルの上にドカッと下ろして、少し強ばり始めた腰を伸ばしながら愛蘭はあっけらかんと告げる。
「え、いいの?」
「うん、今朝あんたらが居ない時にみんなで決めたのよ。ちょっと大河に頼りすぎてたなってね。海斗も健栄さんも郁さんも、香奈も瞳も祐仁も賛成。他のみんなも良いってさ。廉造だけが不服そうだったけど……自分も休ませろって」
もちろんそれは廉造なりの場を和ませるジョークで有ったが、念のため海斗が頭を小突いて黙らせていた。
本気だったら皆が困ったからだ。
「そっか……なにしよっかな……」
嬉しさ半分、申し訳なさ半分。
悠理はそんな複雑な思いを胸中に抱きながらも、言葉と態度には出さず思案する。
皆が話し合って決めた事に、異議を唱えるつもりはない。
悠理はこのクラン、〝東京ケイオス〟のリーダーである常磐大河のパートナー、彼女である。
それはある種の贔屓を受け、そしてそれなりの特権と決定権を好む好まざるに関わらず持っている事を意味する。
ここでもし悠理が少しでも我を通してみれば、それは立場を利用したに等しい。
人間関係に対するバランス感覚に過剰に秀でている悠理は、そんな小さな事が今後に大きな影響を及ぼす懸念をしっかりと把握できる。
「せっかくなんだから好きにしなさいな。。子供達にも二人っきりにしておきなさいって言っておくし、同盟の事もウチや廉造が中心になって進めておくから」
レタスの葉をかなり雑にむしりながら、愛蘭はケラケラと笑う。
何を隠そうこの女、料理が大の苦手である。
「うん、そうだね。大河の気分転換も兼ねて、色々やってみるよ。ありがとう愛蘭さん」
せっかく身につけたエプロンの首紐を解き、簡単に丸めて手に持つ。
悠理が軽く会釈をすると、愛蘭はその日焼けした肌のせいで余計に白さが目立つ歯を、にっかりと見せて笑った。
「礼を言われる事じゃないわ。ああ、でもお願いだから昨日みたいに余所の部屋まで聞こえるくらい没頭するのはやめてね。子供達を誤魔化すの大変だったんだから」
「あはは……確かにアレは……」
「香奈が機転を効かせて体育館で寝ようって言って、子供達の気を逸らしたのよ」
「でも年長の女の子たちは気づいてたわよねアレ……」
「あちゃあ、もう保健の授業で習ってたかぁ~」
「そういうことに関しては女の子の方が知るの早かったりするんだよね。最近の子って」
「そうそう。千春なんて悠理の声が聞こえてくるたびに顔真っ赤にしててさぁ。ウチもうおかしくておかしくて」
「千春がそう言うの知っているの、なんか嫌だなー。あの子ほら、なんか小動物みたいな可愛さがあるじゃない?」
「何言っているの香奈。千春ちゃんだってちゃんと中学生なんだから知ってても何もおかしくないし、知らないよりかは偉いでしょう?」
「そうそう。逆に小僧共をどうするか考えておかなきゃねぇ。どっかのタイミングで保健授業みたいな時間作って、いっその事ゴムを配って持ち歩かせておく?」
「ウチのガキ共は水入れて投げ合う気しかしないんですけど」
「確かに……」
みるみる内に顔を真っ赤に染め上げる悠理を置き去りにして、愛蘭と香奈と瞳は調理擦る手を止めずに会話を弾ませていく。
「ま、まって……え、そ、そんなに聞こえて……?」
恥ずかしさでついにぷるぷると震えだした悠理が、同じように震える声で問う。
「全部じゃないけど、時々ね。主にアンタのきもちよさーな声が」
愛蘭はニヤニヤと嫌らしい笑みを浮かべる。
「それにしても、リーダーは絶倫でもあったか」
「香奈、あんまりそういうの言うもんじゃ……でも、たしかに長かったよね。体育館に移動する前まで聞こえてたから……五時間くらいしっぱなし?」
「若さじゃ説明がつかない性豪っぷりよね」
三人の年上の女性が続ける会話に、悠理の脳みそが恥辱でゆだっていく。
結局この話題は、他の調理班の女性たちが来ても止まる事は無く、逃げることも許されなかった悠理はたっぷり正午すぎまで辱められたのであった。
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「小僧! でかした! やりよる男とは思っていたがまさか災禍の牙を見出すとはな!! いやはや! 流石のワシも驚いたぞ!!」
「ほれほれ、さっさと蛮勇剣を見せてみい! 見んかった間におぬしがどんな研鑽を積み、どれだけ剣を粗末に扱ったのか見て叱ってやるわい!」
「さぁさぁ、赤水晶を出せ。はやく出せ。すぐ出せ。さっさとせんかい。ああ、それとアイテムバックの中の素材も全部見せるんじゃ。一応ワシらも災禍の牙に見合う素材を持ってきておるが、所詮は市に出回る程度しかない。おぬしならきっと、どこぞでなにがしかの品質の良い素材をドロップしておるじゃろきっと。隠すとロクなことにならんぞ。全て惜しみなく出すがいい」
「オーブのことなら気にするな! かなり良心的──いや、破格の値で打ってやるわい! なにせ災禍の牙なんぞ、もう数百年は見とらんからな! こりゃ腕が鳴るどころの話では無いぞ!?」
「んんっ! おいそこの三人! お前らの剣も見せろ! 隠すな! 逃げるな! この馬鹿もん共が!」
「おお、これはハヤテマル!! 刀を模したばったもんのサムライソード! こっちも久しいのう!」
「こっちは集音小剣!! 拳刃手甲と言い集音小剣と言い、まだ命知らずの馬鹿な巡礼者は残っておったんじゃのう!!」
「ふむ、おぬしの蛮勇剣。もう次の姿に成長させてもええ頃合いじゃろ。使い込んだ盾とか持っておらんか? あればおぬしの戦い方に見合った剣を打つ事ができるんじゃがな」
「ほうほう、大楯剣か。そっちもそっちで面白そうじゃの」
「がはは!! こりゃエエ仕事が出来そうじゃ! 皆の者! 杯を!」
『おうともさ!!』
「この素晴らしき日を鍛冶の神々に感謝を!! 良い酒を呑もう!! 乾杯!!」
『良い酒を呑もう!!』
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「なんなんだあのジジイどもは!!」
すっかり顔を真っ赤に染めた海斗が、ふらふらとおぼつかない足取りで中野駅前のアーケードを進む。
「うっぷ、こ、これだけ呑まされたのは久しぶりだ……酒なんぞ異変が起こってからこっち呑んでなかったから、酔いが回るのが早くて……んぅぐっ」
青ざめた顔で電柱にもたれかかる健栄が、胃からせりあがってくるえぐみに口を押さえた。
「わー! 健栄さん耐えて! 僕らこのまま千春と祐仁さんの迎えを待たなきゃならないんだから! 一人でも酔い潰れたら格好の的になっちゃうでしょ!! 他のクランの!」
「廉造、それ飲み屋の看板で、健栄さんはこっち……」
廉造にそう教えた大河も、もう歩くこともままならず地面に座ったまま動けない。
「お、俺が五日間。健栄さんは二日も剣が無いから、海斗さんと廉造が潰れたらおしまいだぞこの状況」
定まらない視線と揺れる頭。
かろうじて意識だけはなんとか途切れさせずにしがみついているものの、気を抜けばその場で熟睡しかねない程の深酒をドワーフたちに飲まされた。
「ど、ドワーフ共は海斗と廉造の剣も欲しがっとったな……強化するから一日くらい我慢しろと言われても、帰りはどうするんだって話だ……」
電柱に抱きついてなんとか二本足で立てるレベルの体たらく。
そもそも剣があろうが無かろうが、ここまで酔っていれば関係ない。
だが今の健栄にはそこの所の理解が出来ていなかった。
「た、大河の護衛で付いてきたはずの俺らが、なんでこんな夜遅くまで酒なんぞ飲まされてんだ!! このアーケード街が戦闘禁止区域じゃなかったらみんな殺されててもおかしくねぇだろうが!!」
完全に据わった目つきで、海斗は夜空に向かって叫ぶ。
中野駅前のアーケード街は、その範囲だけに限定された非戦闘エリア──戦闘禁止区域であり、ここでは『剣』を顕現させることも、スキルを発動することもできない。
それを聞いて安心したせいで、こうまで醜態を晒すほど飲んだというのは、まぁ言い訳である。
「兄貴はぁ! そんなこと言ってぇ! 楽しそうに飲んでたじゃあないかぁ!」
「廉造、それは薬局の人形で、海斗さんはこっち……」
おそらく昭和から置いたままであろう、古い象の人形に向かって声を張り上げる廉造に、大河が弱々しく突っ込んだ。
「健栄さんだってぇ! 最初は美味い美味いって言いながら飲み続けてたしぃ!」
「す、すまん。久々に飲んだって言うのもあるが、そもそもなんだあのビール。めちゃくちゃ美味かったぞ」
「大河だってぇ! 僕が止めても黙々と飲んでたじゃん!!」
「いや、だって海斗さんがお前は明日から休みなんだから気にせず飲めって……廉造、それは千春で、俺はこっち……千春?」
「千春ぅ?」
半開きしたまま開かない瞼。
そのぼやけた視界の中に、怪訝な表情の千春が写る。
「……四人して、なにしてるんですかぁ」
呆れと怒り、そして失望が少しだけ混じった千春の声に、大河は慌てて立ち上がった。
が、もはや大河の二本の足には普段の十分の一の力も残っておらず、ふらふらとあらぬ方向に身体が流れていく。
「い、いや千春聞いてくれ。違うんだこれは。ドワーフたちに仕事を頼んだら、必ず酒を飲まされるんだよ。本当なんだ」
ぺしゃり、と。
大河の身体が地面に畳まれるように倒れていく。
「こ、これがまた美味くて美味くて、不覚にも飲み過ぎてしまった。一番年長であるワシがついていながら本当に申し訳ない」
電柱に抱きついたまま離せない健栄は、下手に顔を上げれば胃の中の物が全て喉から逆噴射しかねない。
「千春! 本当にすまねぇ! まさかこの俺が! この海斗兄貴が! あれだけの酒でやられるとは思っても! んでも美味かったのは間違いねぇ! お前も飲めるようになったらごちそうしてやるからな! お、そこにいるのは祐仁くん! よしみんな、祐仁だったら飲ませても大丈夫だろ! 今から戻って──!」
「何言ってんの兄貴! ほら祐仁さんだけじゃなくて、ほらそこになんか物凄い怖い顔をした愛蘭さんが──あれ、悠理に香奈さんも!! ほーら怒られる~! 僕しーらなーい!」
「廉造、それは海斗さんじゃなくて俺だ。海斗さんはあっち……」
酔っ払い四人を取り囲むように、愛蘭、悠理、香奈、千春、祐仁が微妙な表情で立っている。
「連絡も無く帰りも遅いから心配してみたら、ようやく来たメッセが“酔って歩けないから迎えに来い”なんてね……」
愛蘭は右手で額を支えて、ふるふると頭を振った。
「ちょっとこれはみっともないよ大河……」
悲しそうに顔を伏せた悠理が、大きなため息を吐く。
「千春、こんな大人になったら駄目だぞ」
「はい。祐仁くんも……それにしても、千春はちょっとがっかりですよみんな……」
祐仁と千春の憐憫を含んだ失望の目に耐えきれなかった酔っ払い四人は、酔っているが故に全員が同調し、土下座の姿勢へと移る。
『ごめんなさい』
翌日、皆がそろって酷い頭痛に悩まされるのは、言うまでもない。