荒野のビバノンノン①
「ねぇ大河、これって」
「どうなってんだ」
ぺんぺん草一本生えない不毛の荒野を、あれから更に二週間ほど。
時折巻く冷たい塵旋風に晒されながら危なげなく進む二人の目の前に、それは突然現れた。
「銭湯……だよね」
「銭湯……だなぁ」
茶色い大地にぽつりと一軒家。
瓦屋根の上から天を衝く太くて硬くて大きい煙突が目立つ、昔ながらの大衆浴場が建っている。
これでもかと大きく描かれた『ゆ』の字の暖簾の先に、昭和の風情を感じさせる木製の靴箱。
その靴箱の下には、褪せた緑色のプラスチック製の簀が置かれている。
男性は右、女性は左と入り口を分けてあり、その入り口にもそれぞれ青と赤の色違いの暖簾が掛けられてあった。
建物の外には大河の身長の半分ほどのサイズの聖碑が、存在感控えめに設置されてある。どうやらこの聖碑の加護エリアはこの建物一軒分だけのようだ。
「……どうする? 入るか?」
大河はとりあえず、悠理に伺いを立てた。
なだらかな丘陵を超えた先で出くわしたので、唐突感が否めない。
池袋では同じようなシチュエーションでノームたちの集落に入り、そこで痛い目を見た記憶がまだ新しい。
また理不尽な強制イベントにでも巻き込まれたら、朱音が居ない現状で乗り切れるかどうかも疑わしい。
「……正直、怪しいよね。怪しいけど……うぅうううううっ、久しぶりにお風呂に入れるって誘惑がっ」
悠理は自分の頭をわしゃわしゃと掻き、身悶える。
元来綺麗好きであるこの女子は、この半年間の旅で逞しさも身につけているので一ヶ月程度風呂に入らなくても我慢ができる。
しかし我慢しているだけで、入れるのなら入りたい。
この道中、夜間眠りに就く前にお湯を沸かし、テント内で身体を拭き取る事を欠かした事は無い。
しかし良い加減、頭皮の痒みが我慢できなくなってきている。
それでなくても悠理のような年頃の女子が、意中の男子が横にいるにも関わらず身綺麗にできないというのは余りにも無体である。
できる範囲でヘアケアをするよう心がけているものの、やはり満足とは程遠い。
シャワーで優しく頭を濡らし、丁寧に丁寧に髪を洗えるという誘惑は、耐え難い物だった。
「まぁ、俺も良い加減自分の匂いが気になり出し始めたところだから……入ってみるか」
大河とて身体を拭いたり冷水を頭から被ったりとなんとか身体の汚れを落とそうとはしているものの、細部までとなるとやはり難しかった。
そうでなくても、この旅の疲れが蓄積された身体を、大きな湯船で手足を伸ばして休ませられるというのなら是が非でもない。
「や、やった!」
喜色を隠しきれない悠理が、大河の腕を引いて小走りで建物へと駆ける。
(相当我慢してたんだろうなぁ)
そんな悠理に身体を引かれながら、大河は苦笑した。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「他に利用者は居ないっぽいけど、やっぱりちゃんと男女で別れて入った方が良いのかな」
空きだらけの靴箱を一通り見て、大河は考え込んだ。
「私、銭湯って入ったことなくてさ。ちょっとレトロな映画とかでしか知らないんだけど、こういうのって入り口は別でも中で繋がっているんじゃないの?」
下駄箱に旅で使い古したスニーカーをしまい、木の板で出来た鍵を引き抜いて二人はそれぞれの性別に分かれた入り口を見やる。
悠理の記憶にある銭湯とは、少し古い映画やコント番組での知識しかない。
それは番台と壁で区切られては居るが、その壁が恐ろしく薄い物で、番台越しに身を乗り出せば容易く覗き込むことのできる造りだ。
昭和も半ばから終盤によくある銭湯の、一般的なイメージである。
「いや、俺も昔……それこそ本当に小さい頃に数回程度しか入った事無いんだけどさ。どこだったっけな……確か爺ちゃんの家の近くの銭湯で、そこは入り口は一つで、中でお金を支払った後で男女に別れて脱衣所に行く感じだったんだけど」
大河が利用したことのある銭湯は一般家庭に浴室が完備され始めた影響で利用者が減り、なんとか客を呼び込もうと食事処やサウナに漫画コーナーなどを増設した比較的新しい形式の銭湯だ。
それはスーパー銭湯とも称される、風呂に入るだけじゃなく各種娯楽まで楽しめる大規模施設だった。
「でも男女で入り口を分けてるってことは、別々に入るしかないって事だよね?」
「そうなんだろうけど、何が待っているか分かんない以上、お前と離れるのも嫌なんだよなぁ……」
聖碑の加護の圏内とは言え、安全が保証されている訳ではない。
他の悪意ある巡礼者が中で待ち構えていたら、強制イベントを持ちかけてくるNPCに身柄を拘束されたら、もしかしたら他の土地にそれぞれ転移されてしまうなんて罠も考えられない訳じゃない。
「ご安心くださいませー! 当銭湯は安心・安全! ただ皆様に旅の疲れを癒して頂きたい! その一心で営業しておりますです! はい!」
男湯側の引き戸がガラガラと音を立てて開き、そこから手のひらサイズの女の子──妖精がフヨフヨと飛んできた。
「現在数ヶ月は他のお客様もお見えになられていませんので、僅かな追加料金さえ頂ければお客様方の貸切利用も可能です! はい!」
蝶のそれに似た光の羽を背負い、バスタオル素材で出来た布を着た妖精が高速で揉み手をしながら会釈した。
「わっ、妖精だ」
「久しぶりに見たな」
大河と悠理はその妖精の姿を見て、少し身構える。
その姿を見るのは初めてではない。
新宿では赤い光の羽の妖精が、素材換金所の店主をしていたし、高田馬場では青い羽の妖精ホテルの近くにあったパン屋の店番をしていた。
この東京で現在『営業』している店の殆どが無人で、物品の購入の全てをスマホで完結させる事ができる。
しかし時々、このような妖精が店員として接客する店も相当数存在していた。
セイレーン湖に沈んだ池袋では、大河らは会う事は無かったが各コミュニティを巡回して物資の売買を担当していた妖精が居たようだし、都市解放後の街を探せばきっとたくさんの妖精が経営している店があったのだろう。
「二名さま、いらっしゃいませー! 妖精湯、目白荒野店へようこそー!はい!」
耳が痛くなるほどの声量でそう叫んだ妖精は、高速の揉み手を更に加速させた。




