背中を押す風
要町を出て川を渡った先は、荒野だった。
人工的な建物が消え失せ、冷たい風が吹き荒ぶ不毛の大地を、大河と悠理は三日ほど歩き、そしてここにたどり着いた。
「ここが、大断層の突端かな」
「多分な」
なだらかな坂の続く先に、徐々に岩肌が壁となっている細い道が出来ていた。
大河と悠理はその起点となる場所に並んで、道の先を眺めている。
「このまま坂を下ると大断層の下を通る事になって、降りずに左側を歩くと新宿……そして右を通ると中野方面……って事なんだろうな」
「大断層の下って事は」
「ああ、多分この先にあの虫がうじゃうじゃいるんだろうな」
二人の脳裏に、西新宿の悪夢が想起される。
幼児と同程度の大きさの黒蟻が、大柄な男性によってたかって群がり、その肌を顎の鋏で少しづつ啄んでいる凄惨な記憶。
大きく醜い羽根を広げた蛾が、長い管のような口──口吻を逃げまどう妙齢の女性の口から差し入れ、その『中身』を物凄い勢いで吸い尽くす姿。
軽自動車と見間違う程大きなクワガタが、人の群れに猛スピードで突っ込み、血が赤い霧となるまで何度も何度も執拗に轢き殺すえげつない場面。
それらが一瞬で脳裏を駆け抜け、二人の背筋をブルリと震わせた。
「下道は無しで」
「賛成!」
大河の言葉に悠理は首が取れそうなほど頷いて同意した。
「じゃあ、こっち側をとりあえず進む事になるんだけど、崖沿いに伝って歩くと虫に襲われちまうかな。大断層とは距離を取りながら進もう」
大河は坂の右側の道を眺め、腕を組んで考え込む。
「この荒野、昼はまだ良いけど夜になると凄い冷え込むんだよね……朱音さんがいない今、ここに出てくるモンスターとちゃんと戦えるのって大河しか居ないし……」
悠理は申し訳なさそうに眉を下げて、大河の腕に自分の腕を絡めた。
二人しか居ない現状、昼夜かまわずいつ出てくるか分からないモンスターに対処できるのは大河しか居ない。
これまでの旅同様、夜になると焚き火を起こして交互に睡眠を取る事で襲撃に備えてはいるが、敵が現れたら大河がメインで戦わねばならないのだ。
レベルで言えば大河と悠理の差はそう大きくは無いが、ステータスの数字を見ればその戦力差は一目瞭然。
なにより回復役に特化した悠理の今のスキル・アビリティ構成は、とてもじゃないが戦闘に向いていない。
一応、ステータス上の数値を信じれば単純な攻撃でこの荒野のモンスターを倒す事は可能だと思われるのだが、異変の序盤から回復役に専念していた悠理は前衛の経験が殆ど無い。
少しでも手強いモンスターが出てしまえば、もしくは複数のモンスターが同時に襲ってくるだけで、その時点で悠理は不利となってしまう。
だから寝ていようがなんだろうが、モンスターの相手は結局大河がしなければならないのだ。
大河の負担が大きい事を、悠理は深く気にしている。
「まぁ、それは仕方ねぇよ」
一方、当の大河本人と言えば実はそこまで懸念していない。
手に入れた【解放者】のステータス補正のおかげで、以前よりもはるかに楽にモンスターを仕留める事ができるからだ。
池袋を出た当初はそこまで実感していなかったが、この三日間の戦闘でようやくその手応えを掴んでいた。
意識と身体のズレの修正が済んだ、と見て良いだろう。
想定していたよりも早く動ける。
思っていたよりも力を込めず、敵を切り裂ける。
鋭敏化した感覚が、以前とは段違いに敵を察知できる。
それは朱音が抜けた穴を埋めるには充分なパワーアップで、しかもまだ最適化できると踏んでいる。
あの『都市解放イベント』で得たオーブでレベルを上げれば、さらにとんでもない事になるだろう。
今のところ、これ以上の急激なパワーアップは意識が追いつかない可能性があるとレベルを上げる事を止めてはいるが、もうそろそろ一つか二つ上げる事も考えている。
なにより、戦闘をしている間は、余計な事を考えなくても良い。
陽子の事、椎奈の事、瑠未の事、朱音の事、そしてパークレジデンスの子供たちの事。
最後に、綾とこの世界の事。
寝ずの番の時の際にどうしても考え込んでしまうそれらを、戦いは忘れさせてくれる。
大河はモンスターと戦う事を、楽しみ始めていた。
「お前にはお前の、俺には俺の役割があるってこと。何も気にすることじゃねぇし、俺は全然平気だから」
「うん……」
悠理は暗い表情で頷いた。
大河の軽口を聞いても不満と不安は拭えず、しかしこれと言った解決策も無い以上、不承不承ながらも納得するしかない。
「早めにこの荒野を抜ければ、それだけ早く次の街に着く。そしたらそこに聖碑もあるだろうし、宿もある。お前が不安だって言うなら、それが一番手っ取り早い。だろ?」
「そう……だね。うん、早くこの場所を抜けて、街を見つけよう」
お互いの顔をしっかりと見合わせ、二人は静かに微笑みあった。
「ああ、じゃあ行こう」
「うん!」
どんよりとした冬空の下、二人はしっかりと手を繋いで歩き出す。
荒野に吹く乾燥した風に背中を押されて、その足取りは軽かった。