出発前
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「……本当に、平気なの?」
ドライヤー付きのドレッサーに座った悠理が、濡れてツヤのある黒髪をタオルで優しく撫でながら鏡越しに大河へと問いかける。
「ああ、一週間も休ませて貰ったからな。お前のおかげでほら、もう元気元気」
大河はベッドに腰掛けて黒い長袖のインナーシャツに袖を通しながら、同じ様に鏡越しに悠理へと返答する。
ここは池袋駅。
西口を出てしばらく歩いた先にあったシティホテルの一室だ。
「あんな倒れ方した人が言っても、全然説得力無いんだけど……」
丁寧に髪をタオルで挟んで水気を取りながら悠理はため息を吐いた。
一週間前、池袋駅の東口に転送され朱音と別れた後。
ラナによって施された【神託】もどきの効力が消え掛かっている事を自覚していた二人は足早に池袋駅の地下を進み、西口へとたどり着くや否や、値段を確認する事もせずに目についた宿泊施設に辿り着いた。
部屋番号や部屋のグレードすら気にせずスマホで手早くチェックインを済ませ部屋に飛び込んだと同時に、大河が信じられない程の血を身体中から噴いて倒れた。
「ほんと、死んじゃうんじゃないかと思って気が気じゃなかったんだからね?」
「う、それは、まぁ……ごめん」
副作用付きの回復アイテムやブーストアイテムをこれでもかと使用した反動が、【神託】もどきの効果が切れた瞬間に全て噴出した結果があの血まみれの姿だ。
瞬間的に全身に走ったあまりの激痛に白目を剥き、口から泡まで吹いて失神した程。
それをすぐ横で見ていた悠理の驚きと絶望はかなりの物だっただろう。
「いやーしかし、まさか三日も目を覚さないとはな」
大河は右手を前にまっすぐ伸ばし袖を捲って、そこに多く残っている薄い傷跡を眺めた。
悠理の魔法によって傷自体は塞がってはいるが、抉れたり傷跡が汚かった部分の跡は完全に消えなかったようだ。
「傷跡もそうだけど……」
バスタオルを首にかけた悠理は、ドレッサーから立ち上がると大河の目の前まで近寄り、腰を曲げてその頭を覗き込んだ。
「根本……白髪になってる」
「まぁ、仕方ねぇよ。生きてるだけで充分だ」
それがストレスから来るものなのか、それとも想像を絶する痛みに身体が反応したからなのか、はたまた【東京ケイオス・マイソロジー】のシステムが関係しているのか。
大河の髪の毛の根本は、見てわかるほどはっきりと白く染まっている。
「……あのアイテム、もう二度と使っちゃダメだよ?」
悠理はそのまま大河の頭を自分の胸に強く抱きしめ、つむじの部分に鼻先を埋めた。
「……ああ、わかってる」
大河は悠理が言うアイテムが、モルヒネ(錠剤)のことを指している事を瞬時に察し、しかし何秒かの間を置いて頷いた。
「……嘘。どうせまた、無理をしなきゃいけない時に使うつもりなんでしょ」
不自然な間を敏感に感じ取った悠理が、頭を抱く腕に力を込める。
大河の考えなど、悠理には手に取るようにわかるのだ。
その証拠に、怪我が治ってから何度も何度もその件で悠理にお説教を喰らっているのに、アイテム自体は処分していない。
逆に今回の件でその有用性がはっきりとしてしまったせいで、最後の切り札としての価値を見出してしまった。
「そ、それは──」
「いいよ。どうせ私が何を言っても、そう言う時の大河は止められないってわかってるんだから。でも本当に、嫌なんだからね……?」
大河の頭頂部に頬を寄せ、悠理は涙声で大河を説き伏せる。
「……うん」
大河は目を閉じ、ゆっくりと頷いた。
鼻の奥に悠理の優しい匂いが入ってくる。
その身体の柔らかさを顔いっぱいに受け止めて、心を落ち着けた。
「あの、ところで悠理」
「ん? 何?」
「そろそろ、服を着てくれない?」
風呂上がりの悠理は、ショーツだけを身につけてそこにバスタオルを無造作に首にかけているという、酷く扇情的な格好をしていた。
「あの、日が出るまでには出発しようって話。さっきしたよね?」
「うん、だからお風呂に入ったんだよ?」
「そう、ここを離れたら今度はいつ風呂に入れるかわかんないからって」
「そうだよ。次の街までどれくらいかかるか、全然読めないんだもん。ちょっと長風呂になっちゃったけど、日の出までまだ時間あるよね?」
そう言って悠理は大河の頭から顔と腕を離した。
腕はそのまま大河の肩に置かれ、大河の膝には悠理の尻がゆっくりと乗る。
「じ、時間はあるけどさ。早ければ早いほど良いわけじゃんか?」
「そうだね。でも外はまだ寒いし、もう少し温まっても良いんじゃないかな」
そう言って悠理は、大河の首に顔を埋める。
「ううう、うん。もう本当に冬って感じの気温──悠理っおまっ、ちょっ」
「んふふっ」
大河の首筋にちろちろとした滑らかな感触が走る。
それは徐々に徐々に首から顔に昇っていき、最後に大河の左の耳たぶを優しく食んだ。
「頑張って大河の看病をしたご褒美、もうたくさん貰っちゃったけど……もう少し──欲しいなぁ」
「な! お、おまえあれだけやって──ああっ! もう! 覚悟しろよ!」
悠理の真っ白で細い腰をぎゅっと抱き、体勢を入れ替えてベッドに押し倒す。
「うふふっ」
大河は嬉しそうにはにかむ悠理の顔を見て、心の奥から熱い劣情の波が押し寄せてくるのを感じた。
「……お前には敵わないよ。ほんと」
「そう? でもいつも最後に大河に負けて泣かされてるの、私じゃない?」
「そういう話をしているわけじゃ──いや、そういう話でもあるか」
やがて二人は幸せなキスをして、このあとめちゃくちゃセ──。