離別
しばらくして、調達班の一人が封印結晶の間の隅に『扉』が出現している事を瑠未に報告した。
それは湖底ダンジョンの二十四層にあった、あの青いモヤに満たされている荘厳な意匠の扉だ。
もはや誰かにかける言葉すら見つけられない大河は、その扉を一瞥した後で悠理に顔を向け、無言で目をじっと見る。
「うん、行こう」
大河の視線が言わんとする意図を瞬時に読み取った悠理が、コクリと頷いた。
ラナが大河に施した【神託】もどき、その効力がいつまで続くのか分からない。
ラナの言う事が事実ならば、時間が経てば大河はまた傷だらけになり意識が混濁し一人で歩く事すらままならなくなるだろう。
それまでに安心して休める場所を見つけ、治療に専念する。
悠理にとってそれがなによりも急務だ。
「……瑠未さん、俺達はもう」
このまま瑠未たちと肩を並べて、子供達が待つパークレジデンスに戻る事はできない。
みんなの、そして『陽子』の帰りを信じて疑わないあのキラキラとした多くの瞳に晒されるなんて、大河には到底耐えられない。
本当ならきちんと、この手で『陽子』を殺した事をみなの前で報告し、その恨みの声を一身に受け止めるのが筋なのだろう。
だがどうしても、それだけは耐えられそうになかった。
「……ええ、後の事は私に任せて。陽子から任されたもの。これは私の、私たちのやるべき事よ」
未だ真っ赤に腫れている目を擦り、陽子は大河に向かって微笑む。
その『私たち』の中に自分が含まれていない事の若干の寂しさと疎外感が、考えすぎと理解していても今の大河には辛かった。
「……今まで、お世話になりました」
大河は礼儀正しく背筋を伸ばし、深々と頭を下げる。
それは瑠未に、そして『陽子』に対する嘘偽りない感謝の念。
東京が今の姿に変容してもうすぐ半年。
長い様で短い、その期間の中で。
パークレジデンス池袋で過ごしたこの一ヶ月は、かつての穏やかな生活を彷彿とさせる心休まる時間だった。
それは確かに瑠未と、そして陽子が作り上げたモノだ。
「いいえ、私たちこそ……貴方に何もかもを頼りすぎて、背負わせ過ぎた。ごめんね。大河くん。本当に、ありがとう」
瑠未は立ち上がり大河に正対すると、同じ様に深々と頭を下げた。
そして二人同じタイミングで頭を上げて、軽く右手で握手をする。
大我は未だ陽子に泣き縋る椎奈を見た。
その背中を支えながら、強い決意の光を宿して大河の顔をまっすぐ見つめる圭太郎を見た。
圭太郎は困ったようにはにかんで、『大丈夫だから』と言わんばかりに軽く頷いた。
次に剛志へと視線を送る。
地面にへたり込み、弱々しく大河を見上げる剛志。
大河はゆっくりと歩み寄り、汗で濡れたその頭をぐしゃぐしゃと撫で混ぜる。
剛志は顔を俯かせ、小さく嗚咽の声を漏らす。
そのまま調達班の面々の顔を伺う。
大河を見るその目には、複雑な感情が入り混じっている。
「……行こう」
その視線に居た堪れなくなった大河が、剛志の頭から手を離して悠理と朱音に促す。
「うん」
「──ええ」
悠理と朱音はそれだけ告げて、先頭を歩き出した大河の背中を追った。
そして青いモヤで満たされた扉を潜ろうとしたその時──。
「──この人殺しぃ!」
椎奈の声が、静寂を切り裂いて大河の耳に届いた。
大河は振り向かず、立ち止まって声を聞く。
「絶対に! ボクは絶対に許さないからなぁ! ひっく、たとえみんながオマエを許しても! ボクだけはオマエが陽子姉を殺した事を許してやるもんか! 今は絶対に勝てなくても! いつかボクが! ボクがオマエを殺してやる! 殺してやるんだからぁ! うぁああああああああああっ!」
掠れた声で大河へとぶつけられたその真っ直ぐなまでの怒りが、大河の心臓に鈍い痛みを走らせる。
「……ごめん」
決して椎奈に届くはずもない小さな声で呟いた。
そしてそのまま椎奈の顔を見る事もなく、大河は扉の向こうへと歩を進める。
耳の奥にこびりつく残響が、耳鳴りとなって大河を苦しめる。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「ここは──」
淡い青の光を抜けて、開かれた視界の見た光景に大河は驚愕する。
扉を抜けてたどり着いたのは、荒廃した都市だった。
大きなターミナルの中心にぽっかりと開いた歩行者スペース。
何度か見覚えのある、有名百貨店の看板。
電気も通ってないはずなのに、煌々と輝くいくつもの電光掲示板や広告看板。
それはかつて多くの人が往来し、埼玉や東京市郡からのバイパスとして機能していた東京でも有数のターミナル。
池袋駅、その東口の姿だった。
道の至る所に未だ水溜りが点在しているが、それでも普通に歩ける程度には道が開けている。
「も、もう水が無くなってるの……?」
大河の隣で悠理が呟いた。
都市解放イベントが終了して──『水野陽子』が死亡してまだ数時間。
都市を丸々一つ水没させていたはずの水量が消え去るには、考えられないくらい短い時間だったはずだ。
大河と悠理はキョロキョロとあたりを見渡して、ふと振り返る。
そこには一際大きなビルが、存在感を強く主張している。
サンシャイン60。
池袋を代表する、かつて東京で一番高いビルとまで呼ばれていたランドマーク。
まだそこに、瑠未や圭太郎や剛志、そして泣き叫ぶ椎奈が残されている筈だ。
「宿を、探さないとな。いや、聖碑が先か?」
右手の指に痺れを感じ始めた大河は、自身に施された【神託】もどきの効力が消えかかっている事を察した。
「そうだね。大河がゆっくり休めるところを──」
「──二人とも、ごめん」
今まで押し黙っていた朱音が、突然悠理の言葉を遮った。
その小さな声に朱音の姿を見ると、未だ青いモヤの扉の前で俯き、両手の拳を固く握っている。
「……朱音さん?」
悠理が朱音に問いかけると、朱音はゆっくりと顔を上げて、泣いているような──笑っているような。
形容し難い表情で大河と悠理を交互に見やる。
「あ、アタシ……アタシやっぱり──」
「──いいよ」
何かを言い淀む朱音の言葉を遮った大河が、腕を組んで無理やり笑う。
「放っておけないんだろ? 子供達と、瑠未さんが」
「──っ!?」
大河の言葉に、朱音は眉間に皺を寄せて苦しそうに顔を顰める。
「朱音さんはなんだかんだで優しい人だからさ。きっとそう言うと思ってた。いいよ。俺らの事は気にしないで大丈夫だから」
「──あ、アンタの! アンタらのことだってちゃんと心配してる! それに目白からここまで、アンタらが居なかった生きてここに辿り着くこともできなかったって! バカなアタシでもちゃんと理解してる! たくさん迷惑かけたし、ここまで強くなれたのだって! 大河のおかげだって!」
語気を強めた朱音が、頭を振って自分の不義理を嘆いている。
強く賢く、そしてしっかりと自分たちで生きていける大河と悠理。
心の支えだった『陽子』を失い、解放されトラブルが増えると予想される今の池袋を生き抜かなければならない、パークレジデンスの子供達。
そしてそれを一人で面倒見るつもりの、瑠未の痛々しい決意。
それらを心の天秤にかけて、朱音は戻ることを決意したのだ。
失った最愛の妹と同じくらいの年齢の子供たちを、放っておけないと。
「だけど、だけどやっぱりアタシは! 子供達が!」
「──うん。もうあそこに戻れない俺の分まで、朱音さんがあの子たちを守ってやってくれ」
「た、大河……」
「朱音さんはさ、雑だし単純だし、考えなしだし無鉄砲だけどさ」
「……あ、あれ? 褒められて……ない?」
がくっと肩を落とした朱音が、口の端をひくつかせた。
「でもちゃんとみんなのことを考えられる、強くて優しい人だって知っているから。少し心配だけど、信頼してる。だから俺の代わりに、あそこの子供たちを守ってやって欲しい」
大河はそう言って、朱音に右手を差し出した。
「うん……うん! うん!」
目尻に涙を溜め込んだ朱音は、大河の右手をしっかりと自分の右手で掴み、そしてぶんぶんと振った。
そして悠理を見る。
悠理は眉を下げて笑い、大河と同じ様に右手を差し出した。
「……短い間だったけど、楽しかったよ朱音さん」
「あ、アタシも。アンタらと居て……楽しかった」
悠理と固く握手をした後、朱音は青いモヤで満たされた扉へと振り返る。
「な、なにかあったらすぐにメッセ飛ばしてよね! アンタらが困ってたらアタシすっ飛んでいくからね!」
「ああ、そん時はお願いな」
「元気でね」
大河と悠理は並んでその姿に手を振った。
「──じゃあ! またね!」
瀬田朱音は、最後にそう言って扉の中へと消えていった。
朱音が飛び込んだ後、青いモヤで満たされた荘厳な扉は、細かい光の粒子となって徐々にその形を失っていく。
「……」
「……大河、行こう」
悠理は大河の左腕をぎゅっと抱いて、優しくその身体を引いた。
「……ああ」
後悔と罪の意識、やるせなさと名残惜しさに後ろ髪を引かれつつ、だけど決して戻ることのできないあの温かったパークレジデンスでの生活を思い起こし、大河と悠理はサンシャインを背にして歩き出す。
池袋に降り注ぐ満月の明かりは、再び旅立つ二人を優しく照らしていた。