錯乱①
明滅する大河の視界の端に、悠理が教えてくれたディーバの本体──部屋の奥に鎮座する巨大な結晶が見える。
それは夕日の光に照らされ、そしてその光を周囲へと乱反射させ、他のどの結晶よりも眩く輝いている。
「お、オレが!」
快刀・乱麻を握り直した傷だらけの圭太郎が、大河とディーバの間を遮るように立ち、構える。
「オレが陽子姉をっ、止めるんだぁああっ!」
「──まっ、待て圭太郎! ぐぅっ!」
震える雄叫びを発しながら駆け出す圭太郎を止めようと身体に力を込めた大河は、しかし唐突に脱力した足のせいでその場にうずくまった。
「も、もう少し……、もう少しだけ動け……俺の身体っ!」
ハードブレイカーを杖代わりに両手で掴み、上半身と腕の力だけでなんとか立ち上がった大河は、ハードブレイカーを地面に突き刺しよろよろとカーゴパンツの右ポケットからスマホを取り出すと、震える指でアイテムボックスを操作する。
生唾を飲み込み、覚悟をキめて──決して手にする事は無いだろうと、どこかで高値で売れないかと悠理や朱音にもひた隠しにしていたとあるアイテムの名称をタップした。
目の前に現れる小さな錠剤を、スマホをポケットにしまいその手で手にする。
それはかつて目白で殺した男──麻薬クランのリーダーのアイテムボックスから奪い取ったモノだ。
対してアイテムリストの精査もせずに全てを強奪した為、後々になってそのアイテム名を目にした時は少し驚いた。
それは『調剤』のアビリティを成長させていた例の人でなしが、その訓練過程で偶然生成できた試験薬。
要求される合成素材のレアリティと種類がそれまでの薬よりも数段も高かった為に、どうしても量産に踏み込めなかった彼が待ち望んでいた逸品。
そのアイテム名を──『モルヒネ(錠剤)』と言う。
大河は一瞬の逡巡の後、その小さな錠剤を口に放り投げて、舌と喉の動きだけで飲み込んだ。
専門的な医学知識の無い大河は、モルヒネという薬品の名前くらいしか知らない。
アイテム欄に書かれた説明だけで、その効能と危険度を察したレベルの無知だ。
【鎮痛剤として用いられる薬品。使用者の耐久度・体力を一時的に50%ブーストし、思考速度にも一時的な強化が係るが、同時に抗えない興奮と継続的な多幸感を与える。一度の使用につき〔薬物依存〕のバッドステータスが付与され、使用回数に応じて付与数値が増加していく。(このバッドステータスはステータス画面に表示されない。また時間経過・あるいは専門スキルによる治療でしか数値は減少しない)】
その薬剤の危険性を、このアイテム説明文から大河は理解できていた。
それは本来、医師の専門的な判断と患者の同意の上で使用されるべき薬。
元々の取り扱いからして然るべき免許を必要とする上に、用法と用量を見誤れば重大な心身への障害が出てしまうモノ。
だから湖底ダンジョンを突破する際にいくつものブーストアイテムを使用していても、この薬だけは手にしなかった。
しかし今、大河は己の限界の淵がすぐ側にまで来ている事を察している。
そう遠く無い秒数で、指一本動かせなくなる事実がひしひしと迫ってきている。
だが大河にはこの場において成さねばならぬ役割──陽子をその手で殺すという役割が、義務が、責任があった。
だからもう、迷ってなんかいられない。
「ふぅっ、ふぅううっ、ふぅうううううっ!!」
手を出してはいけないものに手を出した。
その興奮と、そして恐怖で大河の心臓の鼓動が速まる。
じっとりとした脂汗が滲み始め、目の周りの筋肉がピクピクと痙攣を始める。
麻酔薬としても扱われるモルヒネの服用。
その効能は実世界では意識の混濁を伴う可能性もあるが、『東京ケイオス・マイソロジー』の世界では、興奮剤と麻薬としての効能がメインだ。
だから、大河の意識は徐々に醒めていく。
「お、俺がっ、俺が殺るんだ……俺が殺らないとっ」
地面に刺さったままのハードブレイカーを乱暴に引き抜き、大河は朱音や圭太郎、剛志と戦っている陽子──カース・セイレーン・ディーバから背を向け、その本体である結晶へと身体を向けた。
あの水晶を叩き割れば、陽子は死ぬ。
瑠未の願いが、そして陽子自身の願いの言葉が、今の大河の身体を強く突き動かしている。
圭太郎に、椎奈に、剛志に、陽子を殺させるわけには行かない。
子供たちの手で殺される事を、ディーバは望んでいない。
朱音もまた、年齢の近い陽子や瑠未とかなり親しい関係となった。
自らの友人をその手で殺さなければならないなどとそんな悲しい事を、あの気っ風が良く、不器用な優しさを持つ彼女にさせるわけにはいかない。
「俺なんだ……俺が、俺が陽子さんを……なぁ綾、そうだよな……?」
どのような理由でこの世界がこうなってしまったのかなんて、未だにさっぱり分からない。
分かるのは、今の東京が親友の思い描いた理想のゲームを元にしていて、そしてそのせいで多くの人が死に、この池袋でも今まさに悲劇となって誰かを苦しめている。
だから、大河がやらねばならない。
「お、お前の尻拭いは……俺が……やるんだ。俺にお前がしてくれたみたいに……お前を置いて、居なくなっちまった俺が……死んだお前にしてやれる事なんて……もう、このくらいしか……だから、だから……だからぁあああああああああああああああああああああああああっ!」
複数のブーストアイテムの使用により真っ赤に充血した目をカッと見開き、大河は悲壮な雄叫びと共に走り出す。
身体中の至る所から血を噴き出しながら、アイテムの効能下において混乱し始めた思考を、それでも確固足る目的意識のみで身体を動かして。
大河は、ひたすらに走った。
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「やめろぉおおおおおおおっ!」
放たれたのは、この封印結晶の間において最も高い〔魔力〕のステータスにより増強された、【竜巻】。
放ったのは、戦闘の混乱の中いつのまにか悠理の形成した【防護】の結界から抜け、ディーバの本体を守るように立ち塞がった、椎奈だった。
「ぐぅううううっ!」
椎奈を中心として周囲に巻き起こる、肌をも切り裂く突風の渦に跳ね返された大河の身体が、天井高く吹き飛ばされる。
「くぅうっ!」
苦悶の声を上げながら、それでも大河は抜剣状態により高まった身体能力を駆使し、天井を足場に蹴り上げてなおも結晶へと突撃していく。
「やめろって言ってるだろぉ!」
椎奈の持つ儀礼剣が飛来する大河へとその鋒を向ける。
そして繰り出される、岩をも切り裂く水流の噴射。
儀礼剣ルナアーチのアビリティの一つ、【魔法効率化】。
あらかじめ動作と魔法を紐づけていれば、三つまで詠唱無しで魔法を発動させる事ができる。
ルナアーチを突き刺すように動けば、【洪水】。
切り裂くように動けば、【竜巻】。
剣を縦に構えれば、【業火】。
椎奈が圭太郎の助言によりセットしていた魔法はこの三つ。
それは今までの生活で、そして湖底ダンジョンでの探索活動で、ほぼ無意識に扱えるまでに洗練された所作だった。
その魔法が、今大河に向かって放たれている。
「全部っ! 全部お前が悪いんだ!」
ルナアーチの鋒から放出される大量の水が、壁や天井を蹴って逃げる大河を追う。
「お前さえ来なければみんな上手く行ってたのに! ボクたちがこんな辛い事、しなくても良かったのに! 陽子姉があんな姿になることなんて! 無かったのに!」
「ぐっ!」
見開かれた大きな瞳が、とめどない涙で濡れている。
悔しさで噛み締めた唇が、血に染まっている。
「しー姉!? なにやってんだよ!!」
大河の意識の外側で、圭太郎の声が響いた。
「大河ぁ!」
悠理の悲痛な声が。
「椎奈! アンタ自分のしてる事分かってるの!?」
朱音の困惑した叫びが。
「しーちゃん! お願いやめて!」
瑠未の泣き叫ぶ声が。
今にも散り散りになりそうな大河の意識に向かって飛び込んでくる。
「陽子姉は殺させない! ボクが陽子姉を守るんだ! きっと他に、何かあるはずなんだ! 陽子姉を元に戻す方法が! きっと!」
もしかしたら、あるのかも知れない。
大河の脳裏の片隅に浮かぶ、今はもう消え入りそうな程小さい冷静な大河がそれを肯定した。
しかし同時に、それを否定する。
もう、それを探し出せるほどの時間が残されていない、と。
「くっ、くぁあああああああああっ!」
ブーストアイテムの効能によって興奮状態の大河には、その言葉を口に出せるほどの余力が残っていない。
大河は椎奈と、そして椎奈から放たれる魔法を懸命に避けながら、なおも目標はディーバの本体である結晶を捉える。
「そ、そうだよ……きっとこの人を……アンタを殺せばいいんだ! 最初からずっと、アンタはボクらの邪魔でしか無かった! だからアンタさえ居なくなれば! あははっ、あははははっ! 見ててねけー君! 陽子姉! 瑠未姉! ボクが、ボクがみんなを助けてあげるから!」
拗らせた精神が、極限状態の弱い椎奈の心を歪ませた。
予兆はずっとあった。
東京が、池袋が地獄となった初日からずっと、元々自己肯定感が低く、そして卑屈だった椎奈は現実と向き合えていなかった。
厳しい現実から目を背け、圭太郎と陽子を心の支えとしながら。
しっかりと日々を歩いているように己すらも騙して、そして皆に気づかれぬままずっと歪みを抱えて、今それが最悪なタイミングで発露した。
理由はたくさんある。
普通の女の子が夥しいまでの人の死に直面して、まともで居られる訳がないのだ。
気弱で卑屈だった中学生女子が数多くの悲惨な現実を直視して、捻れないわけが無いのだ。
椎奈を椎奈のまま保っていられたのは、圭太郎からの信頼と陽子の母性、そしてあのパークレジデンス池袋の日常があったから。
今それらが全て奪われようとしている中で、この幼さの残る中学生女子の心が、まともで居られるわけが無かったのだ。
だから──。
「お願い! 死んでよ!」
──だから今、すべての負の感情が大河に向いてしまったとしても、何もおかしくは無い。
十数体のクリスタルドールを相手取りながらギリギリで応戦できている大人たち。
戦えない瑠未を守りながら、怪我人の治療に専念せざるを得ない悠理。
無数の結晶の槍が四方八方から飛来し、それを跳ね除けながらディーバをその場に留めることしかできない朱音・圭太郎・剛志。
大河と椎奈の間に割って入れる者は誰も居ない。
封印結晶、大河、そして椎奈。
この先どのような結末を迎えたとしても、もうそこに誰かの死という悲劇しか、用意されていない。




