到達の時
悠理は今、自分の選択が正しかったかどうかをずっと悩んでいる。
大河と連絡が付かないまま、結局陽子率いる調達班は洪水を止める為にダンジョンの攻略をする事になった。
それほど自分たちの生活領域が水に侵される恐怖という物は強いのだろう。
大河を信じて待ち続けていた悠理ですらそうだったのだから。
気の短い朱音も、そして圭太郎を含むほとんどの調達班が陽子にダンジョン攻略を促した事も、仕方がない話である。
一応正午を過ぎるまでは大河を待ったが、やはりメッセージの既読すら付かないまま。
大河のその身も心配だし、なによりマンションのほとんどの戦力を投じ、湖底迷宮の地下二十四階層に到達した事が不安で堪らない。
「あれね……」
普段は上層で待機している陽子は、他の調達班の面々による手厚い護衛によって守られている。
傍で強張った表情をしている瑠未も同様だ。
「この扉だけ、このダンジョンに不釣り合いなくらい豪華ね……」
「ええ……」
索敵を担い先頭を行く圭太郎と、その随伴である椎奈と剛志が、扉の前で立ち止まり陽子を見ている。
「陽子姉、本当に行くんだな?」
圭太郎の問いに、陽子は強い決意の籠った眼差しで首肯した。
「もしここに書かれていることが本当なら、あの洪水を止められるかも知れない。それどころか、水没した池袋全体が戻ってきて、私たちはもっと自由に行動できるようになるわ。行くしかないのでしょうね……」
「うん、陽子姉がそう言うなら、ボクもそう思う」
右手にルナアーチを携える椎奈が、陽子と瑠未、そして圭太郎を順番に見て頷いた。
「何があっても俺らが絶対に守るからな」
剛志の言葉に、その場に居た調達班全員が同意の声を上げる。
「……大河」
大所帯となった一団の最後尾に立つ悠理が、扉とは逆の方向を見て呟く。
「心配だけど、今は自分の身を守る事を優先しなって。アイツならきっと大丈夫だから。そう簡単にくたばるような男じゃないでしょ?」
朱音が悠理の肩に手を起き、励ましの言葉を投げた。
「うん……」
一応その言葉に頷きながらも、しかし悠理の心も顔も晴れない。
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「はぁっ! ぐうっ!」
肩口に抉るように刺さった三叉の槍が、大河の意識を削ごうと痛みを走らせる。
壁に背を預けて徐々に床に座り、唇を噛み締めてゆっくりと槍を抜くと、傷口から大量の血が噴出した。
「はぁっ、はあぁああっ!」
チカチカと明滅する視界。
もう身体のどこが傷んでいるのか、大河は把握できない。
「くっ」
スマホを操作して、手持ちの全て回復アイテムを一種類づつアイテムバックから取り出した。
止血剤。
消毒薬。
バンドエイド。
包帯。
解熱剤。
エナジードリンク。
滋養強壮剤。
各種ビタミン剤。
携帯食糧。
マムシエキス。
これらは購入した物もあれば、巡礼者を殺した際に奪い取った物もある。
どのアイテムを誰から奪ったか、いつ奪ったかは定かでは無いが、アイテム説明欄に書かれている効果に少しでも回復要素が含まれていれば関係無い。
どうせろくに回らなくなった頭では何をどのように使えばいいのかの判断もつかない。
エナジードリンクと滋養強壮剤の効果で正常になりつつある思考で、見える範囲の怪我にありったけの消毒薬を振りかけ、バンドエイドを雑に貼って包帯を巻く。
各種ビタミン剤を包装から取れるだけ取り出し、口に放り投げてマムシエキスと一緒に飲み干す。
最後に携帯食糧で小腹を満たし、ようやくそこで傷の痛みを忘れられた。
「……あと、ワンフロア」
二十階層から先は、サハギンファミリーが総出で現れる賑やかな構成だった。
一階層に一体だけ存在するファミリーのボス、ドン・サハギンを見つけて殺さなければ、高回転でリスポーンする各種サハギンが絶え間なく襲ってくる。
一度に襲来する群れは最大で十五体。
それは十五階層で圭太郎たちがハマった罠に酷似しているが、相違点と言えばあの罠よりも敵の密度が低い事。
そのおかげで、ギリギリながらも持ち堪える事が出来ている。
大河はもはやサハギン・ギャングの攻撃を避けることもなく、槍が刺さろうと殴られようと、岩石をぶつけられようとお構いなしに、脅威となり得るサハギン・マフィアだけを狙いつつ先へと進む事を優先していた。
一番弱いサハギン・アウトロー、イリーガル、ギャングの三種は進行を阻害する個体だけ薙ぎ払い、その巨体故に通路を塞いでしまうマフィアだけはどうしても排除せざるを得ないのだ。
雑魚に構って足を止めてしまえば、部下のサハギン諸共を突きさす勢いでマフィアが攻撃してくる。
囲まれてしまえば詰みかねないので、少なくとも一方向分の逃げ道を用意しつつ戦わなければならないのも、大河の状況を不利にしている要因だった。
そんな戦法を駆使し、それでもなんとか二十三階層まで来れた。
湖底迷宮に潜ってすでに五時間半が経過しようとしている。
それは一人として考えれば早過ぎるほどのタイムレコード。
最近レベルを22まで上げた大河だからこそ出来た強行軍であり、ダメージを負う覚悟と怪我を厭わない玉砕精神、そしてそれに耐えうる覚悟があったからこその功績である。
小刻みに痙攣する足に無理やり力を込めて立ち上がり、目の前にぽっかりと空いた二十四階層へと続く縦穴へとゆっくり歩く。
おそらく最下層と見ている二十四階層での戦闘を考えると、少しでも体力を温存したい。
ここまで来たからこそ、焦ってはいけない。
倒れ込むように縦穴に飛び込み、海藻のクッションに背中から落ちる。
「はっ、はっ、はぁああっ!」
仰向けからうつ伏せに体勢を変え、両腕で上半身を持ち上げて片膝を付いた。
ブチブチと身体の中で何かが千切れるような音が耳の中で反響し、首の付け根と目の奥がズキンと痛んだ。
右手の甲にある『剣』の紋章に左手で触れる。
もはやハードブレイカーを出しっぱなしにする事すらできない。
巡礼者が必ず持っている『咎人の剣』は、抜剣状態だと常に体力を消耗してしまう。
レベルが上がる毎にその負担は軽減されているので久しく忘れていたが、こうまで疲弊しているとその消耗スピードが如実に実感できてしまう。
あの新宿駅、中央地下通路で味わって以来の感覚に、大河は自嘲気味に嗤った。
霞む視界を集中し目のピントを無理やり合わせ、ぎこちない動きで立ち上がると一歩踏み出す。
また一歩、そして一歩。
踏み出す度に速度が増していき、やがて通路内を走る。
「はぁっ、はああっ!」
乱れた呼吸。
乾き切った喉。
口内を満たす血の味。
後頭部の痛みは治らず、目の奥の鈍痛は更に強く頻度を増していく。
それでも大河は止まらない。
二十四階層の通路には、夥しい数のサハギンの死体が転がっていた。
(これは……圭太郎たちが……)
湖底迷宮の自動生成は、そのフロアに誰も存在していない時に行われる。
その際にモンスターの死体なども消えてしまうので、まだそこに残っているという事は──。
(まだこのフロアに、いる!)
その事実を認識した事で、大河の身体にわずかな活力が戻る。
二十層を超えたあたりから更に広大になったフロアを、大河はモンスターの死体を目印に駆けていく。
深層故の会敵頻度の高さが功を奏して、圭太郎たちが戦った形跡がそのまま大河の道標となっているのは皮肉な話だ。
十五分ほど走っただろうか。
大河は大きく開けた空間に到着した。
その先に通路は無く、分岐も無い。
あるのは薄暗く湿った湖底迷宮の意匠に不釣り合いな、荘厳な装いの大きな両開きの扉だけ。
(遅かった……のか……)
すでに扉は開け放たれている。
圭太郎の姿も、陽子や瑠未、悠理の姿も見当たらない。
(いや、まだ……)
扉の向こうには、聖碑を用いたファストトラベルの際に発生する青い光が満ちていた。
(この先は、多分……)
扉の横に設置されている黒いプレートには、悠理がメッセージで伝えてくれた文章がそっくりそのまま記入されている。
その文章に書かれている『日の出の塔』。
それがあの青い光を潜った先──転移先なのだろう。
そしてその場所を、大河はすでに推察している。
「サンシャインの……最上階」
この池袋、そしてそこに生活しているすべての巡礼者は、あのビルに導かれている。
大河は大きく深呼吸をして、一歩一歩を踏み締めるように進む。
目を閉じ、身体の力を抜き──そして、青い光の中へと吸い込まれていった。