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カウントダウン

作者: あくた

その夜はひどい雨だった。朝から降り続いていた小雨は、強風を伴って、昼間にはこの小さな町一帯をその猛威の手中に収めていた。

窓から見えた遠雷が、俺のいる薄暗いボロ部屋を照らし出す。鏡に一瞬だけ映った自分の顔を見て、俺は苦笑した。


――ひどい顔をしてやがる――


こけた頬に土気色の肌、何日も剃っていないヒゲ、潤いを失い、砂漠のように枯れ果てた長髪、目の下のくま……数えだしたらきりがない。とにかくひどい顔だった。

俺はもう一度、笑う。今度は自嘲の笑みだった。

右手で硬いひげの残るあごをさすりながら、俺は昔の自分の姿を思い出していた。

昔の俺はこんなんじゃなかった。肌は今より健康的で、目鼻立ちも整って、髪もばっちりきめて、毎夜のように女をはべらせては夜の街へ消えていった。公園で寝ているホームレスを罵倒しては、仲間と笑いあったこともあった。あの時が、俺が最高に輝いていた瞬間だった。

しかし、そんな生活がたたった。入った金は、すぐにギャンブル、酒、女と、この世の三大誘惑に消えていく。ひどいときには、給料が一週間もたなかったこともあった。

だが、俺は反省しなかった。一度覚えた蜜の味は、俺の体を麻薬のように侵食していった。今の生活を捨てたくない。俺は友人から金を借りたり、家財道具を質に入れたりして何とか金を工面した。それでも、金というのは手に入れることは難しくても、失うのは容易だ。そうしてなんとか手に入れた金も、瞬きする間に俺の手元から姿を消した。

そのうち金を貸してくれる友人はいなくなり、部屋にはなにも残っていなかった。

普通の人間なら、この時点でブレーキをかけたはずだ。でも、俺の中のそいつはいつしか根元から腐って、折れていた。自分自身を制御できなくなっていたのだ。

そんな俺がヤミ金に手を出し、自己破産するまでそう長くはかからなかった。


「また雷か……」


今度は近くに落ちたらしい。猛獣のうなり声のような雷鳴が、鼓膜を突き破る。強い雨風が、この吹けば飛ぶような小屋を叩いている。まるで、俺の追憶を急かすようだ。

――そう急かすな。すぐに思い出してやるよ。俺は思考を再開する。


借金取りに追われることがなくなった代わりに、金も家もなくなった俺は一晩を公園の硬いベンチの上で過ごした。俺を見限ったかつての友人たちを心の中で罵倒しながら、俺は眠った。

早朝、目が覚めると、俺の視界に一人の男が入ってきた。男の容姿からすぐにそいつがホームレスであると察しがついた。男は二カッと笑って見せる。前歯が二本なかった。


「兄ちゃん、新入りかい?」


俺が新入り? ふざけるな、俺をお前らなんかと同列に扱うな! そう叫びたい気持ちを飲み込んで、俺は男を視界から外した。

男は困ったように笑い、おそらく何日も洗っていないだろう頭をぼりぼりと掻くと、薄汚れた上着の懐を探り始める。やがて、缶コーヒーを取り出すと、それを俺の前に差し出した。


「なにがあったかは知らねぇが、兄ちゃんも大変だな、まだ若いっていうのに……同情するよ」


その時、俺の中で何かが弾けた。限界まで引っ張っていた糸が、プツンと音をたてて切れた感じだ。かつて馬鹿にしていた人種に、俺は同情されている。俺はそこまで落ちぶれてしまったというのか。怒りと情けなさが螺旋のように渦を巻き、俺を内側から飲み込んでいくのだ。徐々に思考能力が失われていく。俺は差し出された缶コーヒーを払いのけると、公園を飛び出した。

とにかくカネだ。カネが欲しい。カネさえあれば、もうあんなやつに同情されることもない。

俺は血眼になってあたりを徘徊した。そのうち、一軒の家が目に付いた。朝早いせいか、あたりに人の気配はない。カラスが屋根の上にとまっているのが見えるだけだった。

息を殺し、そっと庭に侵入する。しめた。窓には鍵がかかっていない。俺は迷うことなく、家の中へと侵入した。

中へ入ると、俺の心臓が一瞬跳ね上がった。部屋の角で、五歳くらいの男の子が寝ていたのだ。すやすやと気持ちよさそうに寝息を立てている。俺は一呼吸して、大丈夫、ただの子供だと自分に言い聞かせた。緊張していた筋肉が、だんだん弛緩し始める。そして、ゆっくりと作業にとりかかった。

タンス、鞄、本棚、化粧台……金目のものがありそうな、あらゆる場所を調べる。物音をたてずに慎重に、しかし迅速に作業を進める。手際のよさに自分自身も驚いていた。

五分もかからないうちにタンスの中から財布を見つけ出した。中を確認する。六万円ほど入っている。俺は右こぶしにぐっと力を入れた。

ここで止めておけばよかった。この金だけ持って逃げればよかったのだ。しかし、自制装置が欠落してしまっている俺は、欲がでた。短時間でカネを手に入れたことも、俺の欲を助長した。このあたりが、プロとド素人の違いなのだろう。気がつくと、別の棚に手が伸びていた。

不意に、背中の辺りに気配を感じた。振り向くと、さっきまで寝ていた男の子が、目をこすりながら俺の顔をじっと見つめていた。


「おじちゃん、だれ?」


呼吸とも言葉ともつかないものが、のどの奥でつっかえている。額から出た脂汗が頬を伝って床に落ちた。

盗るものは盗ったんだ、このまま逃げればいいだけだ。幸い、相手は子供。そう難しいことじゃない。

出口に向かい一歩一歩、ゆっくりと後退する。寝ぼけているのか、男の子は半分しか開いていないまぶたで、俺の顔を見ていた。

突然、背後の襖が開く。振り向いた俺の視線と、女性の視線がぶつかった。

――そこからの記憶は、俺も断片的にしか覚えてない。

覚えているのは、今でも消えることのない、人の首を絞めた両手の感触。恐怖と苦痛で歪んだ女の顔。そして、泣き喚く子供を蹴り上げた右足の感覚だ。


     ◆


雨がいよいよ強くなってきた。

机の上に置いてある時計を一瞥する。午後一〇時三〇分。顔は無表情をつくっているが、俺の心臓は時間が経過するにつれて、鼓動を早めていた。

あの事件からもうすぐ十五年がたつ。十五年――殺人罪の時効。早朝だったことと、人の通りが少なかったことで、俺は運よくここまで逃げることができた。今日の午後十二時で時効は成立する。あとたった一時間半だ。もうびくびくしながら生きる生活も、終わるのだ。これが興奮せずにいられようか。

俺は、はやる気持ちを紛らわすためにテレビの電源をつけた。

ふと、雨と風の音にまざった雑音が耳に聞こえた。最初はテレビから聞こえてくる音だろうと思っていた。しかし、その音は一定のリズムを刻んで、確かに玄関のほうから聞こえてくるのだった。

(コンコン)

ノック音。こんな夜中に誰だ? 俺は眉をひそめながら、それを無視し続ける。しかし、音は一向にやむ気配をみせない。しかたなく俺は腰を上げ、玄関へ歩き出した。

この家のドアには、外の人間が誰だかわかるようなのぞき窓はついていない。ただの木の板が玄関の枠に収まっているだけだ。その隙間から、ゆっくりと俺は外の様子をうかがった。


「すいません」


抑揚のない声。隙間から見えたのは、一人の男の姿だった。


「雨が止むまで、ここにおいていただけませんか」


男の言葉が、俺の中のちょっとした悪戯心を刺激した。

時効まで一時間半、それに加え、外は悪天候で人の気配もまったくない。もう俺の時効成立は、九分九厘確定したといっていいだろう。

だが、その瞬間の喜びを一人で味わうのではおもしろくない。この男にも見届けてもらうのだ、俺が過去を清算した瞬間を。


「ええ、いいですよ」


俺はこれ以上ないくらいの愛想の良い笑顔で、男を迎え入れた。

島田と名乗ったその男は、大き目の紺色のリュックを背負っていた。細身で長身。歳は二〇歳らしいが、その顔はまだどこか幼さが残っていた。その代わり、島田の両目は異様なくらい鋭かった。獲物を見つけた猛禽類の目、とでも言おうか。顔に幼さが見えるぶん、俺にはその目の鋭さが異様に際立って見えた。

島田の髪は雨のせいでぐっしょりと濡れている。髪だけではない。全身が水をかぶったようにずぶ濡れだ。おそらく何時間も外を歩き回っていたのだろう。ジーンズも泥だらけだった。


「お風呂、入ります?」


俺の言葉に、島田は相変わらず無表情でうなずいた。

島田を風呂場に案内してから、俺はタンスの中から適当に服をひっぱりだすと、それを脱衣所のそばに置いた。


「服、ここに置いておきますから」


中から返事はなかったが、俺はその場をあとにした。

俺は床に腰を下ろすと、天井の染みを目で追いながら考えを巡らせていた。

時効が成立した瞬間、俺が昔どんな罪を犯したかあの男に話してみるのもおもしろい。そしたらあいつはどんな顔をするのだろうか。

壁一つ隔て、雨音に交じったシャワーの音が聞こえてくる。

残りあと一時間少々。とりあえず、カップラーメンでもつくって食わせておけば、時間を稼ぐにはちょうどいいだろう。

お湯を沸かしていると、ふと、島田の持っていたリュックが視界に入った。あんな大きなリュックを背負って、島田は何をしていたのだろう。人間の好奇心とは恐ろしいもので、俺の足は自然とリュックに向かっていた。

少しくらいならいいだろう。雨宿りの場所を提供してやってるんだ。

俺の手がリュックに触れたとき、玄関先に立てかけてあっただけだったそれはするりとすべって、玄関のコンクリート部分に倒れた。

『ガキン』という重金属の音が部屋に響く。俺は慌てて元の場所に座った。ばれないかとドキドキしていたが、シャワーの音は止まることなく聞こえてくる。

俺は安堵のため息を着いた反面、中から聞こえた重金属の音が、さらに俺の好奇心を駆り立てていた。再びゆっくりと近づく。今度は慎重にリュックの口を開いた。

中からでてきたのは両手で持って使うようなスコップ、懐中電灯、そしてサバイバルナイフだった。他に入っているものはない。身分を証明するものどころか、財布すら入っていなかった。

島田はこれらを使って何をしていたのか。中身を見つめながら考えを巡らせていると、シャワーの音が聞こえなくなっていることに気がついた。急いでリュックを立てかけ、何事もなかったかのように装った。

ほどなくして、俺の用意した服に着替えた島田が部屋に戻ってきた。


「お湯はどうでした?」


顔は島田に向けていたが、意識は完全に背後のリュックに向いていた。


「ええ、よかったです。ありがとうございます」


感謝の言葉も島田の抑揚のない声で言われると、いいことをした気がしない。どこか義務的な声の調子。これなら、コンビニにあるATMの音声案内のほうがまだ愛想よく聞こえる。


「そうですか。今、食事つくってるんで、座って待っていてください。まぁ、カップラーメンですけど」


どうやら気づかれていないようだ。俺は小さく息を吐くと、台所に向かった。

カップラーメンをつくって部屋に戻ると、時刻は十一時を過ぎていた。ついに、残り一時間をきった。俺がラーメンを島田の目の前に置くと、島田は一礼してそれを食べ始めた。

島田が食べている間、俺はタバコをくゆらせながらテレビ画面に視線を移していた。

画面の中では今売れているお笑い芸人が、次々とネタを披露していく場面が映し出されているが、俺の頭の中は、さっき見たリュックの中身のことでいっぱいだった。

いっそ、何をしていたか聞いてしまおうと思った直後、機械的な音と一緒にテレビ画面上に《ニュース速報》の文字が表示された。


『○○県××町の山中で若い女性の切断された頭部が埋められているのを発見。地元警察で身元を調査中』


俺は目を見開いた。××町はここからさほど遠くない所にある町だ。そんな近くで事件が起きたのも驚きだったが、俺は同時に別の恐怖を感じていた。

スコップ、懐中電灯、サバイバルナイフ、泥だらけのジーンズ……すべての点が、線でつながる。

豪雨の中、飛び跳ねる泥をものともせずに穴を掘る島田。顔は無表情だが、瞳を爛々と輝かせ、女性の頭を埋めている、そんな姿が脳裏に映った。

たまたまだ。そんなことあるわけない。俺の隣にいる男は、こんな事件になんの関係もない。自分にそう言い聞かせる。

視界の隅に島田の顔を捉える。島田も手を止めてテレビ画面を見つめていた。


「怖いですね、近くでこんなことがあると」


無理やり笑顔をつくって島田に話しかける。島田は相変わらず、瞬き一つせずに画面をじっと見つめたまま、口元をにやりと歪ませた。


「僕ね、人、殺したんですよ」


雷鳴と同時に、くわえていたタバコの灰が、音もなく床に落ちた。


「は?」


「だから、人を殺したんですよ」


島田は恐ろしいことを、さも当たり前のように平然と言ってのける。その表情は嬉々としていて、今まで一番生き生きとして見えた。


「ははは、冗談でしょ」


まだ残っているタバコを灰皿に押し付ける。指が微かに震えているのがわかった。


「彼女ね、僕の上司なんです。機嫌が悪くなったら、新入りの僕ばっかり怒鳴りつけるんで、前からね、殺してやりたいと思ってたんですよ」


島田の狂気を孕んだ瞳が、光った。


「薬で眠らせてね、あとは簡単でした。山に連れ込んで、首を絞めたんです。こう、ぎゅーっとね」


島田はハシを首に見立てて両手を強く握る。女性の細い首の残像が島田の手の中で、浮かんで、消えた。


「でもね、途中で起きちゃったんです。薬の量が少なかったのかなぁ……。そしたらね、泣いて頼むんですよ。“助けて!”って。あの、いつも僕を怒鳴り散らしてた女がですよ」


島田は自分の体験を思い出して興奮しているのか、今まででは想像もできないくらい饒舌にしゃべり始める。俺の手のひらはすでに汗で濡れていた。十五年前のあの感覚が、島田の話でより鮮明になっていた。


「しばらくしたら、声も聞こえなくなって、あ、死んだんだなって思いました。それでも、ちゃんと死んでるか心配だったから、ちょうど持ってたナイフで切ったんです、首。スコップは近くの民家の納屋から拝借しました。そっか、誰にもばれてないと思ってたけど、誰か見てたんだ……」


島田は顔をふせた。その顔は後悔というより、苦笑だった。『もっとちゃんと準備しておけばよかった』とでも言いたげな表情だった。


――狂ってやがる――


俺も人を殺したことがあるが、最初はそんなつもりはなかった。だが、こいつはどうだ。最初から明確な殺意をもってやがる。しかもそれをなんの躊躇もなく人に語るなんて、常軌を逸しているとしか思えない。

島田は顔を上げると、俺のほうを振り向いた。

島田の視線がぶつかる。冷たい刃物のような狂気が、視線を通して背筋に伝わってくる。


「あなたも人、殺したことありますか?」


笑っていた。満面の笑顔だった。なのに、なぜこんなにも不快な気分になるんだろう。

なんという運命の悪戯だ。もうすぐ時効を迎える男と、ついさっき人を殺してきた男が一晩を同じ部屋で過ごすことになるなんて。神がいるとしたなら、そいつは俺に何を求めているんだ。


「俺も殺すのか?」


俺の問いに島田は首を振った。


「あなたには、風呂やラーメンの恩もあるし、恨みもないですしね。雨が止んだら、おとなしく帰りますよ」


それから島田は『なんなら警察に通報します?』と笑って見せた。

本当なら、こんな危険なやつと一緒にいたくはない。言われたようにすぐにでも警察に通報してやりたいが、今、警察に通報すれば、俺も捕まるかもしれない。ここにきてそんなことはできない。

時計を確認する。十一時半。残りは三〇分。三〇分経ったら、警察に連絡すればいいんだ。たった三〇分の辛抱だ。


「……わかった。雨が止んだら、すぐに出て行ってくれよ」


俺は視線を外し、二本目のタバコに火をつけた。

島田の話を聞いてから、時間の流れがひどく遅くなった気がする。五分間の間に、俺は十数回も時計を確認していた。

島田はというと、何をするでもなく黒い窓の外を見ていた。この手の人間は何をするかわからない。さっき殺さないとは言ったが、急に心変わりすることだってある。最後まで気は抜けない。


「ずいぶん時計を気にしているみたいですね」


島田の声に、俺の体が異常に反応する。俺は島田に返事を返さずに、ただ時が過ぎるのだけを待っていた。


「タバコ、一本くれませんか?」


俺はポケットからケースを取り出す。中に入っていた最後の一本とライターを机の上に投げた。


「どうも」


そう言って島田がタバコを吸い始める。紫煙を二、三回吐き出すと、俺のほうに視線を投げた。


「そんなに時間を気にするなら、僕の話、聞いてくださいよ」


「人殺し意外にまだ何かあるのか?」


「ちょっとした昔話ですよ。時間をつぶすにはちょうどいいと思いますよ」


俺の返答も聞かず、島田はしゃべり始めた。


「僕のこと、狂ってると思ってるでしょ?」


「少しな……」


「まあそうでしょうね。それが正しい反応だと思います」


島田の吐いた紫煙が天井をはう。


「僕もね、最初は普通の人間でしたよ。ただ、僕の生活が狂いだしたのは、親が事故で亡くなってからですね。そこからが不幸の始まりでした」


俺は視線を空中にさまよわせながら、島田の話に耳を傾けていた。


「親戚の家に預けられたんですけど、その親戚がひどいやつでね。毎日嫌がらせを受けました。体罰はもちろん、食事をぬかれたり、暗い部屋に閉じ込められたり。真冬に裸で外に何時間も出されたこともあったなぁ」


だからどうだって言うんだ。くそっ! 同情してほしいんだったいくらでもしてやる。だからとっとと出て行ってくれ!


「高校には行かせてもらいましたけどね、そこでも僕はいじめの対象ですよ。家も学校も、僕の居場所はどこにもなかった。自殺だって何度も考えました。でも、根からの小心者でね。手首に小さな傷しか残せなかった。卒業しても、もちろん大学になんか行かせてもらえずに、そのまま近くの小さな会社に就職。そこでもまた上司から馬鹿にされる……もう嫌になっちゃって。そこで気づいたんです。自分が死ねないなら、相手を殺せばいい。それなら自分も傷つかない、ってね」


まるで見当違いな考えだ。たぶんこんなやつが、変な宗教を開いて大量殺人を行うのだろう。


「あなたもそう思いませんか?」


俺は首を横に振った。

俺も人を一人殺したが、なんとも後味の悪いものだった。十五年も逃げ続けてこんなことを言うのもおかしいかもしれないが。


「そうですか……」


島田は残念そうに呟いた。それからタバコの火を灰皿で消した。


「両親はまだ生きてますか?」


「実家で二人とも元気にやってる」


「ご両親のお仕事は?」


「自動車工場の下請けで社長をやってる。小さい会社だけどな」


「そうですか……。最近、実家に帰ったことは?」


「ない」


「両親は大切にしたほうがいいですよ。僕も親が生きてれば、こんなことはしなかったかもしれませんから」


親とは事件以来会っていない。人殺しの俺が、どのツラをさげて両親に会いに行けばいいのか。一生懸命俺を育ててくれた両親に、俺は親不孝なことしかできないでいた。

この時効が過ぎたら、久しぶりに実家に帰ろう。そして、親の仕事を継ごう。今度こそ親孝行をして、一生をかけて働くんだ。

気がつくと、時計はあと五分で十二時になろうとしていた。だが俺は気を抜かない。失敗するやつは、最後の最後で足元をすくわれる、それを俺は痛いほどよく知っているから。周囲に気を配りながら、心の中でカウントダウンを開始する。


――あと、四分

湯水のようにカネを使い、豪遊していたころの俺の姿が浮かんでくる。


――あと、三分

カネがなくなり、友人にも見放されたころの俺の姿が浮かんでくる。


――あと、二分

初めて人を殺してしまったときの俺の姿が浮かんでくる。


――あと、一分

十五年にもわたった逃亡生活が、走馬灯のように頭を駆け巡る。そして――。

五、四、三、二 、一――〇……。

勝った。俺はとうとう逃げ切ったのだ。俺の罪は、ついに清算されたのだ。

飛び跳ねて喜びたい感情を抑え、島田を見る。相変わらず無表情で、窓の外ばかり見ていた。


――さて、最後はお前だ――


俺は気づかれないように、そっと携帯電話を手に取る。


「ちょっとトイレに行ってくる」


携帯電話をポケットに隠し、俺は立ち上がった。


「こんな事件があったの、知ってます?」


島田が口を開く。俺の足はなぜか止まっていた。


「十五年前、早朝のある家に泥棒が入った。泥棒は現金五万円が入った財布を盗むと、たまたまその場に居合わせた、家の主婦を首を絞めて殺し、当時五歳の男の子にも怪我を負わせた。手がかりが少なく、犯人もいっこうに目星がつけられないまま、さっき時効を迎えた、っていう事件」


俺の背中に冷たいものが走る。いやな汗が額から流れ出る。

そのとき、つけっぱなしだったテレビの画面に、ついさっき聞いた音とともに《ニュース速報》のテロップが映し出された。


『○○県××町の山中で女性の頭部が埋められていた事件で、さきほど犯人と名乗る男が自供。容疑を全面的に認めているもよう』


犯人が自供? そんなはずはない。犯人は島田だろう。だったら俺の目の前にいるこの男はいったい何者なんだ。


「お前、いったい……」


島田はニュース速報のテロップをあごで示しながら答える。


「この事件は、俺がつい数時間前にたまたま発見してね。それであんたに一芝居うつために利用させてもらったよ」


島田の声色ががらりと変わる。


「なんのために。そんなこと」


「あんたに自首するチャンスを与えるためさ」


「お前がなんで、そのことを知ってる」


「なぜって、そんなの決まってるだろ。十五年前あんたが盗みに入った家は、俺の家だったんだよ」


そこで気がついた。こいつは、あのときの子供だったのか。もっと早く気づくべきだった。


「五歳のころの記憶を頼りに、あんたを探し出した。長かったな、ここまでくるのは」


「今までの話も全部うそだったのか」


「うそじゃない。人殺し以外は全部ほんとの話さ。俺があんたのせいでどれだけ辛いめにあってきたことか。だから許せなかった。このまま警察に突き出しても、せいぜい懲役が十数年。なら、俺の手で直接罰を与えてやろうと思ったんだ」


島田はゆっくりと立ち上がり、俺に一歩ずつ近づいてくる。逃げようとするのだが、足が思ったように動かない。そうしている間にも、島田と俺との距離は見る見るうちに縮まっていく。


「だけど俺だって鬼じゃない。あんたに良心が残っていたなら、それに賭けてみようと思った。でも、結果はこのザマ。正直、がっかりだったよ」


もう目と鼻の先に島田が立っている。島田の右手が、銀色に鈍く光っているのが見えた。

そうだ、きっとこれは悪い夢だ。目を開けたら、きっとまたいつものような朝が待っている。十五年も耐えてきた俺が、細心の注意を払いながら生きてきた俺が、まさかこんなところでつまづくはずがない。

遠くで雨音が聞こえる。いや、人の声か。何かを呟いているがよく聞き取れない。耳に全神経を集中させる。


「さようなら」


そう聞こえた。

暗がりの中、さっきまで響いていた音は、もうすっかり聞こえない。


――雨が、止んだ――


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