ただ家に帰るだけが、
社畜の夜というのは過酷だ。実際に体験すると、学生時代に思いつく限り苛め抜いた自分が10人居ても払いきれない疲労感だ。
私は22歳で地元の女子大を卒業し、上京して社会人になった。輝かしい会社見学は就職初日から姿を消し、少しずつ地獄の毒が肉体と精神を食らい尽くしていったのだ。初めて就職した仕事を辞めることもできないと食い縋って早3年目。今や逃げる余力さえ奪われた私は、今日も日付が変わった頃に電車で最寄り駅のアナウンスを聞いた。
充電の余るスマホを起動させ、メッセージアプリの一番上にあるトーク画面を開いた。朝に私が送った『帰ったら炊飯器のスイッチ押して』という言葉を最後に、約15時間の空白が見える。
『あと3分で最寄り』
送ったメッセージが読まれたサインが灯り、それを確認し終えた直後に返信が来る。
『今着いた』
『あざす』
最低限の言葉だけで交わされた会話。その相手は、一言では表しにくい関係性の相手だ。
相手の名前は、蔵多誠也。私より25歳の男性。昔、コンビニ前でのとある出会いから意気投合し、アパートの一室で同居している友人。決して恋人関係ではなかった。互いに恋愛感情などない。ただ互いに都合がいいから一緒に住んで、一緒にご飯を食べ、一緒に眠る相手。
最寄り駅に着いた電車。降りて改札まで行くと、パーカー姿でスマホをいじる彼の姿があった。
「お迎え感謝です」
声をかけると、彼は顔を上げてこちらに向けて軽く片手を挙げる。
「おつ」
「はい、おつ」
どちらからともなく歩き出す。これから家に帰るのだ。
道中でいつものコンビニへ立ち寄り、タバコを買って灰皿の前でそれを吸う。先ほどコンビニ前で出会ったと言ったが、その夜もここでこうしてタバコを吸ったのが出会いだった。
タバコを咥えると、彼がライターをこちらに向けて差し出した。髪をかき上げタバコの先端を近づけると、シュッという音と共に火が灯り、タバコに火が点いた。
「ねえ。私ら、昔ここで出会ったんだよね」
隣でタバコを咥える彼にそう問いかける。
「藪から棒に」
「いいじゃん。思い出話」
「感傷ならセルフサービスでやれ」
「違うって。ただの追憶」
初めてタバコを吸おうと、どもりながらタバコを買ってここに来た。就職してすぐの、初夏の夜だった。先にここに居座りタバコを吸っていた彼が、初心者の私にニヒルな笑みを浮かべながら吸い方を教えてくれたのだ。
タバコを吸いながら、互いのことを話した。私は社畜として飼われ、帰宅さえままならない日常にうんざりしていた。家賃を払うのも無駄に思え、更にまともな食事もしていない。彼は当時社員寮で生活をしていたが、社員との交流に嫌気が差し一人暮らし先を探していたのだ。互いに利害の一致から意気投合して、半ば勢いだけで同居を始めた私たちは、先々の不安がありながらも、そこそこの距離感を保って共に生活を営んでいた。
今や彼は、私に構うメリットなどなくともこうして迎えに来てくれるようになった。帰り道にタバコを吸って、家に帰ってもタバコを吸って、そうして食事と風呂が終わったら同じ布団で眠る。安い毛布2枚よりもいいと買った1枚の高い毛布を被り、互いの体温を布団越しに抱いて眠る。朝に起き合い、朝食を食べて互いの会社へ行き、また夜になる。
客観的に見れば、恋愛に発展していないことも、付き合っていない異性同士の生活も、不思議に思えるのかもしれない。自分でも半端な関係性に、時折「なんなのだ」と言ってみたくなる。しかし、少なくともこの生活は、私の人間らしい時間を大いに守ってくれた。私は遅いながらも自宅に帰るようになったし、食事を摂って、眠り、杜撰な管理もやめられた。それだけで私の臨む利害関係は成立しているのだ。
彼はどうなのだろう。ふと思い、彼に尋ねる。
「ねえ。私がいる生活って、どう?」
先ほどの会話からでは脈絡もない話題だったが、彼は変に聞き返すこともなく考え、数秒の空白の後口を開いた。
「前と違って気軽に喋れる。タバコも吸い放題。休日には飯作ってもらって、家計も半分で済む。一人じゃ怠い生活が、負担半分ってとこだな」
「満足してるってこと?」
「まぁな」
ニヒルな笑みを浮かべて私を見据える。少し長い前髪の奥から見える目は、柔い愉悦を語っていた。
「ならいい」
タバコを灰皿に放り込み、また歩き出す。家への道は遠いが、2人で歩くと大分楽だ。
「帰るか」
「おう」
「今日のご飯何?」
「肉野菜炒め」
「肉じゃががよかった」
「文句言うな」
「へい」
実に下らない会話。どこにでもありそうでなさそうで、どうだっていい生活。
私は、この日々が気に入っている。
明日も帰る、理由がある。
「家まで競争する?」
「バカだろ、お前」