8 孤児院の子どもたち
彼のあたたかさを感じた直後、
「あーっ!!! 見ーちゃった、見ーちゃった!」
子どもの声が高らかに響いた。
食べ終わったのだろう、孤児院に残っている中では真ん中くらいの歳の男の子だ。
ビクッとして、自分もオスカーも同時に一歩下がって距離をとる。
(待って待って待って。私今何をしていたの??!)
恥ずかしすぎて顔が熱い。つい両手をほほに当てる。
「いーちゃいちゃ! いーちゃいちゃ! いーけないんだっ」
「あーっ!!!」
もう少し小さい男の子もやってきて、声が続いた。
「泣ーかせた、泣ーかせた! いーけないんだっ」
「いーけないんだ、いけないんだっ」
「これはっ、ちがっ……」
涙をぬぐって子どもたちを止めようとすると、オスカーから軽く腕で制される。
「ああ、そうだ。自分がいけない」
そんなことはないと言う前に彼が続ける。
「悪い魔法使いは、大人をはやし立てるような悪い子どもをお菓子に変えるような悪いこともするんだが、試してみるか?」
「そ、そんなのハッタリだ!」
「ハッタリだ!」
「いいだろう」
オスカーが両手に何も持っていないことを子どもたちに見せてから、屈んで子どもたちと視線の高さを合わせる。
「レーナニシカオ」
(……そんな呪文あったかしら)
聞いたことのない呪文に驚いて、必死に記憶の箱を開けていく。
独りで長く生きる間に奇跡を探して多くの魔法を目にしたはずなのに、やはりその呪文は見当たらない。言語体系からして魔法言語になかったと思う。
オスカーが何も持っていなかったはずの手の中から布で包まれたクラッカーを出した。
子どもたちに衝撃が走る。
「誰?!」
「誰がお菓子にされたんだ?!」
「向こうに残ってる誰かってこと?」
「さて、おいしく食べるとしよう」
「ダメだ!」
「ダメ!」
「誰かわからないけど、返せ!」
「元に戻せ!」
二人でオスカーに手を振りあげ、手の中のクラッカーを取ろうとしたり叩こうとしたりするものの、彼は軽くよけてさばいていく。
「いいか? よく覚えておくんだ」
オスカーが演技がかった厳かな声で言った。
その次の瞬間、フッと表情をゆるめる。
「悪い魔法使いはウソをつく。
これは元々持っていた自分のおやつだが、君たちにあげよう。おやつのことと、今見たことはみんなには内緒だ。いいな?」
「なんだー、やっぱりウソかー」
「クラッカーくれるの? やったー!」
子どもたちが笑顔になる。
ハラハラして見守っていたが、ホッと息をついた。
いつしか涙は乾いている。
彼がウソをつくというのは、ウソだ。理由のないウソをつく人ではないことを知っている。今のはきっと、ひとつの演技だ。泣いていた自分から意識をそらせるための優しいウソ。
同じ人にもう一度、恋をし直してしまいそうだ。
そんなことをさらっとやれる印象はなかったから、知らなかった一面への驚きもあった。
子どもたちが食べ終えて行ってから、オスカーがこちらを向いて小さく笑う。
「タネあかしをすると、この前、子どもを相手に大失敗をしたから……。子どもの相手をする話を受けた後、何かの時のためにと手品をしこんでおいた」
上着のポケットを指先で軽く叩いて示される。
(誰も気づかなかったけど、手に取るタイミングがあったとしたら目線を合わせるために屈んだ時かしら)
先を考えて準備をするのは自分がよく知るオスカーだ。
娘が小さかった頃を思いだす。ぐずって泣かれてどうしようもなかった経験の後、彼はやはりポケットにお菓子を入れるようになったのだった。
それを出し忘れて、粉々になっているのを発見して怒ったことも懐かしい。
遠い記憶の彼から、今の彼へと意識を戻す。
(この人には幸せに生きてほしい)
さっきのことは気の迷いだ。子どもに見つかって止めてもらえて、本当によかった。
「助かりました。ありがとうございました」
他人行儀に聞こえるように意識して伝えて、午後の授業の準備を理由にその場を後にした。
孤児院の庭の土に木の棒を使って文字を書いて教えると、子どもたちは思っていた以上に食いついてくれた。
この国では自分の名前を書けて数字が読めれば多くの仕事が選べるようになる。それ以上の文字の読み書きや算数ができれば、少しいい仕事につける。孤児院の子たちが独り立ちするのに役立つスキルだ。
中流家庭以上なら木枠に蝋を流した蝋板で練習することが多い。けれど、孤児院で一人に一つ用意するのは難しい。そのため、時々老夫婦が教える時も、庭で木の棒を使っていると聞いている。
子どもを育てた経験から、いきなり暗記を求めない方がいいのは知っている。子どもは楽しくないことはしたくない生き物だ。
まずは自分の名前を書ける子がいるかを聞いて、みんなの前で書いてもらって褒めることから始めた。
「自分の名前をキレイに書けるとカッコいいですよね。書いてみたい人はいますか?」
円形になってのぞいている子どもたちの手が、元気な声と共に次々に上がる。
教える内容に集中して、なるべく女の子の顔を見ないようにすれば、残り半日くらいはやり過ごせそうな気がしてきた。
「じゃあ、一人ずつ。もう書ける人は、他の子の名前も書けるようにしていきましょうね」
順番にお手本を書いて、それから手を取って感覚を教えていく。
まだ字の練習が難しい年代の子たちとは、線や丸やジグザグ、ぐるぐるなどを遊びながら書いていく。
(うん、順調ね)
笑顔の子もいるし、真剣に練習をくり返している子もいる。
このまま穏やかに自分が教える時間が終わると思っていた。
年齢が上の方の大人しそうな男の子が、手にした太めの木の棒で、書いた名前をぐちゃぐちゃに消してしまった。気に入らなかったのかと思って声をかける。
「大丈夫ですか? 一緒に書いてみましょうか」
手を取って書き方を教えようとするとその子はビクッとして、木の棒でこちらの手をはたき落とした。
「っ……!」
「クルス嬢!」
何が起きたかを認識するより早く、見守っていたオスカーが驚いた声を上げた。
直後、子どもに向かって声が飛ぶ。
「なんてことをするんだ!」
それは怒声と呼ぶには控えめなものだったが、子どもは顔をこわばらせてから、
「わーっ! うわーっ!!」
叫びながらやたらめったらと棒を振りまわす。まるで窮鼠が猫を噛もうとしているかのように見えた。
他の子たちが蜘蛛の子を散らすように距離をとる。
「危ないっ!」
反射的に、逃げ遅れそうになった子を庇って間に入った。背を叩かれる覚悟を決めて目をつむる。
ガッ……。
さっきより大きな音がしたのにどこも痛くない。
おそるおそる振り返ってみると、自分の前に大きな壁があった。オスカーの背だ。
血の気が引く。
「オスカー!」
「問題ない」
短い声が返る。
よく見ると彼の大きな手がしっかりと木の棒を握りしめている。左腕で受けて右手でつかんだようだった。
彼が木の棒を取りあげる。子どもは意外にもすんなりとそれを手放した。そのまま固まって、放心したような顔をしている。
再びその子に向けられた彼の声は、凪いだ海のように静かになっている。
「怒鳴ったのは悪かった。自分も驚いたんだ。なぜ、こんなことをした?」
返事はない。ただふるふると首が横に振られただけだ。
騒ぎを聞きつけた老夫婦が駆けつけてきた。状況を説明すると、グランパが、
「それは驚かせてすみませんでした。事前に話しておくべきでした。後で事情をお話しします」
と柔らかく言った。
直後、加害者の子どもが叫ぶ。
「お、俺は悪くないっ!」
「そうか。驚いたのと怖かったのとで、久しぶりにパニックになったみたいだね」
「そうだ! あの二人が悪いんだ!」
「悪いと言うなら、事前に君のイヤがることを話していなかった私たちにも非があるね。そして、君は君で、二人にケガをさせている。それについてはどうだい?」
「……ごめんなさい」
「よくできました。相手にケガをさせると、相手も痛いし、君の心も痛いだろう。また一緒に練習していこう」
子どもがうなだれるようにして頭を下げる。
一息つけたところでグランマが声をかけてくる。
「あちらで手当てをしましょう」
「あ。いえ。このくらいなら魔法で簡単に治せるので大丈夫です。ここで治して見せた方があの子も安心しますよね?」
軽いすり傷と打ち身だ。ケガをした自分の手にもう一方の手をかざす。
「ヒール」
ほんのりと柔らかな光が傷を包み、すぐに跡形もなく消えた。
「オスカー……、ウォードさんも、よければ」
「あ、ああ……」
服をめくると、彼の方が傷が大きい。力いっぱい振り下ろされた棒の跡がくっきりと残っている。
「フェアリー・ケア」
そこまでの必要はないと思いつつ、念のために中級の回復魔法を唱えて彼の傷を癒した。
前の時も何度もそんなことをしたなと思って懐かしさを感じたけれど、今は過去にひたっている場合ではないと打ち消す。
「これでもう大丈夫です」
意識して仕事仲間程度の笑みを向ける。
が、彼は不思議そうな表情をしている。何かに驚いているような、理解できないような、思案するような感じだ。
それを不思議に思ったけれど、
「すっ、すっごーいっ!」
「すげー!!」
「魔法ってなんでもできるの?!」
「カッコイイ!!!」
感嘆の声と共に子どもたちが再び集まってきて、何も聞けなかった。
グランマが場をまとめるように子どもたちに言う。
「魔法は凄いわね。字のお勉強はまた今度にして、この後はお兄さんから魔法のお話を聞きましょう」
歓声が上がった。
座る場所を指示されると、子どもたちは今日一番の聞きわけの良さで地面に座っていった。