7 好きになるしかない
オスカーがくれた小箱を捨てるに捨てられなくて、開けるに開けられなくて、数日が過ぎた。
優雅な装飾が彫られた小さな木箱だ。
この中身を知っている。ずっと昔の記憶の中、時間としては十六歳の今くらいの時期、街で流行りだした飴玉の箱だ。
木の樹液を煮詰めて作られるシロップは褐色で、それまでに売られていた飴玉はみんな光沢がある深い茶色だった。
異国から持ちこまれた植物を精製した甘味料は雪のように白く、溶かすと透明になるらしい。それによって作られた飴には自由に他の食べ物の色を入れられるらしく、ガラス玉のような美しい飴玉が売りだされた。
結構な高級品で、数粒の小箱でも中々自分用にとは思えない値段だったはずだ。
飴玉は栄養補助食品という位置づけだ。ちゃんと食事を取れていない可能性を考えて買ってきてくれたのだろう。
(前の時もそうだったわ……)
食べ物がのどを通らなかった時に、これだけでもと用意してくれた。褐色の安い方でいいと言っても、そのくらいの甲斐性はあると笑っていた。
(大事にしてくれた、大事な人……)
時を遡っても彼は彼で、何も変わらない。それは当たり前なはずなのに、あまりに思考が同じでイヤになる。そんなの、好きになる以外にないではないか。
昔の好きに今の好きが重なって、何倍も何倍も好きだと思う。
昔の喪失に今の喪失が重なって、何倍も何倍も、苦しい。
(……苦しいけど。きっとこれが正しいはず)
自分が苦しければ、幸せにならなければ、彼の幸せが突然途切れることはないのだから。
手の中の小箱を見つめる。
「高温にしなければ日持ちしたはず、よね」
箱は答えない。
いつか全ての痛みを飲みこめた時に開けよう。
そう決めて、宝飾品と同じ宝箱にそっと入れた。
生活は日常に戻っていて、教師になるための勉強も始めている。一人になると思いだして苦しくなるけれど、表向きに取りつくろえるくらいにはなってきた。
(これからはもう平穏な日が続くはず……)
そう思っていたが、一週間と持たなかった。
父から孤児院でのボランティアを打診されて、教職の学びになりそうだと思って二つ返事で受けたのが間違いだった。
なんの偶然なのか、あるいは父が母から何かを聞いてそうしたのかはわからないけれど、魔法協会からのボランティアでオスカーが来ていた。
やると言ったことを放棄するわけにはいかない。暴れる心臓に堪えながら、何事もないかのように笑顔を作ろうとする。
オスカーは一瞬困ったように眉を下げたが、すぐに柔らかい笑みを浮かべた。どことなくはにかんだようにも見えてかわいい。大好きに飲まれないようにすぐに視線を外す。
(できるだけ彼に意識を向けないようにすれば、一日くらいなんとかなるかしら……?)
なんとかならなくても、なんとかするしかない。
「ようこそいらしてくれました」
「今日はよろしくお願いします」
施設を運営する老夫婦に歓迎されて子どもたちの所に向かう。
建物は古く、修繕できたらいいと思う場所がところどころ目に入る。
(お金の問題、なのかしら?)
自分が魔法で直すのは簡単だ。しかし、それを仕事にしている人もいる。魔法使いもそれ以外も。自分たちで直すとしても材料を買う必要がある。それらの社会経済を無視するわけにはいかない。
(そもそも、今の私は魔法が使えないことになっているもの。どっちにしろ見なかったことにするしかないわよね)
掃除は行き届いていて、できる範囲でがんばっている印象は受ける。
「いつもは慣れたボランティアが常に一人か二人は来られるようにローテーションしているのですがね」
「たまたま今日はみんな都合がつかなくてね。引き受けてもらえて助かりました」
「グランパ!」
「グランマ! その人たちはだれ?」
顔が見えたとたんに元気な声がした。
老夫婦のうち男性がグランパ、女性がグランマだ。家族を意識して、祖父母という呼ばせ方をしているのだろう。
子どもたちは全部で十数人いる。年齢はまちまちだ。やっと歩き始めたくらいから、大人に近い身長の年代まで幅広い。体格もまちまちで、みんなが痩せているということはない。血色がいいから、食事は十分にとれていそうだ。
着ている服は建物と同じだ。おさがりも使っているのだろう。古く見えるものも多いけれど、丁寧につぎがあてられていて、清潔さも保たれている。
老夫婦から簡単に紹介されて、午前中は一緒に遊んでもらえることと、午後は字や魔法を教えてもらえることが伝えられた。
半分くらいの子が、人に飢えていたかのように取り囲んでくる。
微笑ましく思って遊ぼうとしたが、すぐに自分が教師になる上での大きな欠陥に気づいた。
(……うそ。こんなことって……)
女の子と関わろうとすると、娘が重なってフラッシュバックを起こす。その子が小さくても大きくても。
叫びだしそうだ。
泣きだしそうだ。
今にも吐きそうなくらい、気持ち悪い。
けれどどれも誰にも悟られてはいけない。笑顔を崩してはならない。やると言ったからには、せめて今日はやり遂げないといけない。
(耐えて。耐えて。耐えて……。長く生きたんだからそれくらいできるはず。できなくてもやらないと)
指先が震える。
大丈夫、その程度はきっと気づかれないと自分に言い聞かせる。
なんとか午前が終わって、子どもたちの食事中にひと気のないところで一息ついた。
午後は講義の予定だから、なるべく子どもたちを、女の子を見なければやり過ごせるだろうか。
「クルス嬢」
背後から優しく愛しい声がして、息を呑んだ。
「すまない。自分が声をかけていいものかわからなかったのだが。顔色がすぐれないようで心配に……。
もしムリをしているなら後は自分が引き受けるから……」
慎重に言葉を選ぶようにしてゆっくりと話すオスカーが大好きだ。気づかれないようにしていたつもりなのに気づかれていたのは恥ずかしいけれど、それよりもずっと、気づいてくれたのが嬉しい。愛しさが暴走しそうになるのを、彼に背を向けたままぐっと堪える。
「どうして……」
思うだけのつもりが、口から音がもれでていた。
「どうして、優しくするんですか……? 今の私はきっと、あなたから見て、気が触れた変な女なのに……」
自分が変なのは自分でもわかっている。
変でなければなんだというのだ。まだこの世界では起きてもいないことに囚われて逃れられないなんて。
時を戻す前、既に事が起きた後ですら狂人扱いされていたのだ。近しい味方は死に絶えて、ジュリアという人間の思いや人となりを知っている人も、知ろうとしてくれる人もいなくなっていた。
周りにあったのは犯人としての疑いや、奇異の目や、よくて他人事としての同情。
真の孤独は物理的に一人でいることではなくて、心を重ねられる人がいないことを言うのだろう。
長い孤独のトンネルを歩き続けて、昔よりもずっと弱くなった気がする。
沈黙があった。
(今度こそ呆れられたかしら……)
そうあってほしいし、そうあってほしくない。
「……自分には、あなたの気が触れているようには見えない」
驚いてオスカーを振り返る。
「本当の狂人を知っているわけではないが、あなたの瞳はそれとは違うと思う。
あなたが自分に向けるそれは……、どことなく懐かしいような、熱をともなったような、それでいて苦しく揺れているような……。
自分には理由の想像がつかないが、そんな印象を受けている」
ひとつひとつが丁寧な音で紡がれていく。
ひとつひとつが心に沁みこむ。
はたはたとあふれ落ちていく涙は、これまでになく暖かい。
なんでこの人はこんなにもわかってくれるのだろう。
どうあっても好きになるしかない。
オスカーの声が続く。
「あなたが自分に何かを返してくれる必要はなくて……、あなたが望むなら距離もとろうと思う。……が、何か少しでも、あなたの力になれると嬉しい」
そうしていいのか迷うようにしながら、彼の指先がそっと涙をぬぐってくれた。
トクンと心臓が跳ねる。
かすかに触れただけで自分の全てが彼に染まったのを感じる。
(ダメ。……ダメダメダメダメ)
理性が大音量で警鐘を鳴らしている。それを無視すれば世界が終わりそうだ。
実際に、終わるルートに片足を突っこむことになるのはわかっている。わかっているのに、心と体が自分の思い通りにならない。
トン、と軽く、オスカーの胸にひたいをつけていた。
懐かしい匂いがする。
(大好きな、大好きな大好きな大好きな、愛おしい……、安心する匂い……。オスカーの匂い……)
そっと包むように彼の腕が添えられた。
嗚咽がもれる。
これまでは声を出さないで泣けていたのに、もう止められない。
(オスカー……、大好き……)
まるで初めて恋をしたかのように胸が騒がしい。