4 好きとごめんなさい
翌日は起きた。起きることにした。
頭はガンガンとうるさいし、体はだるくて動きたくない。気持ちもずっとぐるぐるしている。けれど、起きることにした。
元気なふりをして、何でもないような顔をして日常を過ごせるようになれば、オスカーがお見舞いにくる理由はなくなるはずだ。
自分の中の期待と矛盾も、それで解決するのではないかと思った。
最初は無理をして家庭教師の授業を受け始めたけれど、自分の問題とはまるで関係のない話を耳に入れ続けていると、少し頭を占める割合が減った気がする。
一人でベッドに入っているよりはいくらか調子が戻りそうだ。
気分転換にと、夕方早めに帰ってきた母からお茶に誘われた。
せっかく過去に戻ったのだから、前はあまりできなかった親孝行をしたいと思う。
長年実家に勤めている使用人が入れてくれたお茶は、不思議とほっとする味だった。
「で、ジュリアの失恋のお相手は誰かしら?」
母の言葉でお茶を吹いた。
気管にも入ったのか、ごほっ、ごほっとむせる。
「お、お母様、何を言って……」
「あら? ここ数日出てこられなかったのは失恋ではないの?
それまで誰かに焦がれていたようには見えなかったけれど、ひと目で恋をすることもあるものね。少し前から、ジュリアがとても大人びて見えて驚いているわ」
とかく母親というものは恐ろしい。
未来の記憶を持ったまま十六歳当時と変わらないように見せてきたつもりだったけれど、どことなく感づかれている気がする。
思えば自分も、なぜか娘の恋愛関係にはカンが働いて、気づかないふりをするのが大変だった。
答えられないでいると、母がたたみかけてくる。
「昨日の夕方に訪ねてきてくれた、オスカー・ウォードくんかしら?」
心臓が破裂したかと思った。
ぐっと歯を噛みしめて、かすかに首を横に振る。
「あらあら。そうなのね」
違う。
否定したいのに声が出ない。
「でも、そうだとすると、変ね? 彼の方には脈があるように思えるのだけど?」
「そんなことはありません!」
やっと出た声は思いのほか強くて、自分でも驚いた。
その一言で、思い人が彼だと確信を持たれるのには十分だと、言ってしまってからハッとした。
「興味がない女性に花を持ってくる殿方がいると思って?」
「正義感とか申し訳なさとか、そういうのだと思います。その、この前、彼のことに首を突っこんでから、私が調子を崩したので。
魔法協会の方ですから、お父様からそんなようなことを聞いたのではないでしょうか」
「そうだとしても、嫌っている人のお見舞いには来ないでしょう? ジュリアが失恋したと感じているのはなんでかしら。彼は既婚者だったとか?」
「違います! そもそも失恋したわけではありません。決めつけないでください」
「あらあら。一度会っただけにしては、彼のことに詳しいのね」
そう言ってから、母がゆっくりとお茶を含んで息をつく。同じようにして飲み直す。
「気を悪くしないでね。ジュリアが何に傷ついているのかを知りたいだけなのよ」
困ったように言われてハッとした。
(……そっか)
母親というのはそういうものだった。
自分が娘に願っていたのも、ただひとつ。
幸せでいてくれること。
その笑顔も失って、全てを失って、時を遡ると決めた時、もう一度あの子に会うことはないと、二度と犠牲にしないために再会をあきらめたけれど。
自分が泣きあかしていたら母は気になって当然だ。
「心配をかけてごめんなさい。でも、理由は話せません。お母様にも、お父様にも、誰にも」
「……そう」
落胆したような表情に罪悪感を覚える。
「ごめんなさい。信用していないわけでも、信頼していないわけでも、頼りにしていないわけでもなくて。でも、話してもどうにもならないことなので」
「話すだけで気持ちが軽くなることもあるわ。たとえ解決できなくても」
「いいえ。こればかりは……、きっと、話したら後悔すると思います」
「……そう」
「奥様、お嬢様。お客様でございます」
使用人が伝えにくる。
その名を聞いて、止めるより早く母が言いきった。
「こちらにお通ししてちょうだい」
「お母様!」
「あなたが何を抱えているのかはわからないけれど。もう一度お話をしてみたらどうかしら?」
「いいえ。いいえ、お母様。私は彼とは……」
言葉が途切れて続かない。
(彼とは? 接点を持ちたくない?)
そんなことはない。
芽吹いた若葉が日の光を求めるかのように、求めてやまないのが本心だ。
(会いたい……)
それを偽った言葉を形にするのが難しい。
接点を持ってはいけない? そう言ったならきっと、なぜと問われるだろう。
それに対する答えは伝えられない。
八方ふさがりだ。
「私は退席するわね」
自分が言うより先に母に言われ、退路を断たれた気がした。
ドクン、ドクン、ドクン……。
心音がうるさい。
一人で待つわずかな間がとても長く感じる。
彼に会いたい。
会ってはいけない。
逃げだしたい。
顔を見たい。
会いたい。会いたい。会いたい。
でもそれ以上に、彼を守りたい。
そのための最善は、接点を持たないこと。あるいは、嫌われること。
(しっかりしなさい、ジュリア)
自分に言い聞かせる。なんのためにあれほどの苦労をして時を巻き戻したのか。
全ては彼に幸せに生きてもらうためではないか。
大きく息を吸って、吐きだす。
心は決まった。
扉が開けられ、彼の姿が目に入る。
「失礼する、クルス嬢。約束もなく、また訪ねてすまない」
「……いえ」
声がかすれる。
好きという気持ちがポンと大きくなって、理性がどこか遠くに吹き飛ばされた気がした。頭が真っ白を通りこしてお花畑になりそうなところで、飛び散った理性を必死にかき集める。
使用人が彼を母が座っていた席に案内して、お茶を入れ直した。母から言い含められたのだろう。距離が近くなって、鼓動がさらに速くなる。
「調子を崩していると耳にしたのだが。もういいのだろうか」
「はい。ご心配をおかけしてすみませんでした」
「いや……。……自分のせい、だろうか」
「いいえ」
キッパリと言いきると、彼が驚いて目をまたたく。
「……そうか。すまない、自分があなたに影響を与えたなどと、うぬぼれていたようだ」
「うぬぼれ?」
「その……、口にするのは恥ずかしいのだが。
自分があなたに惹かれたように、あなたも自分に何かを感じてくれたのではないか、と。何か事情があって、あのようなことを言われた……と思いこみたかったというか」
何重もの衝撃と、耳まで真っ赤にして口元を隠す彼の破壊力で、考えがまとまらない。
(好き。かわいい。好き。尊い。好き。大好き……じゃなくて!
まさかあの短時間で、私がオスカーをめちゃくちゃ好きなことが伝わっていた……?)
がんばって隠したつもりだったのに、何がいけなかったのだろうか。
事実は、彼の洞察が全面的に正しい。
(すごい。さすが。好き。
いやいやいや感心している場合じゃないわ。早く笑い飛ばさなきゃ)
「本当に、どうしてそんなふうにうぬぼれられたのか、私にはわかりません」
そう言う決意をして、嫌われるつもりでバカにした笑いを浮かべようとして、ひとつ息を吸って、吐いた。
「好き」
(バカバカバカ! 私のバカ! なんで本心の方が出るの?! バカ!!)
混乱に拍車がかかる。なんとか誤魔化そうと言い重ねる。
「……な、食べ物は?」
「あ、ああ……。そうだな……」
明らかに不自然な流れだったはずなのに、真剣に考えてくれる彼が好きだ。
その顔を見ているだけで嬉しくて幸せで、悲しくて苦しくて泣きたくなる。
「魔法協会の近くにチキンフライがおいしい店があって。大衆食堂なのでクルス嬢が好むかはわからないが、よければ一度案内……? クルス嬢……?」
涙が流れ落ちていた。
彼を亡くした瞬間のフラッシュバックに、一緒に食べたチキンフライの味が重なる。
結婚して引っ越す前はよく二人で行った店だ。彼の好物を一緒に食べて笑いあった日々。二度と彼を巻きこまないと決めた以上、もう二度と戻れない時間。
「……さい。ごめん、なさ……。ごめんなさい。ごめんなさいごめんなさいごめんなさいっ」
あふれる言葉は、目の前にいる今の彼に対するものなのか、因果に巻きこんだあの時の彼に対するものなのか、自分にもわからない。
オスカーは何も言わない。
ただじっと、困りながらも真意を理解しようとするかのように、オーシャンブルーの瞳に真摯な色を浮かべている。
視線が絡まって愛しい色に囚われる。
(オスカーが好き……)
そばにいられるだけで幸せ。
だからこそ、決して近づいてはいけない。
「ごめんなさい」
もう一度紡いだその言葉には、拒絶の音を乗せた。
オスカーがひゅっと息を飲んだ。
「……押しかけて、すまなかった」
絞りだすように告げられ、彼が手にしたままだった小箱がテーブルに置かれた。
「不要なら捨ててくれていい」
ぶっきらぼうに言って、席を立って大股に去っていく。
これでよかったとホッとして、これで終わったのだと、その場に崩れて一人で泣いた。
オスカーからのプレゼントを握りしめて。