3 矛盾しかない
夕食を食べないで布団に入っていたら、心配した母が様子を見にきた。
誰とも何も話したくなくて寝たふりをする。
記憶の上ではもう母の何倍もの時間を生きたはずなのに、身体の年齢相応のダダのこね方をするとは思わなかった。
どうしても涙を止められないのだ。
泣いている理由は決して話せないから、顔を見せた方が余計な心配をかけてしまう。だから、しかたない。
そう自分に言い聞かせる。
(オスカー……。……オスカー……)
夕方に会った彼は、初めて会ったころの彼そのものだった。
一緒に歩いたぶんだけ自分も彼も歳をとって、最後の記憶では壮年だった。
彼に会ったことで、紐づいている痛みの記憶が、帰ってから何度もリピート再生されている。
最高に幸せだと感じた瞬間は、娘の結婚式の前にも何度かあった。彼と思いが重なった時、ともに歩み始めた時、子宝に恵まれた時、そして子どもが成長していく日々。どれもかけがえのない宝物だ。
数々の幸せな時間には何も起きなかった。ずっと幸せの上書きが続くものだと思っていた。
血の海。
そこに沈んでいる彼を抱き起こそうと触れた記憶もある。いくつもの切断面がズレて、原形を留めてはくれなかった。その体にはまだ温もりが残っていたのに。
こだまする悲鳴と、赤、赤、赤……。そして最後に触れたぬるっとした温もりが、今でも鮮明に残っている。
何度も何度も浮かびあがって叫びそうになって、何度も何度も誇張されて夢に見た。
「お前だ。お前が殺したんだ」
失った大切な人たちから、血にまみれた姿でそう責められる夢も珍しくなかった。
八十年近くの歳月を経てもこの記憶だけは薄れなかった。
今を生きている彼に会えたことは嬉しい。
同時に、決して近づいてはいけないことが悲しい。
記憶の中の喪失と今の彼のイメージが混ざりそうになるのが怖い。
それなのに、その胸に飛びこんですがりたくなってしまう自分の弱さが恨めしい。
彼に他の誰かと幸せになってほしいと願うのと同じくらい、そんな姿は見たくないと全身が訴える。
心臓がつかまれているような苦しさと、呼吸が浅くなっているのを感じる。
矛盾しかないことも、思考を止めて眠るのが最善だということも、頭ではわかっている。
わかっていても、できない。
勝手に再生され続ける壊れた投影の魔道具のようだ。
どれだけ長く生きても、どれだけ魔法を極めても、あふれでる涙を止める方法はわからない。
家庭教師の授業も休んで数日が経って、少しずつ気持ちを立て直せ始めたころ、使用人から来客が告げられた。
「どなたでしょう?」
「それが、初めて見る殿方で。オスカー・ウォード様と名乗られています」
鈍器で頭を殴られたような衝撃があった。
(オスカーがうちに? 何の用で?)
父は、彼の職場の支部長だ。緊急時のためにクルス邸の場所は知らされているから、魔法協会の人が訪ねてくること自体はおかしくない。
問題は、彼がわざわざ訪ねてきた理由だ。
「……その方は、私にご用事が?」
「はい。お嬢様にお詫びとお見舞いを申しあげたいとのことでございます」
(なんで……?)
疑問でしかない。
時を遡る前、彼が家に来たのは交際していくらか経ってから、父に挨拶をするタイミングだったはずだ。こんなに早く訪ねてくる理由がない。
ましてや、あんなふうに変な別れ方をした変な女だ。既に流れが変わっているのなら尚更、彼が自分に会いに来る理由はない。
(お詫びとお見舞い……)
その言葉を素直に受けとるなら、どこからか自分が伏せっていることを聞いたのだろうか。誠実な人だから、タイミング的に責任を感じてしまったのかもしれない。それならいくらか納得がいく。
ため息がこぼれる。
(好き。……やっぱり彼が好き)
どうしたって、好きで好きでしかたない。この思いからは逃げられる気がしない。
返事をできずにいると、使用人が気を回してくれる。
「お断りして、お帰りいただきますか?」
「……そうですね。そうしてもらえると助かります」
(会いたい……)
会いにいくと答えたい。
ひと目でもいいからまた顔を見たい。たとえ、その後でどんなに気持ちがぐちゃぐちゃになってしまうとしても。
そんな本心をぐっと抑えこむ。
使用人が部屋を離れてから、やっぱり会いたかったという気持ちがふくらむ。
少しでも接点を持ってはいけないとわかりつつも、遠くから姿を見るだけなら許されるだろうかと考えてしまう。
自分の部屋は二階にある。カーテンを開ければ、広い庭の先の鉄の門が少しなら見える位置だ。
(……多分、そろそろ)
その背を見るだけなら未来に影響することはないはず。きっとそうに違いない。
自分に都合のいい考えを信じることにして、カーテンをほんの少しだけ開いて、門の方を垣間見る。
遠くから小さく見える後ろ姿だけでも、それが彼だと確信を持てる。
大好きな背中だ。
どことなく元気がなさそうに見える。
無理もないだろう。親切心でお見舞いに来てくれたのを、むげにしたところなのだから。
追いかけて謝りたい。お礼を言いたい。全ての事情を話してしまいたい。
してはならないそれらの気持ちがふくらんでいく。
ふいに、彼が自分の方を振りかえった気がして、あわててカーテンを閉じて隠れた。
心臓がバックンバックンとうるさい。
冷静に考えれば、そんなはずはないのだ。自分の部屋の場所は知らないはずで、知っていたとしても、追い返された後に接点を持ちたいとは思わないだろう。
(……これで、本当に、彼とのつながりは切れたはず)
そう考えるとホッとするのと同時に、胸が苦しい。
再び部屋がノックされて、使用人がやってくる。
「これをお嬢様にと。いかがしますか?」
差しだされたのは、かわいいリボンがかけられた一本のピンクのチューリップだった。
息を呑んだ。
一本の花は恋の始まりを意味するという。
ピンクのチューリップの花言葉は『誠実な愛』。
前の時、最初のデートで彼がくれたのと同じ花だ。
(……きっと、花言葉なんて知らないわよね)
そう思わないと納得できない。今の自分が彼から思われる理由なんてないのだから。
「捨ててもらえますか?」
そう言うのが正しいとわかっている。
けれど。
「いけてもらえますか?」
反対の言葉が口をついて出ていた。
「かしこまりました。また来ると言っておりました」
「そう……」
そっけなく答えたけれど、心の中は大騒ぎだ。
(また来る? 彼が? なんで? 責任感から? それとも何か他の目的が? 支部長の父に気に入られるため??
ううん、出世欲がある人ではなかったし、こんな形での自分との接点が仕事上プラスに働くとは思えない。
なら、なんで……?)
彼が持ってきたのは、一輪のピンクのチューリップだった。
(そんなはずはない。それだけはありえないわ)
(理由はわからないけれど……、また会えるって期待してもいいのかしら……?)
少しだけでも姿を見られたら幸せ。
少しだけでも接点を持ってはいけない。
大きな矛盾だ。
(オスカー。大好きなオスカー……)
気持ちが大きくなればなるほど、鮮烈な赤が目の前をおおう。
(やっぱり、彼と関わっちゃいけない)
何度もくり返した決意を固める。
が、次の瞬間には、結婚さえしなければ、友人でいるくらいなら問題ないのではないかとくつがえされる。
永遠にループする袋小路に迷いこんだかのようだ。