2 愛してるからさようなら
心臓が爆発しかけた。
家庭教師の授業の後の息抜きに、夕方少し市街地に出ただけだ。
前の時にも同じようなことはしていたはずで、オスカーに出会うことはなかったから、そう簡単にすれ違うこともないだろうとタカをくくっていた。
行き来する人波の中に彼の姿を見つけた。
自分よりだいぶ背が高く、男性の中でもやや高めで、他の人の中にあっても目に入りやすい。適度な筋肉がついたしなやかな体型は魔法使いにしては珍しく、剣士に近い。
自分の中の最後の記憶よりもずっと若い。遠い昔に出会った頃の彼だ。仕事帰りなのだろう。その頃と同じ、懐かしい服だ。
(オスカー……。オスカーが生きてる……!!)
ぶわっと涙があふれて、あわててハンカチで抑える。
今は感動している場合ではない。深く息を吸って、吐いた。
心臓が存在を主張してくるのは彼への思いからなのか、会ってはいけないのに会ってしまったからなのか、その両方なのか。自分にもわからない。
(大丈夫。……大丈夫)
ただすれ違うだけなら問題ないはずだ。向こうが見ず知らずの自分を認識することはないにちがいない。
そう自分に言い聞かせながら、方向を変えるかを迷う。
あまり大きく表情に出る人ではないけれど、どことなく困ったような顔が気になった。
かすかに会話が聞こえてくる。
三歳くらいの男の子に何かを尋ねているようだ。
けれど、子どもは泣いてしまっていて、まともに話せそうにない。
胸が押しつぶされそうだ。
前の時、彼は積極的に子育てに参加してくれたけれど、幼い子どもは理不尽に泣くことがある。そういう時は決まって、叱られた子犬のような困った顔をしていた。
(助けたい……)
湧きあがる思いを飲みこむ。
彼と接点を持ってはいけない。それが一番重要だ。
彼が子どもの手を取って引いた瞬間、
「人さらい! うちの子をどうしようっていうの?!」
ヒステリックな声が辺りに響き渡った。
「いや、自分は……」
「こんなに泣かせて!! ちょっとそこの詰所まで一緒に来なさいっ!」
「待ってください! 彼は子どもをさらおうとするような人ではありません。ちゃんと話を聞いてください」
思わず割って入ってしまってから、ハッとした。なんということをしてしまったのか。
いや、まだ取り返しはつくかもしれない。
前の時に好きになったのは自分だ。あの頃は、なるべく一緒にいられるようにまとわりついていた。
だから、彼から自分に接点を持とうとはしないはずだ。
(一度だけ……)
この場で助けるだけなら、きっと影響はない。
そう信じたい。
考えをまとめる間もなく、女が叫び続ける。
「あんた何?! グルなの?!」
「違います。たまたま通りかかっただけで」
この人とはなんの関係もない。
そう言いかけた言葉は、理性ではなく感情がストップをかけた。
後から思えば、この場面で相手を説得するのには相応しくないから間違ってはいないけれど。
(なんの関係もない……)
今はそのはずで、それを望んでいるはずなのに、泣きそうになるのを必死に飲みこむ。
「なら黙ってなさい! 詰所に行くんだから!」
「私たちの話を聞かなくても構わないから、せめて、子どもの話はちゃんと聞いてあげてください」
「聞く必要がどこにあるの? 私が目撃しているのよ?! ねえ、この男に誘拐されそうになったのよね? そうでしょ?!」
泣き続けていた子どもがビクッとして止まった。それから目を泳がせて、何かを迷ってから小さく頷く。
あっけにとられるとはこのことを言うのだろう。
「ほら! 子どももこう言ってるでしょう?! 邪魔しないで!」
「……わかった。一緒に詰所に行こう」
「オスカー?!」
彼の言葉にあまりに驚いて、思わず名前を呼んでしまった。
彼はわずかに不思議そうにしたが、静かな声で続ける。
「自分は何もやましいところはない。詰所で説明すればわかってもらえるはずだ」
「なんの騒ぎだ」
何人かの衛兵がやってくる。通りかかって騒ぎを聞きつけたのかもしれないし、誰かが通報したのかもしれない。
甲高い声がこだまする。
「誘拐犯よ! 早く捕まえて!」
「なっ……、彼は違うって言ってるじゃないですか」
「泥棒に泥棒かと聞いて素直に泥棒ですって言う泥棒がいるはずがないでしょう?!」
「事情は詰所の方で聞こう」
有無を言わさず自分も一緒に詰所に連れて行かれた。
母親に手を引かれる子どもの目が、暗い。
(どうしてこうなったの……)
別々に事情を聞かれてから、一時勾留用の部屋に彼と二人で入れられた。
衛兵曰く、
「被害が主張された以上、調査はしなければならない。逃亡防止のために、調査が終わるまでは所内にいてもらう」
とのことだった。
自分が一緒に捕まったのは母親が共犯を主張したからだ。
まったく意味がわからない。
「……すまない。自分が迂闊だったせいであなたを巻きこんでしまった」
心底申し訳なさそうな、耳に心地いい低さの声がした。
誠実な、大好きな彼の声だ。
もう二度と聞けないと思っていた、とても愛しい音。
(生きてる……)
今はちゃんと、生きている。
あふれる思いと涙を、もう抑えられない。
抑えないといけない。
彼を困らせてはいけない。
それはわかっているのに、流れる涙を止められない。
「……怖い、だろうな。すまない」
申し訳なさと困った感じが混ざった優しい響きに、すぐには何も答えられなくて首を横に振る。
(違う……。泣いているのはそんな理由じゃない)
全部話して思う存分泣けたら、どれだけ楽か。
それができない今は、なんとしてでも自分が思いを飲みこむ以外にない。
ぐっと歯をくいしばって、なんとか涙を止める。
「大丈夫、です。……ちょっと驚いただけで」
「……そうか」
深い海のような瞳が何か言いたげに揺れたけれど、彼はそれを口にしなかった。
静かな時間が流れていく。
前の時も、ペラペラと話すタイプの人ではなかった。思慮深く見えるそんなところも大好きだった。側にいられるだけで幸せだったし、大変なことがあっても二人でなら乗り越えていけると思っていた。
二人でなら。
彼を失うのは、自分の半身を失う以上だった。
彼と娘を失っただけで、自分の全てを失う以上だった。
(生きてる。……今、オスカーは生きてる)
それだけでいい。それだけが、自分の願いだ。
ここから出たら赤の他人に戻る。それで彼の無事は保証されるはずで、彼ならきっと、他の誰かを見つけて幸せになれるはずだ。
そばに自分がいなくても。
彼が幸せに生きてくれるのなら、それでいい。
改めて決意を胸にする。
どれくらいの時間が経ったのか、逡巡していた彼がゆっくりと口を開いた。
「どこかで会っていただろうか」
(っ……! 大丈夫。それは当然の疑問だわ。大丈夫……)
必死に自分をなだめながら答える。
「いいえ。……お話をしたことはありません。父が魔法協会の者なので、魔法協会のみなさんを少し知っているだけで」
これでさっきの失態は取りつくろえただろうか。
あたかも知人のように潔白を保証したことと、思わず名前を呼んでしまったこと。そこを納得してもらわないといけない。
ドクン、ドクンと心臓がさわがしい。
静かな海のような瞳が揺れる。
ゆっくりと考えながら話す様子が、大事にされていると感じられて好きだった。
(好き。……大好き。……愛してる)
長い時間が経っていてもその思いがあせることはなく、再会してからむしろ色濃く感じられる。
「……そうか。……名前を聞いても?」
驚いて、視線を重ねる。
心の中で深呼吸をして、愛しさがあふれてしまわないように最大限顔をこわばらせて答えた。
「マリン・ガイア」
なんとなく浮かんだ偽名を名乗る。念のためだ。
彼が自分を探すことはないだろうけれど、もし探そうとしても見つからないように。
「ガイア氏……?」
聞き覚えのないだろう名前に、真剣に考えているような彼がかわいくて、ついほほがゆるむ。
カッコいいところもかわいいところも全てが愛おしい。
外から部屋の扉が開けられる。
「二人とも、釈放だ。何人かの目撃者が見つかった上、身元の保証も得られた。
オスカー・ウォード氏。迷子になっていた子どもを助けようとしていたらしいな。親を探そうとしたところで騒がれたという証言があった。母親の勢いが凄くて名乗り出られなかったそうだ。
魔法協会でも、冠位と直属の上司が、人格的にもできた優秀な魔法使いだと保証してくれた。災難だったな」
「いや、疑いが晴れたなら問題ない」
(一件落着、かしら)
もう何も問題は起きない。
そう胸を撫でおろした瞬間だった。
「ジュリア・クルス嬢」
名前を呼ばれて血の気が引いた。
「冠位魔法使いエリック・クルス氏のご令嬢で間違いないとのこと。たいへん失礼した。
ウォード氏に濡れ衣がかけられそうになったのを助けようとして間に入ったと裏が取れている」
彼についた嘘がバレたこと、身元を知られてしまったこと、二重の衝撃で頭がいっぱいになり、その後の衛兵の言葉は頭に入ってこない。
バックン、バックン、バックン……。
心臓がうるさくて、思考がまとまらない。
(ううん、むしろよかったのかも……)
身元を隠そうとするような怪しい女、嘘をつくような女と、今後も接点を持とうとするはずがない。
今日のことは、彼とのことは、今日限りで終わり。それで万事うまくいくはずだ。
心臓が締めつけられるように苦しくて、呼吸が浅く感じるのも、きっとすぐによくなるはずだ。
衛兵に送られる間も、どこか白昼夢を見ているかのようだった。
詰所を出たところで二人きりに戻る。
「大丈夫か……?」
優しく尋ねてくる声にビクッとした。
何が顔に出ているのだろう。わからない。
「……はい」
絞りだした声がかすれている。
オスカーが心配そうに覗きこんでくる。
(やめて!)
叫びたくなる。
距離が近づくと好きがあふれてしまいそうで、同時に、すがってしまいたくなるから。
「少し喫茶店ででも休むか? よければ家まで送るが……」
「いいえ。どうぞ、お構いなく」
声が震える。
逃げだしたいのに、離れがたい。
乾いた口をなんとか動かして音を出す。
「……冤罪が晴れてよかったです。私はこれで」
ぎこちなく頭を下げて、足に何度も命令して早く動かそうとする。
「あ……」
吐息にも似た、彼の小さな声がした。
「……また、会えるだろうか」
後ろから聞こえた愛しい音に、心臓がわしづかみにされた気がした。
(会いたい。……また、会いたい)
きっと彼がそう思ってくれるよりもずっと、自分は彼に会いたい。
けれど。
それは彼の破滅の始まりだ。
必死に、理性が感情を抑えこむ。
「いいえ。もう会うことはありません。……さようなら」
言い捨てて人波に駆けこんだ。
振りかえることはできない。
とめどなく流れる涙で顔がぐちゃぐちゃで、心の中は、それ以上にぐちゃぐちゃだ。