1 魔法使いにはなりません
「ジュリアさん、ジュリア・クルスさん」
懐かしい名前を呼ばれてハッとした。
もうずいぶん長く、自分をそう呼ぶ人はいなかった。涙腺がもろくなったのは、体が老いていたからだけではなさそうだ。
声をかけてきたのはキチっと髪をまとめあげた初老の夫人で、若いころにつけられていた家庭教師だと思う。
クルス家は代々一代限りの準男爵の爵位を賜ってきているため、子女教育は貴族寄りだった。上流階級の知識や優雅さと中流階級の自由さをほどよく混ぜたような家だ。
「どうされました? 少し休みますか?」
「……いいえ、大丈夫です」
自分の声の若さに驚いた。目に入った手の甲も、ゆで卵のようにつるんとしている。
部屋置きの鏡に映るのは十六歳当時の姿だ。
(私ってこんな顔だったわね……)
大人の女性に一歩足を踏み入れたようであり、どことなくあどけなさも残っている。日常的に化粧はしていないけれど、肌にはハリがあり、頬はほんのりと色づいている。
コバルトグリーンの瞳は理知的に見える。明るい印象を受けるのは、ふんわりと顔回りを包むオレンジに近い輝く長い髪によるのだろう。
「無理はしないで、必要なら言ってください。授業を続けますよ?」
「はい、すみません」
「原初の魔法使いグレース・ヘイリーがダンジョンから魔物があふれて滅びかけた世界を救ったところからですね」
(原初の魔法使い、グレース・ヘイリー……)
呪われた名を耳にして鳥肌が立った。
自分にその血が流れているなんて、あの瞬間まで知らなかった。
浅くなった呼吸に気づかれないようになんとか整えて、家庭教師の話に集中する。
「原初の魔法使い、偉大なグレース・ヘイリーは、その叡智をもって人類に魔法をさずけました。
それにより世界にあふれた魔物の多くが退治され、多くのダンジョンが攻略されたのです。そこから人類の繁栄が始まったと言われています」
学習用の書字板に『魔力開花術式』と書きこまれる。
「グレース・ヘイリーが人類に魔法をさずけた方法が『魔力開花術式』です。
当初の術式用の部屋が中央魔法協会に保存されているのですが、こちらは公開されていません。通常、各地の魔法協会支部に複製された魔法陣で行われます。
潜在的に眠っている魔力を呼びさますもので、百人に一人かそれ以下の確率で魔法使いになれると言われています。
心身が未成熟なうちに受けると副作用があるため十六の誕生日以降に、希望者は魔法協会で受けられることになっています。
ジュリアさんに今日これから魔法協会に行っていただくのは、この術式を受けるためです」
(……思い出した)
魔力開花術式への導入のために、原初の魔法使いの説明を受けたのだった。両親が魔法使いで昔から当たり前のように知っている話を改めてされた理由がわかった。
うすれている遠い昔の記憶をていねいにほどいていく。
(この後のはず……)
十六の誕生日の数日後、魔力開花術式を受けに魔法協会に行った。そこで、新人の魔法使いとして育成部門にいたオスカーに出会ったのだ。
彼に出会わないためには、魔法協会に行かなければいい。
(すごくいいタイミングに戻って来れたわね)
時間の微調整はできない。もっと前ならいいけれど、後ろにずれたら難しくなっただろう。
ほっと小さく息をつく。
今回は恋をしない。結婚も子どもも考えない。自分が幸せにならなければ、誰一人巻きこまないでこの因果を終わらせられるはずだ。
決心を新たにする。
(……大丈夫)
八十年近い孤独を過ごしたのだから、孤独には慣れている。
ぐっと手に力を入れる。
「魔力開花術式は受けません。魔法協会にも、行きません」
家庭教師にキッパリと言いきった。声が震えて聞こえたのは、きっと気のせいだ。
「何をおっしゃいますやら。魔法の才能がない可能性を心配されているなら、きっと大丈夫ですよ。完全な遺伝ではないですが、遺伝の影響も大きいと言われていますから。
クルス家は代々冠位の魔法使いを輩出している家系です。お父様も冠位としてご活躍ですし、お母様も冠位ではなくても優秀な魔法使いではありませんか」
「そういう理由ではありません」
高適性で高い魔力値が出ることも、この先、ニ十年近く優秀な魔法使いとして活躍することも知っている。
魔法や魔力は精神に付随していて過去に戻っても引きつがれると、朽ちかけた石碑にはあった。だとすれば、前の時よりも更に世界に貢献できるのは間違いない。
(でも、それがなんだっていうの?)
貢献した世界は自分に牙をむいた。なら、守るべきなのは自分が守りたい人たちだ。
困惑したように家庭教師が尋ねかえしてくる。
「では、どのような理由でしょう?」
「私は、魔法使いにはなりません。なる気はありません」
今度は核心を口にする。もう声は震えない。
「な、な、なんということでしょう! クルス家の、この国の、この世界の、大損失です!!」
家庭教師が叫び、パタリと倒れる。
「えっ」
想定外だ。こんなことは前の時には起きていない。
「……そっか。私が言動を変えると、相手の反応は変わるのね」
そんな当たり前のことが、現実で起きたことに改めて驚く。
それと同時に、この先の未来を変えられるという希望が確信になった。
(きっと、大丈夫)
そう自分に言い聞かせる。
「フローティン・エア」
試しに魔法を唱えてみる。倒れた家庭教師がふわりと浮きあがり、イメージ通りソファに降ろすことができた。違和感や負担感もない。
今のこの体は魔力開花術式を受けていないけれど、問題なさそうだ。
(魔法や魔力は精神に付随する……)
術式も精神に働きかけるもので、体に働きかけるものではないのだろう。
その確信を得て、人を呼びに行った。
両親から反対されて説得されると身構えていたけれど、意外にもすんなりと許された。
理解してもらえないだろうと思っていた父は言った。
「魔力開花術式は受けたくなった時で構わない。高齢になってから受けて、一足飛びに活躍する魔法使いもいるからな。収入面を考えて、なるべく早く受けさせる親が多いというだけのことだ」
「本当にいいんですか?」
「なんだ、反対されたいのか?」
「いえ。助かります」
「とはいえ、だ。私たちの家系は代々魔法使いを生業にしてきた。シェリーも同じだ」
シェリー・クルス。母の名も懐かしい。
「魔法使いとしてどう生きるのかは教えられるが、他の道を行くというのであれば、お前が自分で切り開かなければならない。その覚悟はあるのか?」
「はい。覚悟はあります」
しっかりと父の目を見て言いきった。それは父が言うのとは違う覚悟かもしれないが。
あの時に失ったのは両親もだ。目の前のこの人たちを守ること、大切な人たちを守ること、そのためには自分の何を犠牲にしても構わない。そういう覚悟だ。
父と視線が重なること、数秒。長く感じるその時間を経てから父が続ける。
「いいだろう。で、何をして生きる?」
「はい。教師を目指そうかと思っています」
迷いなく答える。
家庭教師の一件があってから、父と会う前にしっかりと考えておいた。
これまでに学んできた知識がある。それを伝えていく仕事は向いていると思う。
「ふむ。で、教師にはどのようになる?」
父の目はどこか試すかのようだ。答えを知っているのに問いかけているように聞こえた。
「家庭教師の先生から、教師になるために必要なことも学ばせてもらいます。
その後、教育協会の試験を受け、免状をいただいて登録されれば仕事ができます。
もしこの街で生徒が見つからなくても、田舎の方ではまだまだ教師が足りないと聞きます。私が粗相をしなければ、職につけないということはないと思います」
「ふむ。よく調べたな。そこまでわかっているならいいだろう。教師を目指すといい」
「ありがとうございます、お父様。……愛しています」
心からあふれでた最後の言葉に、父は目を丸くした。
そういえば、このくらいの歳のころには厳格に見える父が少し苦手で、何を話していいのかもわからなくて、ほとんど会話をしていなかった気がする。自分の中で父との心の距離が縮まったのは結婚してからだったと思う。
けれど今は、再び見られた生前の姿が愛しくてしかたない。
「お母様も。ありがとうございます。愛しています」
静かに話を聞いて受け入れてくれた母をそっと抱きしめて伝える。
母が目元を拭った。泣きそうなのは自分の方だ。
これ以上は顔を見ていられそうになくて、いそいそと挨拶をして自室に戻った。
(これできっと全部うまくいくはず)
完全にオスカーとのフラグはへし折ったと思っていた。
次の日に彼に出会ってしまうまでは。