11 もうひとつの問題
家にこもってしまえばオスカーに会うことはない。約束を守ってくれているのか、もう本当に自分への興味を失ったのか、彼が会いにくることもなかった。
それでいいと思うのと同時に、失恋したような感覚がある。
(ほんと、矛盾してる……)
彼を拒絶したのは自分なのに勝手に傷ついて泣いているなんて、彼からしたら酷い話だろう。頭ではわかっていても、心と体が追いつかない。
観劇から更に一週間以上経ってやっと、いくらか気持ちが落ちついてきた。そろそろ先延ばしにしていたもうひとつの問題に取り組まないといけない。
「人数が多い授業を短時間とか、男の子だけ教える家庭教師とかならできそうだけど。こんな大きな欠陥を抱えて教職を専門にするのは厳しいわよね……」
部屋で一人、ため息をつく。
「女の子の顔をまともに見られないなんて」
孤児院で子どもに関わって初めてわかった事実だ。すぐにまた行こうと思えない理由もそこにある。
あの日は本当に色々あった。学ぶことは多かった。自分の知らない世界に生きている子どもがいることも知った。
「貧民窟……」
貧困という言葉は知っている。そういう人がいることも知らなくはない。
けれどどこか遠い世界の、自分とは隔たれたどこかのことという感覚だった。
叩かれた手を見て、あの時の子どもを思いだす。
「貧民窟、孤児、孤児院……。うーん……」
何か力になれることはないかと思うけれど、方法がわからない。
自分が魔法使いなら、やれることは思いつく。給料から寄付をすることもできるし、希望があれば、費用を寄付したという扱いにして魔法で建物を直すこともできる。
魔法で身を守れる前提なら、貧民窟の衛生管理や環境改善に関わることもできるかもしれない。
でも、今の自分は表向きには魔法使いではないことになっているし、今回は魔法使いになるつもりはない。
家は裕福だけれど、それは代々魔法使いとして成果を残してきた結果で、自分で収入を得られないのに資産に頼るのは違うと思う。
誰かを助けるためには、助けられるだけの力を持つのが先だ。
「ほんと、魔法しか能がないのね……」
机につっぷして息を吐きだす。
前の時は、魔法使いとしてレールの上を走って、良縁に恵まれて子どもを育てた。全てを失ってからは混乱期を経て、どうにかするための魔法を探し続けただけだった。
唯一、教職というイメージがあったのは、家庭教師と接点があったからだ。
他に関わりが深い仕事は屋敷の使用人くらいで、自分に使用人になるという道はない。
「うーん……」
両親に相談しても解決しなさそうなのは、二人もまた自分が親だった時と同じように魔法使いの生き方しか知らない人たちだからだ。すでに父からもそう言われている。
家庭教師は、魔法使いにはならないと言った時に気を失わせてしまったから相談できない。
思えば、随分と狭い世界で生きていた。魔法使いの職域は広いけれど、魔法を使わずに自分に同じことができるとは思えない。
部屋で悩んでいてもしかたない気がしてくる。街に出れば少しは参考になるものがあるだろうか。
「でも……」
街に出たらオスカーに会う可能性がゼロじゃない。
最初の時がそうだった。そう簡単に出会うはずがないとタカを括っていたのが始まりだ。
「けど、そんな偶然がそう重なることはないわよね……」
しばらく考えて、ぽんっと手を打った。
「私だって気づかれなければいいんじゃないかしら?」
それは画期的な考えに思えた。
次の日、使用人に調達してもらった服で久しぶりに敷地の外に出た。
(胸を布でしめつけるのは苦しいけど、これなら男の子にしか見えないわよね)
だぼっとしたラフな男性用の服が、しめつけてもふくらみが残る胸元をしっかりカバーしている。下や靴も上に合うような若い男性のものにしてある。
まとめた髪を大きなキャスケット帽に入れて、軽く顔も隠している。
クルス家のお嬢様ではない誰かになるのはなんだか楽しい。
天気もよくて気持ちいい。
こんな感覚は、とても久しぶりだ。
市街地までは馬車で行く方が楽だけど、今日は歩きたい気分だ。
家の周りには同じようなお屋敷が何軒かある。柵に囲まれた庭があり、奥に大きめの屋敷がある形だ。
オスカーと結婚してから住んでいた彼の実家は隣の街にあり、似たような環境のエリアだった。彼の家も代々魔法使いだ。その辺りも、色々な価値観が合いやすい理由だったのかもしれない。
(実家がホワイトヒルでよかった……)
彼の実家があるウッズハイムで過ごした時間が長い。多くの思い出が詰まった場所や事件が起きた式場の近くは、まだ冷静に見られない自信がある。
エリアの警備をしている詰所があって、そこを抜けると市街地がある。上流階級向けの店が手前、先に行けば行くほど庶民的になり、庶民の生活との境目がなくなっていく。
魔法協会は上流階級向けの店と庶民向けの店の間くらいの位置だ。どちらからもアクセスがよくて、近くに教育協会もある。運送協会や冒険者協会があるのは庶民向けの店の方だ。
庶民の生活区はいい服を着た女性が一人で足を踏み入れる場所ではないから、普段は縁がない。
(今日は行ってみてもいいかもしれないわね)
そのあたりをスタートにして、家に戻る方向に歩いて街を見るのもいいかもしれない。誰もこの姿の自分を知る人がいないことが考えを大胆にしている気がする。
初めてのことに挑戦するドキドキとワクワクを胸に抱いていると、不思議と足が軽くなる。
今やっと新しい時間を歩きだした気がした。
探検は大成功だった。
庶民街を歩くには服が真新しい気はしたものの、街から浮くほどではない。たまにはそのくらい新しい服を着ている人も見る。
肉が焼けるいい香りがして、街の一角にある屋台で串焼きを買い食いした。ちょっとだけ悪いことをしているような感じが楽しい。
一口食べて驚く。食べたことのない味なのに、驚くほどおいしい。
精一杯低い声で、なるべくぶっきらぼうになるように店主に尋ねる。
「これはなんの肉?」
「なんだ、知らないのか。なら、内緒だ」
ニヤッと笑ってそう言われ、ムッとしなくもなかったけれど、不思議と楽しかった。
追加でもう一本買った。
食べながら素朴な疑問を尋ねる。
「おじさんは、なんで肉を売ってるの?」
「お兄さんだ。なんでって、それは肉がウマイからだろう」
「肉がウマイから肉を売っている?」
「そりゃそうだ。ウマイものを食べたらとりあえず元気になるからな」
目から鱗が落ちた。
代々この商売をしているからとか、お金になるからとか、そういう理由を聞いたつもりだった。
肉を売ることに肉を売る以上の意味があるなんて想像したことがなかった。
けれど、この人の言うとおりだ。おいしいものを食べたらとりあえず少し元気になる。真理だ。
食べ物を食べられるかどうか、おいしいと感じられるかどうかは、ひとつの調子のパラメーターなのかもしれない。全ての生き物を支えているのは、食だ。
母の仕事を思いだす。
魔法協会で管理職をしている父とは違い、母は現場の魔法使いだ。
あまり詳しく聞いたことはなかったけれど、記憶にある限りでは、主な仕事は植物の成長促進とそれにまつわる研究だったと思う。育てた植物は家畜の飼料になっているのだったか。
「食べ物に関わる仕事……。魔法使いじゃなくても、できる……?」
「ん? そりゃそうだろう。少しでも魔法が使えるのは百人に一人くらいだったか? ほとんどは普通に働いて、普通に生活している一般人さ」
独り言を店主がひろって、当たり前なはずなのに忘れていたことを教えてくれた。
魔法使いにはならないと決意したのに、心のどこかではまだ魔法使いだったのかもしれない。
「ありがとう、おじさん」
「お兄さんだ」
「イケメンなお兄さん、ありがとう」
「おう。どういたしまして」
「……男色のけはなかったはずなんだがな」
後ろからそんなつぶやきが聞こえた気がしたのはそら耳だろう。
帰り道で改めて街の様子を見ると、今まで知らなかった色々な仕事があることに気づく。
肉屋、八百屋、お菓子屋、レストラン、服屋、靴屋、道具屋、宝飾店、薬屋、花屋など。店を認識していても仕事だとは認識できていなかった。
他にも色々な店がある。それらの中には作る人と接客が分かれているところもあるようだし、同じ人がやっている店もある。
馬車の運転手もいるし、行商人のような人が大きな荷物とともに移動していく姿もある。観劇で見たような演者もいるのだろう。
(誰も、魔法を使ってない……)
魔法に慣れていると魔法を使った方が早いと思う仕事もあるけれど、本人たちに不自由はないかのようだ。
孤児院の老夫婦も魔法使いではないし、普段のボランティアもそうだと聞いている。
世の中には魔法使いの方が少ない。そうでない人たちも普通に働いて生活している。その実感が持てた。
希望がわいてきた。なんとかなるかもしれない。
帰りは馬車でも使おうか。街の中心部でそう思った時だった。
視界のはしにオスカーの姿がよぎった。
ビクッとして、いや大丈夫だと自分に言い聞かせ、呼吸を整える。
(何も問題はないはず。今の私はジュリアじゃないんだから)
見なかったことにして帰ろうとした。
けれど、彼の横に立つ人影に気づくと、その場を動けなくなった。
「女の、人……?」
心臓がイヤな暴れ方をする。