10 そんな顔をさせたいんじゃない
「オスカー」
ついそう呼んでしまいそうになったのを一度飲みこんで、他人行儀に呼びかける。
「ウォードさん」
それは前の時、結婚してから長い間自分を指す言葉でもあった。不思議な感覚だ。
「クルス嬢」
他人行儀な呼び名が返される。
けれど、彼の瞳はもう少し近しいように感じられた。
「助けていただいて、ありがとうございました」
「いや、自分は当然のことをしたまでで……」
さぐりあうように視線が絡む。
「その……」
同時に言いかけて、お互いに譲りあい、再びの沈黙があった。
トクン、トクン、トクン……。
心音がうるさい。
もっと一緒にいたい。離れがたい。手を伸ばしたい。愛おしい。
それは決して許されない。彼を自分の因果に巻きこんではならない。そのためには離れないといけない。
一緒にいてはいけない。手を伸ばしてはいけない。愛してはいけない。
ごくりと息を呑んで、決意とともに声をしぼりだす。
「忘れてください」
「またあなたに会いたい」
(……っ!!!!!)
ピッタリ同じタイミングに彼がつむいだ音に、呼吸が止まるかと思った。
(私も会いたい……っ!)
そう答えられたらどれだけよかっただろう。
オスカーが一度目をまたたいて、そのまま固まっている。自分とは反対の衝撃を受けているように見える。
(そんな顔をさせたいんじゃない……)
二重に胸が苦しい。
視線を重ねたまま、時が止まってしまったようだ。自分たちの周りだけ何も音がしなくなったように感じる。
オスカーが先に、どこか苦しそうに音をしぼりだす。
「……何を……?」
「今日の……、いいえ、私の、これまでの全てを」
彼の瞳が驚きの後に、傷ついた色に揺れた。
バクン。
心臓が軋む。
(違う……! そんな顔をさせたいんじゃない……っ)
彼の幸せだけを願っているはずなのに、なぜこうなってしまうのだろう。
ただ、ずっと、一緒に時を過ごしたあのころのように、ずっとずっと、彼の笑顔が続くといい。それだけを願っているはずなのに。
重ねたままの視線をそらせない。
あなたが好き。愛してる。そう言って抱きしめられたらどんなにいいだろう。
けれど、自分だけは、決してそれをしてはいけないのだ。彼を愛しているから、もう一度あの結末を迎えることだけはなんとしてでも避けたい。
そう思っているのに、「また会いたい」という彼の声が頭の中でくり返される。彼がそう思ってくれていることがすごく嬉しいと思ってしまう。
(会いたい……。あなたに会いたい。あなたのそばにいたい……)
本当に身勝手だ。
どれだけ経ってからか、ふうと、オスカーが空気を押しだした。
「……わかった」
あきらめたような声だった。
何かが割れたような音と衝撃が自分の中に走る。それを望んだのは自分なのに勝手すぎると思う。
「クルス嬢。どうかこれからも、あなたの幸せを願わせてほしい」
彼が眉を下げてそう告げて、大股に歩きだす。
もう振り返ることはなかった。
「ぁ……」
呼吸が浅くなってその場に倒れそうになったけれど、なんとか持ちこたえる。
それからどうやって家に帰ったのかは思いだせない。
次の休日、家族で観劇に出かけた。
両親が誘ってくれたのは、最近ふさぎがちな自分を心配して、気をまぎらわせられたらと思ったからだろう。
ドタバタとした気楽なミュージカルコメディだ。元々そういう話が特に好きな親ではないから、その辺りにも気を遣われているのを感じる。
本当に大切に育ててくれていたのだと改めて思う。この家に生まれたことがありがたい。
両親のどちらかが、知らずにあの因果をつないできた家系なのだとしても。
帰りの馬車に揺られながら、気遣いへのお礼を伝えたいと思った。
けれど、うまく言葉が見つからない。
長く生きても、探し続けた魔法の分野以外では、今くらいの頃からそう成長しなかった気がする。
むしろ人と距離を取ってからの期間が長すぎて退化している節すらある。
ふうとため息がこぼれた。
「ジュリア」
父の気遣うような声がした。
「はい、お父様」
「お前に謝らないといけないことがある」
「? なんでしょう」
思いあたることがない。
「その、孤児院のことなのだが。勉強と気晴らしを兼ねられたらと思っていたが……、ジュリアとウォードに元から接点があるとは知らずにアレンジしていた。
後からシェリーに聞いた。よくはわからないが、難しい関係にあるらしいと」
母から聞いて父が会わせたのではなく、知らずに一緒に行くことになって、そのことを後から気にしていたということか。
予想外の話に答えられないでいると、父が困ったように続ける。
「ウォードは魔法協会の中でも指折りの新人だ。アレの家も代々魔法使いで、高い魔力を持っている。努力家で魔法の覚えもいいと報告を受けていたし、人柄も信頼されている。
必要以上に多くを話さないが、必要なことは言葉にできる人間だ。そこもジュリアとは気が合うだろうと思っていた」
知っているし、父の推測は正しい。
あんなことが起きる未来さえなければ彼の手を取っていたし、今も心は彼に囚われている。
「……意図して引きあわせたのですか?」
「いや。仕事ではなく休日のボランティアだろう? 魔法使いなんてのはだいたいみんな気ままだからな。全員に投げかけたらアレだけが承諾した。
アレとなら大事な一人娘を行かせても問題ないと判断したというのが正しい。苦渋の決断だったが、引き受けてくれる女性がいなかったからな」
(なるほど……)
「だが、私が間違っていたようだ」
(……?)
キッパリと言った父の声がどこか怒っているように聞こえた。
「ジュリアもアレも表情が冴えないのは、何かあったんだろう?」
心臓がぎゅっとした。
両親に心配をかけていることも申し訳ないが、それ以上に、最後の彼の表情が忘れられない。
最後の。
そのイメージに、前の、本当の最後のフラッシュバックが重なって吐き気がした。
自分がいけないのだ。
どう転んでも自分は彼を不幸にしてしまう。やはり出会ってはいけなかったのだ。
あるいは、自分が今この時間を生きていることが間違いなのか。そもそもジュリア・クルスが存在しないなら、彼が不幸になる要素はないのではないか。
そんな考えが浮かんだが、その手段は使ってはならないものだと打ち消す。
両親から娘を取りあげることはできない。彼とともに娘も失った。その深い喪失を知っている。あんな思いを両親にさせたくはない。
それに、もう彼とも出会ってしまった。
今、自分に何かあったら、彼はその責任を感じてしまう可能性がある。オスカーという人の性格を知っているからこそ、その懸念は現実味を帯びている。
結局はもう、彼を苦しめた事実は取り消せない。それならせめて、その命は守り通したい。いつかどこかで他の誰かに出会って、彼が幸せになれると信じて。
長い思案を挟んでから、ぽつりと言った。
「……彼は、なんて?」
「何も。いい学びになったという報告を受けている」
「……何も?」
「ああ」
「……そうですか」
胸がいっぱいだ。
彼は自分との約束を守ってくれたのだろう。
「忘れてください」 ―― 「わかった」
あの最後のやりとりを、律儀に。
自分が魔法を使ったことを父が知っているそぶりは全くない。
(また、あなたに守られたのね……)
どこまでも好きがあふれてしまいそうだ。
(オスカー……。……大好き)
好きと感謝で今にも泣きそうになったけれど、泣いてはいけないと飲みこもうとする。
それでも涙が込みあげてきて困る。
「なるほど。一発くらいあいつを殴った方がいいか?」
聞いたことのない父の言葉に驚いて、一瞬で涙が引っこんだ。
「お父様?」
「当然だろう? 私の大事なジュリアをこんな顔にしたのだから」
どうやら真逆に解釈されているらしい。
「いえ、お父様。いいえ、違うのです」
「何が違うんだ?」
「彼の、オスカーのせいではなくて。彼は何も悪くないんです」
「ふむ。つまり、私があいつを買いかぶりすぎていたということだな」
「どうしてそうなるんですか」
「ファーストネームを呼ぶほど親しくなったのに、ジュリアがそんな顔になるんだ。あいつに何をされた? 言えないのは庇うように言われたからか?」
「オスカー……、ウォードさんはそんな人ではありませんっ!」
つい声が大きくなってしまった。
何も言わないと彼があらぬ誤解を受ける。そう思って、頭の中で高速で話せる部分を探す。
「問題があるのは私の方で……、彼はむしろいつも力になろうとしてくれていて、孤児院でも困った時に助けてくれて……、守ってくれました。でもそれが一番の問題というか」
「問題?」
「それは……、話せないのですが。でも、彼は何も悪くないのは事実なんです」
どうかこれでわかってほしい。すがるような気持ちで父を見て、助けてほしいと訴えるように母を見る。
父が強めに息をついた。
「納得はしていないが。ジュリアがそう言うなら、今回はそういうことにしておこう」
「……はい。ありがとうございます」
そういうことも何もそうなのだけど、これ以上は何を言っても変わらなさそうだから飲みこんだ。
彼が殴られなくて、彼の評価も大きく落ちないのなら、それで良しとするしかない。
「もう彼と会うことはないと思うので、きっともう大丈夫です」
笑顔を作って安心させたつもりだったけれど、両親の心配そうな顔は変わらなかった。
(もう会うことはない……。きっと、今度こそ)
この時はそう信じていたし、どんなに苦しくても泣きそうでも、それを現実にするつもりだった。