上巻
命が還るのは土の中
僕らの下には土瀝青
命が宿るのは胎の中
僕らを孕む深夜街
誰かに望まれたはずの我楽多
誰にも望まれなかった命
それでも笑ったその顔で
傷痕も癒えないままで
今日も死ねない理由がある
――東海道
東京の日本橋から京都の三条大橋までを繋ぐ東海道。その名残のような道が旧東海道として今も残っている。昔の大きな街道と言っても田舎に入ると道幅も狭く、わざわざ見に行くべき特別なものがあるかと言われれば返答に困るのが現実である。東海道を卑下するつもりはないが、そんな歴史ある道を通学路としている学生もいるという話から始めよう。滋賀県某所、京都の某大学に通う茉晴は九月中頃までの夏休みを終え、苦痛に満ちた通学との邂逅を果たしていた。夏休みに怠けた筋肉のお陰で、駅までの八百メートルがそれはそれは恐ろしく長ったらしく感じる。しかも九月中旬にしては日が照っていて暑すぎる。通学が苦痛なのは今に始まったことではないが、あからさまな悪態を隠せずにいた。うなだれながらなんとか駅に着き、定期を改札に押し当てる。切るのが億劫だったので目元まで伸びてしまった髪が熱を籠らせて更に暑い。車内なら涼しいはずだ。やっと開放される。そんな期待を乗せてホームに電車到着のアナウンスが流れた時だった。
線路上に鳥がいる。烏だ。捨てられたお菓子の空き袋を漁るのに夢中になっている。田舎の、それも午前十一時のホームにはほとんど人がおらず、もちろん気に留める人などいない。しかし茉晴の研究柄、無視はできなかった。他人には恥ずかしくて言っていないが、カワイイ鳥が大好きすぎて鳥類を研究しているのだ。烏は頭が良いとは言えど電車を避けてくれる確証はない。もし目の前で轢かれでもしたら心に深く傷を残し、更に電車が遅延することになるのは明白である。烏を誘導する為の何かを求めてリュックを降ろす。かき分けながら探ると、中には筆箱とファイルとタオルとポケットティッシュとタブレット端末と明日の着替えに替えの靴下……サイドポケットを探ると昨日入れたおかきの小袋が見つかった。その頃にはアナウンスが流れ終わり、チャイムが鳴り始めている。袋を開けて向かいのホームに勢い任せに投げつける。ここよりもっと田舎の方面のホームだったので、誰もいなかったのが幸いした。すぐに烏はおかきの雨に反応してホームの上に飛び乗ってくれた。自身の危機など忘れて、食べるのに必死だ。頬が緩む光景を見届けると、電車が到着する。ドアが開くと涼しい風が顔に当たり、一連の騒動で忘れていた疲れがどっと押し寄せてきた。幸い空席はいくらでもあったので、倒れるように座った。発車のベルが鳴る。窓を見ると、先程の烏がこちらを見ている。誰も近くにいないことを良いことに、ひっそりと手を振ってみた。しかし想いは届かず、曇り始めた空に飛び去ってしまう。そんな自由な姿を見ていると、 いつも溜息をつかずにはいられない。心にできた雨雲を押し込めるように欠伸を噛み殺す。どうせ京都行きに乗り換えたら座れないだろうし、少し仮眠しよう。そう思ったが早いか、穏やかな寝息を立てていた。
――東京
高層ビルの森で場所で生きていくことを決めた者たちがいる。烏である。コルクもその一羽だった。彼は今も一際大きな看板の上にのって、眼下に遍く這いずる人間共を睨みつけている。人間は翼を持たなかったが、気持ち悪いほど器用な手と高度な知性を得た。烏は翼を持ったが、人間ほど恵まれた境遇は得られなかった。言ってしまえば敗北者である。
「そんなに熱心に見つめて、よっぽど人間が好きなのね。」
隣に飛び乗った彼女はいたずらっぽく言う。
「めちゃめちゃ面白いね。最高にクスッときたよ。」
わざと抑揚のない声で言い返すと、それで満足したように笑う。その笑顔につられて笑ってしまう。灰色一色のこの森を見続けるより、よっぽど有意義な瞬間だと思う。メイルとは二ヶ月前に知り合ったばかりだが、議論がしやすくて話が分かる奴なのですぐに仲良くなった。京都から来たらしく知識が豊富で、彼女の博識さには驚きを隠せなかった。考え方も話し方も大人びており、初対面では年上だと思っていたものの、同い年と聞いたときは置いて行かれている恐怖さえ感じた。それでも今のような彼女の堅くない側面を知ると親しみを持てる。彼女となら一生を共にしても悪くないと思えた唯一の友だった
「なぁ」
今日こそ切り出そうと思っていた想いを目の前にして、息が詰まる。
「うん?」
メイルが顔を覗き込んでくる。目を合わせられない。切り出したは良いが、喋ることができない。なかなか口を開かない自分に、メイルも気を遣って話してくれる。
「あっ、もしかしてだけど、私じゃなくて人間に話してた?」
「違う、その…。」
無理。言葉が出てこない。直接言うのは駄目だと感じ、違う方面から話を近づけようとした。
「メイルは…今の生活に満足してるのか?」
「え、今の?」
突拍子もない話題だったが、彼女はうーんと考え始める。頓珍漢な事でも真剣に考えて話してくれるのが、メイルの好きなところだ。
「んー、満足は…してないかな。」
「そ、そうか。」
思い描いた展開にするには今しかない、と覚悟を決めて言おうとしたのと同時だった。
「なら――」
「なんか墓場みたいだなーって。」
え?と反射的に聞き返す。墓場って、自分との関係が墓場みたいだと言いたいのだろうか?まさか会うのが嫌だと遠回しに言っているのか?様々な理由が頭に浮かんでは、心を揺さぶる。
「探して、食べて、寝て、起きて、また探して…って生きてるって言えるのかな。」
「あ、あぁー…」
困惑と安心と迷いが入り乱れて、なんか変な返事になってしまった。取り敢えずいつものように議論すれば、どこかで話を本題にもっていけるはずだ。思考を瞬時に回して自分の考えを述べる。いつも通りだ。
「生命はもちろん生きてるけど、その個々が生きてるとは言えないと思う。いや、生命を維持してるだけと言った方がいいかな。」
「そう、生きてるんだけど死んでるみたいだなって思う。」
だから墓場か、と独りで納得する。しかしここがゴールではない。話を戻さなくてはならないのだ。なんとか本題にもっていくために、会話の道筋を作る。
「じゃ――」
「死ぬ為の場所で生きるって、どうしたらいいんだろ」
「あ、もしかしたら、僕たちが生きるのは目的があるんじゃないかな?例えば…子孫を残すためとか良く言われるけど」
「…だよね」
そう独り言のように呟く彼女は、自分の声が聞こえていないようにも見えた。目もどこか寂しげに宙を見ている。ふと、その目が自分を見てくれたらいいのにと思った。そう考えると、俄然言う気が出てきた。気持ちを伝えなければという使命感を携えて、半ば強引に話題をすり替えることにした。
「じゃあ、僕と一緒にいる時も墓場みたいなの?」
今度は目を見て言えた。彼女は少し驚いた顔をして、それから一瞬、何故か寂しそうな表情を見せたが、いつものように笑ってこう言う。
「コル君と一緒にいる時間は楽しいよ。生きてるって思える。」
楽しい、と彼女の口から聞くのは初めてだった。今まで自分のことをどう思っているかを聞く機会など無かったので、安堵と喜びが胸に満ちた。今なら言える気がした。
「………僕も、メイルと一緒にいたい。もし良かったら一生…………とまで、は言わないんだけど…うん。そう。」
自身に満ち溢れた三秒前とは打って変わり、歯切れの悪い告白になってしまったが、言えた。言えたのだ。ならば後は待つだけ。返事が怖くて顔が上げられなかった。彼女は今どんな表情をしているだろうか。喜んでいるだろうか。困っているだろうか。胃の痛い数十秒が過ぎた。
「…」
それでも何も言わない。彼女はどうしているのだろう。目線をゆっくり上げ、恐る恐る確認しようとした時だった。
「…ごめん」
目の前に一滴の水が落ちた。彼女は泣いていた。何も理解できなかった、理解したくなかった。何と声を掛けていいのか、何故自分が謝られているのか、彼女をどう見つめていいのか分からなかった。何一つ理解できないまま、彼女は飛び去った。余りにも多すぎる疑問をなんとか飲み込み、寝蔵に翼を向けたのは夕刻のことだった。
――京都
研究室のドアをもたれかかるように開けると、そこには六つで三人分の冷ややかな目があった。
「あはは…どうも」
高身長でスキンヘッドの朱川教授が、赤眼鏡を直しながら近づいてくる。尋問の時間だ。
「今日は、どのような理由を聞かせてくれるのでしょう、茉晴君?」
この怒っている訳ではないが、優しくもない口調が一番精神に刺さるのだ。私は苦笑いしながら
「ちょっと、駅で困っている烏を助けてまして…」
と言うと、入室時よりも鋭い視線が集まるのを感じた。
「烏だぁ?まっさかぁ。都合のいいご老人じゃあるまいし。」
与音が小馬鹿にした口調で問い詰めてくる。
「嘘じゃないんだって。線路で轢かれそうになってて…」
「それが嘘かどうかは置いておいて、その右後頭部のぺたーっとした寝癖はどう説明するんですか?まさか、寝過ごしたとかじゃないですよね。」
奏奈の的確な指摘が私の最後の抵抗を貫いた。
「はい…寝過ごしました。すみません…」
朱川教授は二人にオーバーキルされた私に情けをかけ、ただ
「君の到着を待っている子がいますからね。」
とだけ言って開放してくれた。有り難い。リュックを置き、急いで更衣室に行き、白衣に着替えてから飼育室に向かう。研究室の一番奥(で一番ボロ)のドアの先が茉晴の担当飼育室である。ドアの防音効果が長い年月を経て失われているお陰で、入る前からやかましい鳴き声が歓迎してくれている。多分餌をよこせと言っているのだろう。飼料を持って入ると、さらに大きな鳴き声で喚くものだから鼓膜が痛い。
「遅れて悪かったってアビー。落ち着いてくれよ」
落ち着けないといった様子で白い翼を羽ばたかせて威嚇するのはアビー。白い羽根とくちばしを持っているが、烏である。始めて会ったときはアルビノ種のアビーと名付けたが、後から奏奈から
『この子、目が黒いのでアルビノではなく白変種ですね。アビーじゃなくてハクとかのほうがいいと思いますよ。』
とケチを付けられた。どうやら生まれつき色素が薄く産まれたのがアルビノで、突然変異で白くなったのが白変種らしい。いつかの講義でやったらしいが、私は奏奈ほど律儀ではないので忘れていた。だがしかし、既にアビーで呼び慣れてしまったので、この子は誰が何と言おうとアビーだ。好奇心旺盛。育ち盛りな二歳児(と言っても人間なら十歳ほどだが)。飯が遅れれば早く早くと暴れ出し、私が出ていこうとすると遊べ遊べと喚き出す。アビーと生活していると、本当に子育てをしているような感覚になる。本当ならぎゅーっと抱きしめながら
『あぁ〜…アビーちゃん可愛いよぉ…』
とか言いたいのだが、というか前は言ってたのだが、前述の通りドアの防音性が失われているため、過去に溺愛の事実が発覚した事例がある。その際はもれなく与音から
『茉晴…お前……えぇ…』
と死ぬほどドン引きされたので、二度とやらないと決めているのだ。…いや、二度とやらないわけではないのだが、なるべくサイレントにするようにしている。何となく週刊誌に報道されないように恋愛する芸能人の気持ちが分かる気がする。
「あぁ〜可愛い…」
アビーに癒やされながらも、院生としての務めを果たさなければならない。私は主に鳥の目について研究している。烏を始めとする動物には瞬膜と呼ばれる、瞬き専用の瞼のような物がある(殆どの哺乳類は退化している。残念)。これのお陰でいちいち瞼を閉じなくても瞬きができる上に、半透明なので視界も遮らないというスゲー代物なのだ。しかし烏の瞬膜は透明というよりも、白く濁ったコンタクトレンズに近いので、見えているかどうかが怪しいのだ。そこで瞬膜が閉じている時と開いている時の視力の差を調べて論文に纏めることにしたのだ。古典的条件づけやらなんやらで調べようとしているのだが、アビーが白変種の烏という世界でも稀に見る個体なので、色んなところから引っ張りだこなのである。移送にはストレスが掛かるので決して頻度は高くないが、研究を邪魔するのには十分である。
「心拍三百五十二…はしゃいでたからだな。」
手元のリストに健康状態を書き入れていく。もう一年近く続けてきたのでお互いに手慣れたものだ。
「よし、ありがとう。今日も大人しくして偉いぞ〜。」
茉晴が首を撫でると、目を瞑ってされるがままになっている。アビーが満足するまで撫で回すと、一度飼育室を後にする。研究室では与音がパソコンでレポート作成を真面目にこなしている。ここの悪しき風習であるレポートの手書きを廃止し、データ提出を採用した神か仏のような存在が朱川教授である。提出期限までに腱鞘炎必至だった頃に思いを馳せれば涙を禁じ得ない。
「ラジオ付けていい?」
与音は片手でOKサインを出した。もちろん研究室にテレビなんてあるわけがなく、引き籠もっていると外部の情報が一切入ってこないので、いつもはラジオで情報を得ているわけだ。
「――れではラジオネーム寝落ち昆布さんのリクエストで、コマ切れ☆SUMMER」
赤い三角のラジオからいかにも平成な音楽が流れ出し、無言の空気を埋めてくれるというメリットがあり一石二鳥である。リュックからタブレット端末を取り出して前回の実験をまとめる続きをしていく。それにしても眠い。リュックから水を取り出そうとしたら欠伸が出た。このまま寝落ち昆布になる前にいつものアレをすることにした。
研究室の東側の窓を開ける。コの字型の建物に囲まれているグラウンドを見下ろせる場所だ。窓の外の空気を胸一杯に吸い込む。腹の底に力をためて、一気に吐き出す。
「子持ち昆布食わせろー!!!!」
向かいの棟に反響して気持ちよいこだまが吹き抜ける。言いたいことも言えたし、眠気も吹き飛んだ。これこそ一石二鳥である。
「そんな事ばっかやってるから鳥研は変人の集まりとか言われるんでしょ。」
「何を他人事のように言ってるんだい?」
「あ?」
『イライラせず、安全運転を心がけましょう。正午です』
ポーンという間の抜けた音が部屋を満たす。与音のヤクザな一面も見ることができたので、早速レポートに取り掛かろうとしたその時だった。
『正午のニュースです。野生動物の増加による被害が相次ぎ、府は野生動物を減少させる方針を固めました。』
鶴の一声が鳥研に電撃を走らせる。喧嘩腰だった二人は目を見合わせて、ニュースに聞き入った。
――京都
「子持ち昆布食わせろー…!」
今日もこだまする叫び声が聞こえる。相変わらず何を言ってるかは分からないが、この交差点付近を活動領域としている私には騒々しいを通り越してもはやルーティンとなっていた。いつも同じ時間に聞こえるので、最近では時報代わりになっていた。
「もう南中か。」
目を閉じて瞑想する。ミディは“曹長“と呼ばれていた八年前からは考えられないほど大人しく、ひっそりと暮らしている。南中を数える度に死期が近づくのを感じ、ただその時を待つだけの毎日。左翼には羽も生えない大きな傷があり、飛ぶことさえ困難な中で八年も死に損なってしまった。大した未練もないくせに、怖くて死ねないとは情けないことだ。こうやって生きていると、死そのものが怖いのか、死に恐怖する過程のほうが恐ろしいのかが分からなくなってくる。死とは矛盾そのものだ。そしてそろそろ決着をつけなければならないことも、老いた身体で感じていた。
「未練か…」
最後にやりたいことを考えても出てこない。考えるのが苦手なのは老いても変わらなかったらしく、まず行動するのがミディの性に合っていた。そこでやりたいことを探して、それをやりきったら死のうと決心した。“無計画なくらいが丁度いい“が彼の信条だった。重い腰を上げて、思うように動かない翼を羽ばたかせる。今日は左翼の調子がいい。若い頃の感覚を取り戻した気分だ。曇り空から差す晴れ間を目指して、上へ上へ向かった。最期の旅立ちを告げるように。
この街は比較的緑が豊富で、争い絶えないゴミ漁りをする必要がないというメリットがあり、隠居にはもってこいだった。ここら一帯で目立つのが、あの白いコの字型の建物だ。あの辺りからいつも叫び声が聞こえてくる。好奇心の赴くままに叫び声の出どころを求めて飛んでいく。他の建物と異なり屋根が傾いておらず、人間が居たりする。中を覗けそうな窓を見つけると、その近くの木に留まって中の様子を伺う。これを三つの窓で繰り返すと発見があった。白い服を着た人間が多いことだ。八割は白服で、会話をしているのが多い。白が好きな人間の集まりなのかは知らないが、今の所は謎が謎を呼ぶ状態だ。ミディはこの建物を“白城“と名付け、他の窓を観察することにした。
十四つの窓を回ったが、どれも白服の作業場だった。しかしこの十五個目の窓は違うようで、内側に緑のネットが見える。その奥にはなんと烏がいるのだ。そして驚くことに烏まで白色と来た!これには流石に呆れた。白好きにも程があるだろう。まさか白服たちは烏を白色にする集団なのか?ミディはすっかり童心に帰ってこの謎解きを楽しんでいた。羽の痛みも忘れて窓枠に座る。白烏は容器の中の粒を食べている。くちばしで窓を叩いて訴えかけても食事に夢中で気づかない。不用心なものだ。強めに三回叩くと、やっとこちらに気づいて飛んでくる。しかし窓のせいで何と言っているか分からない。白烏は窓の金具を弄っているが、こんな幼子では開けることは叶わないだろう。
カチャ
「おじさんだれ!?!?」
あっさりと開いた。甲高い声で耳が痛い。大きな黒い目を輝かせてこちらを見つめてくる。
「お、おい落ち着け!バレるだろ。」
「あっ、ずっと誰とも会わなかったからつい…で、おじさんは?」
「通りかかったらお前が見えてな。人間に捕らえられてるんじゃないかって。」
「あはは!ぜーんぜん違うよー。ここで一緒に暮らしてるの。」
雷にでも打たれたかのような衝撃が走った。一緒に?暮らす?人間と!?
「な…何言ってんだお前。何か…酷いこととかされなかったか?」
「まっさかぁ!!」
あっ、といった様子で口を閉じるがもう遅い。扉の奥から物音が聞こえる。一緒に暮らすという人間なのだろうか。
「そうだ!私アビー、おじさんは?」
「…はぁ?」
またもや奇襲を受けた心地だった。烏は安易に名前を伝えない。同族を食らうときは名前の知らない者の死体だけを食う、という文化があるが故によほど親しい者にしか名前は伝えないのだ。が、アビーはそれを初対面で名乗り、私に名乗り返せと言う。非常識にもほどがあった。
「…もうおじさんでいいや!おじさんまたここに来てくれる?お話する相手がほしいの!お願いっ!ね?ねっ!」
「分かった!分かったから今は窓を閉めろ!人間が来るぞ!」
「ありがとおじさん!!」
勢い良く窓が閉められる。ほぼ同時に扉から白服が出てきた。ミディは逃げるように近くの木に留まると溜息が出た。全く、嵐のような少女だった。先程までいた窓を見ると、白服と白烏が戯れている光景を写している。あり得ない。人間と暮らしているというのは本当だったのか?何一つ常識が通用しない懐かしいこの感覚。あいつによく似ている。アビーによって掘り起こされた記憶が、ミディをまた一つ過去に引き戻した。
――東京
寝蔵につく頃には日は落ち切り、群れの皆はもう眠りについていた。この公園の木の上がコルクたちの寝蔵である。一羽が羽音に反応して目を覚ますと、目を見開いてこちらへ飛び寄った。
「お前!帰ってきたのか!」
「…あぁ、遅れてすまない。」
騒ぎを聞きつけた者たちが自分の帰りに気づく。遅くまで帰らなかったことで皆に心配をかけてしまった。しかし、しばらくするとその“皆“の中にメイルがいないことに気がついた。
「…あいつは?」
「それが…俺たちはてっきり、お前と一緒に帰ってくるもんだと思ってたから…。」
正直、帰ったらメイルにどう接しようか迷っていたせいで遅くなったのだが、いないとはどういう事なのか見当もつかない。
「なぁ、もしかしてあいつと…何かあったのか?」
皆は自分とメイルの関係を知っているが、昼の出来事は知らない。昼に何かあったのではないかと考えるのが妥当だ。言わなければならない事は分かっている。でも言える訳がない。自分の頭の中でさえ何故?でいっぱいいっぱいなのに、説明なんてできっこない。なぜ彼女は自分を振ったのか。なぜ彼女はここにいないのか……自分に二度と会いたくなかったから?自分といる時間が苦だったから?自分のことが嫌いだったから?
「…僕のせいだ。」
自分が彼女を幸せにできると思い込んでいただけだった?ただの自己満足だった?自分が迷惑だった?自分が浮かれていた?
「…僕が探す。」
皆のどよめきも、呼び止める声も、溢れる涙も全て振り切って飛び出した。今はただ遠くへ行きたかった。自分が出会わなければ彼女は幸せだった。自分がいなければ彼女は居場所を奪われなかった。自分さえいなければ彼女は泣かなかった。自分が、自分が死ねば――
ただ叫んだ。滲む視界が世界の境界を溶かしていく。眼前の鉄塔を眩ませ、翼が柱に絡まり、落下していく。
「僕が死ねばよかった」
鉄塔の頂上がみるみるうちに離れていき、ついには藍色の闇と同化する。月光を携えた無数の滴が、夜空へ落ちていった。
――京都
今日は研究室に泊まり込みだったので、実験後もたっぷり話す時間があった。いつもは三人で他愛もない話をしているのだが、今回は良い話題がある。昼間のニュースで流れたアレだ。
「野生動物の数を減らす方針…ですか。」
奏奈は眉をひそめてそう言った。唯一の後輩である彼女が我々に対して表情に感情を出すことは珍しい。
「“駆除“ではないのですよね。」
「それは愛護団体が黙っちゃいないよ。…まぁ今も黙ってはいないだろうけど。」
与音が結構踏み切った事を言うので、思わず二人で苦笑する。
「つっても具体的には何すんだろね。」
「野良猫なら餌やりの規制強化とか、虚勢手術の推進とかかな。」
「でも今回はそんな可愛い話じゃないんだろ?」
与音が足を組んで言う。
「猪に鼠、それから…鳩とか烏らしいし。」
鳩という単語に奏奈が反応する。彼女は普段鳩を研究しており、やはり思い入れがあるのだろう。そして烏もとなると、原因は糞害と予想できる。
「猪の被害は最近のニュースでありましたけど、本当に減らす必要はあるのでしょうか…。」
「動物防護柵とかで防げる動物と、そうじゃない動物がいるから、一概にどうとは言えないかな。」
「鳩とか烏を減らすってどーすんの?」
「烏ならゴミ捨て場に囲いを設けて餌そのものを減らすって手がある。まぁ植物も昆虫も食べるから個体数を減らすよりも都会から出ていってもらう目的かな。」
「鳩も餌を減らせば良いと思いますが…。」
奏奈と考えていることは同じかもしれない。そう簡単に烏や鳩が都会から出ていくかは分からない。なぜなら
「森には猛禽類がいますから。」
体が大きい猛禽類にとって都会はビルが多く、気流も乱れる上に、狭い場所が多くて動きにくい。都会に住めば、単純に猛禽類に襲われるリスクが減る。そんな土地を彼らが容易く手放すわけがないのだ。
「どうしたもんかねぇ。」
与音が舐めていた飴を噛み潰すと、無機質な音が部屋に響く。顔を上げた奏奈はこう言った。
「虚勢手術って鳥類にできるんですか?」
「確かに。ちょっと調べてみる。」
調べてみるといくつかの前例があるようで、京都府でも野生の烏の虚勢手術をした記録が残っていた。
「虚勢ね…“駆除“とどっちがマシなんだか。」
本能に生きる動物にとって、生殖活動は生きる理由そのものである。それを奪われるというのは死よりも重いことなのか。生きる理由を失った生物は生きていると言えるのか?
各々考え込んでいるようで、飴のボリボリと砕ける音だけがいつまでも鳴っている。
「寝るかぁ。」
大きな欠伸をしながら研究室から出ていく与音の自由な姿を見ると、少し羨ましくなる。奏奈は律儀に与音の分まで長机の下に椅子を仕舞い、部屋を出る。
「鍵は私が仕舞っとくから。」
「あ、ありがとうございます。」
彼女は礼をして出ていく。誰もいない研究室で独り、与音の言ったことを反芻する。
『虚勢ねぇ…“駆除“とどっちがマシなんだか。』
何のために生きるのか。生きがいが無くなれば死ぬのと同義なのか……結局その時にならないと分からないのだろう。今くよくよ考えても仕方ないと割り切り、消灯した。
――東京
思考がゆっくりと、胎動するように流れ、次第にはっきりしてくる。最後に何があった?鉄塔から落ちて…飛び起きて、真っ先に自分の体を確認する。
「生きて…る」
見上げると鉄塔の全体像が見える。ここは落下地点らしい。辺りには深い森が広がっていたが、ここだけが平野に切り拓かれていた。
「随分お寝坊なハシボソさんじゃないか。」
声の方向には小さな鳥がいる。焦げ茶色な体、お腹に白の小さな水玉模様があり、とても小柄だ。頭頂には白い稲妻のような模様があり、尾とくちばしの形と、自分のことをハシボソガラスと言う事から、同族だと判断できる。
「とっくに日が昇ってるぜ。」
言われてみればもう朝日が森から顔を出し切っている。ここに落ちた時から眠っていたのだろうか。
「君が助けたのか?」
「まさか。俺はただの第一発見者だよ。鉄塔にぶつかって、食べてくださいと言わんばかりに平地で寝てたぜ。鷲に食われなかったのが幸いだな。ほら、食え。」
そう言って小さな緑のウリを自分に渡した。空腹は正直なもので、感謝も二の次にしてウリに飛びつく。ほんの少しの水分が喉に行渡る。
「食いしん坊なハシボソさんよ。都会から来たのか。」
「…そうだ。」
「逃げてくる理由があったのかい。」
逃げるという単語に複雑な感情を覚えたが、間違いではないので否定できない。
「俺は別に悪かないと思うぜ。あんたのことは何も知らないがな。」
「…なんでそう言い切れる?」
「逃げるのは数ある決断の一つに過ぎない。誰かが決断した事は、外野には咎められないってことさ。逃げた後の事はさておきな。」
自分は確かに逃げた。皆に説明する責任から逃げた。受け入れたくない現実から逃げた。昨日の出来事を思い出すだけで心が締め付けられる。独りで考えることなど出来なかった。
「…振られたんだ。何も説明されないまま、何処かに行った。僕のせいで彼女は苦しんでいた。気づかなかった馬鹿が僕だ。」
話していると、自分の思い込みだった部分が明らかになってくる。メイルは振った理由なんて一言も言っていないのに、自分の中で捏造していただけだった。彼はその小さな体で成る程と頷き、問いかける。
「その彼女さんをこのまま諦められるのか?」
果たして自分は彼女を諦められるのだろうか。メイルは自分の生きる理由だった。彼女に二度と会えないならば、死んでいるのと同義だ。
「…無理だよ。諦められるわけない。何も知らないままなんて嫌だ。」
「なら、納得するまで追いかけるのも決断の一つだ。俺はそれを止めないぜ。」
死ぬにはまだ早い。せめて、なぜ自分では駄目なのかを聞き出してから死にたい。全ての何故?を明らかにしてから死にたい。
「何から何までありがとう…彼女を追うよ。どんな結末でも追いかけ続けてみる。最後に……名前を聞いてもいいか?」
彼は小さなくちばしで満足そうに頷くと、
「俺はシックルだ。その答えを待ってたよ。」
と残して大きな背中で歩いていく。自分は遠くに見える都心へ戻ることにした。
シックルはコルクが森から飛び立ったのを確認すると、振り向いてコルクの落下地点を見てこう言った。
「どうやらあいつは死のうとしてたみたいだが、俺はその決断を咎めちまったみたいだな。」
落下地点にはシックルが巣作りのために貯めておいた木屑の山があった。
「…決断を咎めるのも決断か。」
――京都
「研究室に電子レンジ置いてくれー…!」
叫び声の時報が聞こえる。今日も南中が来てしまった。昨日は結局、叫び声の原因は解明できなかったが、アビーに会っただけでもう冒険はお腹いっぱいだ。そしてまた来いと言われたわけだが、老体に毎日白城と寝蔵を往復しろというのは酷な話だ。それでも懐かしい感覚がミディを若返らせる。アビーを放っておけないという使命感がミディを空へ飛び立たせた。
慣れた様子で窓を開けるや否や
「おじさん!」
と叫ぶ。白い体には泥の一つも付いていない。
「約束守ってくれたんだね!」
「声落とせ。また中断されたいのか。」
「あっごめん。」
緑のネット越しのアビーは閉じ込められているようにしか見えないものの、ミディよりもよっぽど生き生きしている。
「なぁ…聞いていいか?」
「なぁに?」
「体が白いのは生まれつきか?」
「そーだよ?小さい時はみんな白いんだと思ってたけど違うんだねー。」
「そ、そうか…人間と暮らすのは楽しいか?」
「え。うん。人間がいない暮らしを知らないけど、毎日楽しいよ?」
「…そうか。」
何もかも周りと違うのに、それを堂々と自分であると表明してみせる。やっぱりアビーはあいつそっくりだ。
「おじさんはどう?どこで誰と暮らしてるの?」
「独りだよ。すぐ近くに住んでる。叫び声が聞こえる位近い…」
そうだ叫び声だ。あの叫び声のことをアビーは知っているのだろうか。
「叫び声?マツハルの事かなぁ。あ、マツハルっていうのは私と一緒に暮らしてる人間なんだけど、いつもお昼に叫んでるよ。マツハルいっつも朝ごはん遅れるの。たぶんおっちょこちょいなんじゃないかなぁ。」
「…」
なんか急に全てが馬鹿馬鹿しくなった。アビーの飼い主が昼に叫んでる?もっと壮大な謎が隠されているのかと思いきや、真相はかなり下らなかった。知りたかったことはこれで知ったのだ。未練は、未練もう…。
「おじさん?ねぇー。聞いてる?」
アビーがいる。白くて、人間と暮らしていて、非常識で、それを堂々と語る。
「おーい?おじさーん。だいじょぶ?」
「あ、あぁ…お前がぶっ飛んだ事しか言わないから目眩がしてきたよ。」
「えー、そんなに変なこと言ったかな…。」
そうだ。目の前に謎そのものみたいな存在がいるではないか。ミディはいつしかアビーについて知りたいという、未練が出来ていた。これは当分死ねないな、と心の中で苦笑しながらアビーの話を聞いていた。ここ八年で最も充実した時間だった。
――東京
東京のビル群に戻ったものの、群れの皆に顔を合わせられる自信も資格も無かった。メイルから全てを話してもらうまでは帰らないと決めたのだ。彼女の行き先の手掛かりを掴めそうな場所。コルクが知る限りではここしか無い。街のど真ん中の神社に住む、メイルの叔母を尋ねることにした。メイルは京都から東京の叔母の元へ引っ越してきたと本人から聞いた事があった。もしかしたら彼女は叔母の所にいるかもしれない。
街のど真ん中の神社といえばここしかない。建物と建物の隙間を縫うようにある小さな神社が灰色の街に彩りを添えている。小さな木が三本並んでおり、その枝に烏が留まっていることが確認できる。その隣の枝に降り立つが、眠っているようで気づかない。もし自分が天敵だったらどうするつもりなのだろうと心配になりながら、そっと呼びかける。
「お邪魔してます。お聞きしたいことがあるのですが…。」
叔母はゆっくりと目を開けると、ようやくこちらの存在に気がついたようで、ゆったりとした口調で言う。
「珍しい。お客様なんて何時ぶりかしらね。」
こちらに顔を向けた時に初めて気づいた事があった。右目が白く変色し、涙が流れた軌跡のように傷跡がある。
「ごめんなさいね。もうついばむ物さえ用意できないのよ。右目はもう見えないし、左目は色が分からないの」
「いえ、そんな…。」
羽は黒というよりも白に近い灰色で、燃え尽きかけの灰を連想させた。
「私に用があるのかしら。それとも旦那?旦那ならもういないわよ。この世にね。」
「いえ、貴女に聞きたいことがありまして。メイルさんの居場所をご存知なら教えてほしいのですが。」
「メイル……名前を知ってるってことは、あなたはあの子の、旦那さんなのかしら。」
「いえ……仲は良かったのですが…振られました。彼女はごめんなさいとだけ言って、何処かへ行ってしまいました。」
言葉にすると事実はより鋭さを帯びて、自分に帰ってくる。
「そう…。初めに断っておくけれど、私はあの子には会っていないし、どこへ行ったかは知らないわ」
それを聞いて少し落胆したものの、彼女はすぐに続けた。
「その代わり、あの子の話をしないとね。」
彼女の深い溜息が都会の喧騒を切り離す。静かに、記憶を辿るようにこう語る。
「あの子はね、子どもを産めないのよ。」
木々のざわめきだけが二羽の間を通り抜ける。彼女は嘆くようにこう続けた。
「産まれて一年もしない内に人間に攫われて、一週間後に帰ってきたと思ったら子どもを産めない体にされていた。初めて聞いたときは言葉も出なかったわ。」
相槌どころか、身動ぎすらできない。有っていいのか、そんな事が。
「…自分がされた訳じゃないのに、話すだけで辛いわ。あの子自身どんなに辛いのか、計り知れない。」
何も知らなかった。彼女も本当は番を見つけ、幸せに暮らしていたはずだった。彼女の苦しみに気付けなかった。彼女を傷つけた。でも、どうすれば良かった?彼女が傷つかない方法などあったのか?
「いい?絶対に自分を責めちゃ駄目よ。誰も責めちゃ駄目。こうなることは止められなかった。受け入れられないなら、あの子からは離れなさい。下手に追いかければ、お互いに傷つくだけよ。」
それは何よりも残酷な言葉だった。残酷な分だけ、どうしようもなく正しい言葉だった。何も返せないまま、時間が過ぎ去っていく。コルクは一つ、ぽつりと落とすように呟いた。
「………僕では、無理なのでしょうか。」
二つ三つと溢れる涙は頬を伝っていく。自分を見つめる白と黒の目が、真っ直ぐに言葉を受け止めてくれる。
「…あの子には支えてくれるパートナーが必要よ。家庭を作るだけが、パートナーではないわ。」
自分はメイルと家庭を築きたかった訳じゃない。ずっと一緒にいたかっただけだ。一緒にいるだけでどんなに下らない毎日も楽しくなる。今日も生きることができる。
「それでも一緒にいたいです。」
涙混じりの声で彼女に言った。そんな
自分が情けなくってしょうがないのに、一緒にいる資格なんてないのに、その言葉が出てきた。
「子どもを産めないことと関係なく、隣りにいてほしい。」
自分の意志がようやく理解できた。彼女と一緒にいること。それこそ自分の生きる理由であり、存在意義だと心に刻んだ。叔母はコルクの言葉に俯いた。
「あの子独りに背負わせるつもりはないけど、あなた独りに背負わせるつもりもないわ。辛ければいつでも戻ってきて、話して頂戴。私が生きていればの話だけれど。」
「……ありがとうございます。」
「あなた名前は?旦那さんになるなら聞いておかないとね。」
「コルクです。」
彼女は目を閉じて微笑んだ。それは包まれるような暖かい笑顔だった。
「コルクさん。あの子を宜しくね。」
叔母は大きく息を吐くと、そのまま眠ってしまった。都会の音たちが流れ込み、現実に引き戻される。これで終わりではない。メイルの行き先の手掛かりを探さなければならない。コルクは涙を振り落して飛び立った。そこは日暮れの東京。烏も人間も一様に闇へ飲み込んでいく。
――東海道
「ただいま。」
玄関の明かりは消されており真っ暗だ。返事がないのもいつも通り。廊下を照らすのはダイニングから差し込む光だけだ。それを無視して二回の自室へ上がる。荷物を置くと、ベッドに倒れ込む。朝から晩まで実験とレポート作成に追われていたせいで、首の疲労感が取れない。駅から歩くだけで足も痛くなる。ベッドから離れたくない。しかしまだやることがある。一階のダイニングまで降りて扉を開ける。奥のキッチンには母がいた。しかしこちらには見向きもしない。部屋の隅には鳥籠があり、中に黄色のインコがいる。家で飼っているインコのパットだ。パットはまだ父がいた頃に家に来た。自分と両親とパットの三人と一匹でそれなりに幸せなはずだった。しかし父がいなくなる少し前から両親の仲が目に見えて悪くなり、父がいなくなって以来、母は自分を無視するようになった。といっても家の外では普通に振る舞うし、食事も作る。学費も出してくれるし、何か要る物を言ったら次の日には机の上に置かれている。ネグレクトなのかどうか怪しいという点でたちが悪いと言えるかもしれない。しかし、自分のことを嫌っているというよりかは、関わりたくないといった感じだ。今ではこれがこの家庭の日常である。パットに餌をやり終えると、テーブルには夕食の竜田揚げが並んでいた。
自室でSNSを見ていると、階下から玄関の扉が開く音が聞こえた。母の夜中の外出も日常となりつつあった。行先はおよそ見当がつくが、それでも新しい男が来てまたあの頃に戻れるならと考えていた。どうせ戻った頃には社会人だろうが。スマホの電源を落とし、風呂場へ向かう。今日はやけに静かである。服を脱ぐ途中で気づく違和感。母の歯ブラシがない。切れかけた蛍光灯がちらつく。コップの中には、青い歯ブラシ一本だけが取り残されていた。
――京都
まだ日も昇っていない褪せた青の空を、ミディは飛んでいた。向かう先には白城。窓枠に降り立つと、ぐっすり眠るアビーが見える。強く三回ノックすると寝ぼけ眼でこちらを一瞥し、覚束ない翼で飛び寄ってきた。
「ふぉぉじさぁん…どうしたの?まだねーむいんだよ…」
「おい、ここから逃げるぞ!」
「…………ん?」
ようやく言っている意味を理解できたようで、動揺が声と目に出ている。
「えっ、えっ、何で?」
「奴らがそこら一帯を嗅ぎ回ってる。白い烏を探しているらしいな。」
「……えっとー、"嗅ぎ回ってる"ってもしかしてワンちゃん?」
危機感の無さも誰かさんにそっくりだ。しかしふざけていられるほど事態は芳しくない。
「『茜灯』だ。残念だが、今は説明してる暇はない。このネットを切らないと…。」
「切るってどうやって?」
「それを今から探すんだよ!」
"考えるよりまず行動"なミディに策などあるわけもなく、アビーが慌てて部屋の中で使える物を探しているのを見守るだけである。見上げると、二人を急かすのように夜が開けていく。
パリン
硝子が割れる音がした。地面に何かが落ちた衝撃で壊れたらしい。
「これ使えるかな?」
アビーはガラス片を咥えてネットに押し当てる。
「お、おい、怪我しないように落ち着いて焦れよ…。」
ブチッ
緑のネットは徐々に繊維に分解され、果たして縦糸を一本切ることに成功した。
「よしっ!でかした!縦と横に二本も切れば通れる!」
そう言って振り向くと、遠くの電柱の上に黒い影が認められる。こんな時間に起きているのは追手だけだろう。しきりに辺りを見渡しているで確信できた。
ブチッ
二本目が切れる。雲に青白い亀裂が入り始め、二羽の姿が徐々に光を帯びる。アビーの白い体が見つかるのも時間の問題だった。
ブチッ
三本目。アビーは覚えが早く、切るスピードが見るからに上がっている。それでも四本目が切れるまでには悠久の時を感じた。
ブチッ
「切れた!」
「よし!出るんだ!早く!」
四本切ったとは言えど、最低限の大きさである。狭い穴に身体をねじ込んで進む。
「うぅ…狭い…」
やっと身体が半分外に出たという時だった。
「こっちだ!いるぞ!」
後ろの木陰から声がしたと思えば、眼の前で黒い羽が舞った。真上には胸に茜色の羽根をつけた烏が飛び上がっている。掴みかかって来たそれを飛んで躱し、逆にのしかかるようにして掴む。絡まりあった二羽は黒い一つの塊となって地面へ落下していく。
「出れた!!」
上からアビーの声がした。見上げると、白い羽が煌煌と光る烏がいた。あれでは一目瞭然だ。さらにミディの方へ向かって来ようとしていたので
「そこから離れろ!後で追いつく!」
と言って、眼の前の問題に対処することにした。地面は目前。茜灯の刺客が下になる形で落下する。ドスッと音を立てて着地する。
「がはっ…!邪魔だ…。」
「そりゃ奇遇なこったな。俺も同じことを考えてた、よっ!」
行かすまいと絡みいてくる足を振りほどいて、アビーを探しに飛び立つ。先程の衝撃で左翼が痛む。さてどうしたものか。後で追いつくとは言ったが、場所がわからないのでは追いつくに追いつけない。無計画の悪い癖がモロに出ている。このままではアビーが……参って天を仰ぐと、上空には黒い影の群れが西へぞろぞろと飛んでいた。奴らがアビーを追っているのなら、付いていけば合流できるはずだ…奴らも見失っていなければの話だが。
茜灯。十八年前に結成された、胸に茜色の羽根を身に着けた集団。主に腕の立つ烏が集まり、群れの自警団のような役割を果たしていたのだが、それは今も昔。八年前に初代頭領が亡くなってからは方針が変わり、府内で暴力的支配を行う組織へと堕落した。茜灯とこんな田舎で遭遇するのは珍事であり、逆に言えばアビーの居場所がこの近辺にまで絞られていたということでもある。そしてアビーをつけ狙う理由もなんとなく分かった気がする。朝日はその全身を遠くの山から出し、前方を飛行中の茜灯とミディを照らしている。そして眼下には人間が数人固まって歩いている。こんな時間に人間が活動するのは珍しい。ここらを嗅ぎ回っているのは何も茜灯だけではないようだ。
「助けて!!!」
もう耳に馴染んだ甲高い声。アビーのものだ。前方の集団も次々に降下していく。奴らが降り立った道路脇には一羽の白い小さな烏と数多の黒い烏。それらは一つの烏珠となって飛び立ち、朝日を背にして進む。千切れんばかりの羽音のさざめきが、まだ目覚めたばかりの街を包んだ。
――京都
白い扉を開くと、そこにはいつもの三人の顔ぶれがあった。しかし表情は暗く、何も言わない。今日は遅刻もしていないはずだし…いや、まさか私、遅刻ですか?と聞いても返答が帰ってこない。どんな事でもズバッと切り出す与音が躊躇うような内容が想像できないし、奏奈も心なしか顔に悲しみを浮かべている。これが所謂、嫌な予感というやつなのだろうか。口を閉じていた朱川教授がこちらに向き直って低い声で私に告げた。
「茉晴君。アビーのことなのだがね……今朝確認したら、飼育室にいなかったんだ。」
思考も身体も否定していた。そんな訳無いじゃないか。今もボロボロの扉の向こうで餌を待ってるはずだ。足は飼育室に向かっていた。荷物も降ろさずにノブに手を伸ばした。いつもならあり得ない程の静寂に扉を開く音だけが響いた。
最悪の想定と現実が一致したとき、それは悲壮、疑問、苦痛を伴い、喉につっかえて嗚咽へと変わる。違う、違うと頭の中で唱え続ける。思考の底まで埋め尽くされた"違う"は"嫌だ"に変わっていく。こんなはずはないと反芻する度に、千切れたネットの緑色と開いた窓の外の空色が鮮明になる。床にはガラスが割れた物が飛び散り、誰もいない留まり木と自分の間に秋の風が吹き抜けた。床から拾い上げた物は二つの写真立て。自分と両親の三人全員が写っている唯一の家族写真と、茉晴の肩にアビーが乗っている写真。ガラスで切れた指が血を流して泣く。どちらの写真立てにも、引き裂くように放射状の亀裂が刻まれていた。
――東京
「お、おい!帰ってきたぞ!」
後ろめたさを引きずりながら群れに帰ってくると、明るい声と共に皆が飛び寄ってくる。心配する声や安堵の溜息を聞いてなお、自分は合わせる顔がなかった。帰らないと決めたはずなのにまた仲間に頼ってしまった自分を激しく恨んだ。まともに目を合わせられず、俯きがちだった時、誰かがこんな事を言った。
「二羽も帰って来たんだから、こりゃあメイルも帰ってくるに違いないぜ。」
そのもう一羽というのが誰か気になる。苦悩に苛まれながらも顔を上げると、そこには懐かしい顔があった。
「ひっさしぶりだな!帰ってきた時はコルクがいないって聞いてもうぶっ倒れそうになったよ!ついさっき帰ってきたばっかりだがな。まぁ帰ってきたから良しとして、面白ぇ話たっくさん持って帰ってきたからよ。何があったかは後にしてお互いに語り明かそうぜ?な?」
陽気な性格。青っぽい黒の羽色。クラクラするほどの饒舌の持ち主、ニコエルだ。一ヶ月周期で東京と京都間を往復し、旅をしながら話のネタを掻き集めて旅先の群れで語ることを仕事とする、いわば吟遊詩人のような奴だ。コルクは彼が旅烏になる前からの友だった。
「今回もマジでエキサイティングだったぜ?茜灯とか言う奴らにつけ狙われたり、空からおかきの雨が降ってきたりしてなぁ。」
嘘つけという笑い声が口々に飛び交う。彼の語りを聞いていると、自然と心を開けられる。
「あぁ、もちろん話したいのは山々なんだが…メイルを探さなきゃ。」
「あれっ、お嬢さんは何処かへ行ってしまったのかい?」
そうだ。未だ居場所の手掛かりを掴めていないのだ。概要をニコエルに話すと、彼が興味深い事を言った。
「ん?そういやお嬢さんに似たべっぴんさんと道中すれ違ったぜ。そん時はそっくりさんだなぁで終わったけどよ。まさか…。」
まさか、メイルは京都の方面へ向かった?あり得る。彼女の故郷は京都だ。道も分かるだろうし、両親を頼って京都へ帰ったのかもしれない。考えれば考えるほど確信に変わっていく。
「お前まさか、京都へ向かうつもりじゃないよな。あれが本当にお嬢さんだったっていう確証もないわけだし…お前、道分かるのか?」
彼が言うことは正しい。しかしそれでも追いかけなければならない、彼女がいる可能性が少しでもあるならば。
「…俺はどんな結末でも追いかけ続けるって決めた。彼女を一生支え続けるって決めた。だから……頼む。俺を京都へ連れて行ってくれ。」
無理強いにも程があった。三日の長旅を経て疲れている上に、仕事も果たしていないニコエルに、また京都へ行けと言う事がどんなに身勝手な頼みなのか。仲間に迷惑と心配をかけた自分が言える事でないのも承知の上だ。それでも頼まなければ、自分のの存在意義が消える。彼女がいなければ生きる意味が無くなる。絶対に無理だと分かっていても、やらなければならない時がある。それが今だった。
全てが静まり返った公園で、一生分の沈黙が続いた気分だった。ニコエルはこちらへゆっくりと近づいて、隣で立ち止まる。自分は目を閉じて下を向く。彼は無言で、コルクの背に翼を乗せた。
「旅烏である俺の仕事はお前たちに旅の記録を伝えることだ。俺の話で笑ってくれる瞬間が一番生きてるって感じる。でもな、俺は旅烏である以前にコイツのダチだ。お前たちに物語を聞かせられないのは悲しい。でも俺は仕事を優先してダチを見捨てる悲しい奴にはなりたくねぇ。分かってくれるな?」
彼のスピーチに歓声が上がる。ニコエルの方を見ると、彼は照れくさそうにこちらを見返した。
「俺は今から超愛妻家なダチのために、もう一度京都へ行く!誰か異論はあるか!」
彼がそう叫ぶと歓声は豪雨のように高ぶり、よく言ったという声が聞き取れた。コルクは嵐の中で独り取り残されたように突っ立っていた。
「これが証拠だ。お前は独りじゃねぇよ。」
ニコエルは春雨のように優しく語りかけた。
――京都
何年ぶりだろう、ここへ帰ってくるのは。どうせならもっと明るい理由で帰りたかった。眼下に構える鴨川を遡るように北へ飛ぶ。あの時のねぐらは残っているだろうか。両親は…多分もういないのだろう。東京へ引っ越したあの日から、両親は消えた。多分私のせい。子どもが産めないことが分かると、群れの皆からの視線が変わった。私への被害は数えるほどだったが、両親への偏見と差別的な眼差しは今でも忘れられない。両親が私を守るために消えたのか、それとも私が両親を守るために消えたのかは定かではないが、今ではこれで良かったのだと思えるようになった。皮肉な成長である。
かつてのねぐらだった木は緑が少なくなりつつも、当時の面影をなんとか保っていた。楽しかった事も嫌な事もありのまま思い出せたが、しかし記憶にない物が枝にあった。トノサマバッタが枝先に串刺しにされている。串刺しという表現だけで気分が悪くなったので、目をそらすとその先にも串刺しの物があった。今度はムカデの幼体である。よく目を凝らせば、無数の枝に無数の虫や小動物が刺さっているのが見える。気味が悪い。悪天候も相まって、ここが何かの処刑場であるかのような感覚を受けた。早々にかつてのねぐらに別れを告げようとしたその時、頭上からチュンと鳴く声がした。
「キミ、だあれ?」
振り返ると、丸っこい体と大きな瞳をした可愛らしい鳥がいた。この処刑場とは似ても似つかない生物である。
「…メイルだ。なんでこんな所に?」
「ちょうどいいや。ボクとオ・ハ・ナ・シしない?おねがーい♡」
ひとっ飛びで懐へ潜り込んでくると、体を擦り付けて懇願してくる。こういう小鳥を見ると守りたくなる気持ちは分かるが、今は到底そんな気になれなかった。
「ごめん。急いでるから。」
「えええエエエェェ!!??」
絡みついてくる丸い毛玉を突き放して飛び立とうとした瞬間
「ざけんなよ…」
背筋が凍る。舌打ちのような音と共に恐ろしく低い声がした。あの小鳥から発せられた音とは到底思えない悪魔のような声。反応する間も与えられず、気付けば背後にいる。それは耳元で甘い声で囁く。
「キミも早贄にしてあ・げ・る」