転
《記憶》。土地の想い出。そこで過ごした人間たちの悲喜交々。
日々の営み。農耕。サトムギの黄金の穂波。狩猟。ハムラウサギの小さな足跡。採集。拾われた木の実。捨てられた木片。腐食し大地に還るもの。また生まれ出る生命と、それを喰って育つ生命たち……
クロボロの象徴を通じて、天高く飛び立ったドリュアスの思念は、時間の矢を逆向きにたどりながら過去の方角を探り当てる。魔法文明の科学を継承している教導会の神学理論とは異なり、時間の向きは一定ではない。むしろ最初は円環構造を取っており、過去をたどる道など、まるで用意されていないようにすら見えたものだった。
しかし円環は逆巻く渦として螺旋状にその時空の奥行きを示した。
年一回のお祭り。カザヨミサマ。
(風だ──)
煽る息吹き。生暖かくて乾いた流れ。常にいま/ここに向かってなだれ込む。熱烈な大気を全身に浴びて、クロボロはさらに高みへと飛翔する。
その眼は無数の生きとし生けるものを眺める絶好の景観を映し出し、四季折々の変化を捉える。色の変化は時の変化。やがて樹々の配置が、村落の灯りの有無が、風車の回る速度が、全ての《記憶》の土台となることを認知した。
(さて、件の術式の起動因は、と)
時空の構造がはっきりすれば、過去を遡るのも難しいことではない。
ドリュアスはまるで釣り糸で獲物を誘き寄せるように、巧みに過去を探った。
記録に拠らない過去──それは、百年前の祖先が感じたであろう風を浴び、囲んだ火の熱を想い、ともに喉を渇きを覚え、土の匂いを目一杯吸い込むことだ。
ちなみに記録に拠れば、ターシャ村の起源は古代魔法文明が建設した大工場で、風を原動力とした巨大な施設だったらしい。しかし暗黒時代を通じて無数の富と設備が略奪され、〈おぞましきもの〉の襲来から身を守ろうとした群衆が身を寄せ合ったころには、石壁と風車以外はろくに残ってなかった。
風車に関しては、長らく放置されたためにさびれてはいたものの、勤労修道会がその身を捧げて機構を修復し、再稼働した。おかげで村は辺境にしては珍しく堅固な構えを見せて、人口五百の大所帯を持ったのだった。
村長は代々里の寄り合いで決まる。任期は二年。その代替わりと節目で行われる祭りは、来年もまた豊かな風が来て、風車の羽根を回してくれるように祈るものだった。
つまり、〝カザヨミサマ〟とは「風読み様」だったわけである。
(風はクルクル、回るよどこまでも……)
童歌を内心で歌いながら、クロボロは時間の螺旋を上昇する。その天辺には黒い太陽が底知れぬ光を投げかける──
(おや、やっこさんそこにいたか)
太陽に見えたものは、実に醜悪な天の大穴だった。黒い大きな円が光を凝集したかと思うと、間伸びしていた螺旋を急に圧迫して潰そうとする。
過去への遠近法が失われ、神話の時間がやってくる。春夏秋冬の樹々の彩りが一箇所に重なり合い、咲く花と散る花がもつれあう。サトムギの黄金の穂が冬の雑草の中に埋もれ、ヌスビトハギに侵食を許した。そして遠くの丘では、隣り合う風車が左右別向きに羽根を回している。
過去が重ね合わされた写像の世界。
ここではあらゆる時刻が現在だった。
「おまえ、何者だ」
沼のほとりに男が立っている。面識はなかったが、一瞥してこの男だとわかった。
クロボロの化身を解いて降り立つ。背中に翼を残して、ドリュアスは肩を揉んだ。
「祓魔師だ。禁忌のわざに手を染めたな?」
「だからどうした」
「忠告する。やめろ。それはお前さんの手に余るしろものだぞ」
男はにやりと笑った。そんなつまらない言葉には意味がないと言いたげだ。
答えの代わりに手をかざす。とたんに《記憶》の中の空間がねじ曲がり、ドリュアスの手足を固定した。翼もついでにもぎ取った。あまりに唐突だったから、感覚を切断し損ねて背中に激痛が走った。
「これで手に余るだって? 魔術がこんなに使えるんだったら、あんたらの教えを守るいわれはなかったよ。こうして使われるのがいやだから、禁止したんだろ。権力者ってのはいつも背中に武器を隠してないとなんにもできないんだからな」
ドリュアスは背景に埋め込まれたまま、捩じ切ろうとする男の魔力に抗った。
「それとも、強すぎる力はおのれを滅ぼす、とでも?」
「ばかやろう。てめえわかってんだったらさっさとやめろってんだ」
「オランドだ。おまえの名は……ドリュアスというのか」
オランドはターシャ村の隣り村の豪族の子息だった。もとは病弱でおとなしい性格だと聞いていたが、その面影はすでにない。
魔術が捉えて歪めるのは、この世のことわりだけではないのだ。
「そんなに女に振られたのが嫌だったのかい、お坊ちゃんよ」
「……いや、もうそんなことはどうでもいいんだ。おかげで力を知ったんだからね」
沼の対岸に、エレンデールの影が立った。だれかを待ちわびているらしい。その様子から、どうもこの男が《記憶》を再生しようとしているのがわかった。
エレンデールが駆け寄ってしがみつく。その立ち姿はオランドのものではない。
「うわさは知ってた。だがこうもはっきりされちゃ、嫌んになっちゃうね。おれはとんだ笑いものさ……」
クスクス笑うやつがいる。陰でうわさを愉しむやつがいる。狭い村だ。どんなに口を噤んでも、人の悪い話は絶えず面白がられるものなのだ。
そんな人影が無数に浮かび上がって露骨に表情をあらわにしたかと思うと、パチンと泡のようにはじけて飛んだ。例の〝けもの〟に殺された人間と同じ手口の死に様が、記録の通りに再現されていく。
「だが、それでも愛そうと決めたのだ。まず手始めに、口さがない連中を皆殺しにしなけりゃ、な。おれはいい。だが、妻まで後ろめたくされては生活ができない」
「口はご立派。だがやってることはしょうもないぞ」
「静かにしろよ。せっかく物分かりのあるやつだと思って話をしてるのにさ」
「おい、いい加減にしてくれ。てめえの痴話喧嘩なんざ興味ねえっての。早く魔術の行使をやめないとろくでもないことになるっていうのをな──」
オランドは人の悪い笑みを浮かべて、さらにドリュアスの腕をねじった。グギリと音がした。たぶん現実の腕もやられたはずだ。激痛を堪えながら、やべえなと思った。
「もう知らないぞ」
案の定、それはすぐに起こった。
オランドの背後から亀裂が走った。神話的現在の終了。夢見る時間が終わり、現実におはようを囁かれる頃合い──
「なんだ、なんだこれ!」
やっぱりこいつは何も知らない。
「あーこれ、〝報い〟ってやつだ」
「〝報い〟?!」
「黒魔術ってな、たしかにすげぇよ。その気になりゃ空も飛べるし、人殺せるし、無理難題言ってもある程度どうにかなる。が、その分しっぺ返しが怖いんだよ。因果律は強いねがいには同じぐらいの代償を求める。だからわかってるやつは、黒魔術にむやみに手を出さない。なに支払わされるかわかったもんじゃないからな」
「そんな……!」
言う間にすでにオランドの背景が縫い目を破った後のように切り裂かれ、黒い無数の手が彼のからだを捕捉していた。もがいても離れない。術式はもちろん使えない。
「やめ、助け……ッ」
「すまんがそこまでやられると、おれにはどうすることもできん」
もはや断末魔の叫びすら、黒い手に塞がれて出せなかった。オランドがずるずると亀裂の奥に吸い込まれ、そのまま《記憶》の内側からの崩壊を招いてしまった。
ドリュアスはどさくさに紛れてオランドの術式を抜け出した。そしてもう一度クロボロのたくましい翼を思い起こして、崩れ去る時空の螺旋から、もといた場所へと飛び立ったのだった。