起
◎報告及び申請書
■報告:東部辺境ターシャ村近辺の魔獣出現の背景について
再誕暦七八五年、五の月(常若)に目撃された〝けもの〟は依然消滅せず。すでに付近住民二名が死亡、十四名が重軽傷を負った。聞き込み調査に拠ると「カザヨミサマ」なる土着信仰の祟りと目されている。しかし数件の確認と事象との関連から報告者はなんらかの黒魔術の行使と断定。級数は黒二式、空間型の術式であるものと推測する。
■申請
黒白式の行使許可及び《記憶》の編纂許可。
■報告者
氏名:ドリュアス・シギスムント
職位:祓魔師
位階:司祭(担当区域なし)
■申請者
同上
返信はただ一言──「可」のみ。ツキバミの黒い翼が届けた手紙は、あっけなく千切られて風に消えた。
ドリュアス・シギスムントは麻紐で束ねた長い黒髪を掻きながら、丘を背にするここ僻村の象徴とも言える風車の群を見上げた。石造りの土台、漆喰塗りの壁、そして見事な土木技術の精髄を集めて動く風車──どれもこれもが辺境には似つかわしくない。古代魔法文明の見識と手仕事の経験が脈々と息づいていることがうかがえた。
しかしかの文明が滅んでから一千年以上が経つ現今、その技術の本質は見失われ、要らない迷信と神話が濡れ手にタマビエの実を付けたように覆い隠されている。その傾向は中央から離れ、教導会の啓蒙から遠ざかれば遠ざかるほど強くなった。
ここターシャの村でも、その技術と知識は土着信仰という形でかろうじて残っているばかりなのだ。
「それで、司祭さま……」
村長が恐る恐る尋ねた。振り向くと、彼のうら若き娘も伴っているのが知れた。
ふうっとため息を吐く。風に砕けて散るような虚しい懸念である。
「生け贄なんざ、必要ないですよ。〝カザヨミサマ〟は、そこまで残酷な神さまじゃないはずです」
「しかし──」
「まあ待ちなさいな。我らが〝聖なる乙女〟は確かにその身を犠牲にしてこの世界を闇黒の淵から救い給われた。しかしそれは同じ悲劇を繰り返してはならぬという戒めも伴ってのことです。奇跡の手続きをたどったところで詮無きこと。われらはしょせん人の子であるということをゆめゆめ忘れてはなりません」
膝を立てる。作り笑顔もずいぶんこなれてしまったと我ながら嘲りの気持ちが隠せない。
「大丈夫です。産霊月の中頃──あのサトムギの畑が黄金に実るまでには、すべて終わります」
村長の顔は、しかし翳りを見せていたのだった。傍らで娘だけが後ろめたそうに目を逸らしている。その様子を見て、ああやっぱりねと思う自分もいた。
(しょせん神などおられぬのだ……)
背信の念とわかっていながら、そうだと感じてしまうのは、きっと自分の手が黒い血に染まり過ぎたからだろう。
この仕事を始めてから十年ぐらいになる。はじめのうちは正義の志に胸がはずんだものだったが、いまとなっては無数の闇を見過ぎてしまった。奇跡を騙る道化師や祟りを偽る詐欺祭祀など可愛いものだ。彼が過去に目の当たりにしてきたのは、血よりも穢れた村民間の内輪揉め、その成れの果てである。
人は忘れる生き物なのだ。
陰湿なしきたりや村八分、継ぐ子や水場をめぐった諍い……多くの風習が神や妖魔の名を騙って行われ、その本来のいわくを忘れ果てている。その上で助けてくださいと縋るのは、いつしか「だからわたしは悪くないんです」という言葉の、高等な言い換え表現にすら聞こえたものだった。
(自業自得だよ、ばかやろう)
すでにあらかた聞き込みは済んでいる。村長の娘エレンデールは若き身空で旅の詩人に恋をしていた。そして、昨年結婚したばかりの隣り村の若者とは半年前から別居状態。これで何があったかわからない方が野暮というものだろう。
しかし家が決めただけのありきたりな結婚であるなら、まだどうにかする可能性があったかもわからない。問題だったのは、男の方でも女を愛おしく想っていたということだ。実際エレンデールは非常に美しい顔立ちで、村娘であることを差し引けば市壁の内側に住んでも可愛がられる方なのだ。
かような娘を我が物とする喜びに対して、男の愛はあまりに世間知らずで無謀すぎた。
おそらく──とドリュアスは見当を付ける。この件、男が女を呪っていると見て間違いない。すでに起こった誤ちを認められず、その復縁を求めて人知れず黒魔術に手を伸ばした。差し詰めそんなところだろう。
黒魔術。
その響きはあまりにも負の魅惑を帯びていた。それもそのはず、森羅万象を知り地平線の果てまでを支配した魔法文明でさえ、「人智及不可能」と原理解明を諦めた正真正銘の神秘の術式──ゆえに不思議の象徴色たる〝黒〟を配置し、真理の光たる〝白〟と対置されている。名付けの背景はただ単に「正体不明である」というそれだけに尽きるのに、人の祈りや妄念はこの闇にこそ跋扈する。
すなわち、不可能を可能にする、奇跡を起こす、覆水こそ盃に戻せるのでは……と後悔や妄執の駆け込み先と化したのだ。
そのようなことを聖典は良しとしない。〝聖なる乙女〟が築いた平和の秩序は、不届きな祈りとは逆向きの位置にその理想を置いている。「日々の祈りを重ねよ。土を耕し、産み育て、繰り返しを恐れてはならぬ」と『箴言集』にも書いてあるではないか。
だが黒魔術に手を染めるものは後を絶たない。原理不明、時に奇跡に近い権能を示す得体の知れない神秘に、我こそはという虚しい期待が絶えず群がる。そこで異端審問官のお出ましとなる。ドリュアスは立場を隠していたが、まさにその異端審問を主任務とする星室庁の遣いのものである。したがって、今回の件も異常なできごとに見せかけた黒魔術の事案だと、そう判断するに至った。
彼は村長親娘が引き留めるのを振り払って、丘を降りた。
石を積んだ塀で両側を囲われた下り道──往来が丸見えの、見晴らしの良いその先で、待ち構えていたものがいる。
「先生!」
金髪で明朗なその少年は、名をガーランドと言う。彼は男に駆け寄ると、興奮しきった面持ちで口を開いた。
「すごいですよ、ここの境森の植生! 薬草類や循環性植物の宝庫です!」
目をきらきらさせているこの学童は、ドリュアスの放浪司祭としての任務の一環で連れて来られた。もとは商家の子息だと言うが、医術師になりたいということで寺院の門を潜った。高等な白魔術を会得するには、一定の僧位と勉学が必要だった。そして教導会の掟ではその土地付きの寺院で六年の修練、または放浪司祭に付いて三年の世話回りを果たすことで僧位を得ることができる。
少年は一年目を終えていた。もうドリュアスの癖の強さもだいたいわかっている。
「ほう。ウツケソウにオカンムリ、ロスマリスの葉に、ツツメキグサと来たか」
「これで森の入り口です。進めばヌスビトハギやムコウズネノケがぼうぼうに生えてて行手を阻んでました。谷間まで向かえば何があるやら……」
「いやあ、水辺の植生は大して差はないさ。どれ、一枚貸してみ」
返事を待たずツツメキグサをかっぱらう。器用に爪で切り込みを入れ、丸めた草笛をピュイっと鳴らす。
「前から思ってたんですが、それどうやってやるんですか?」
「そうだな、銅貨五枚でどうだ?」
「えー」
「でなかったらよく見て盗め。おれは教える気はない」
「けち司祭! 強欲坊主!」
目を三日月にして笑う。さんざんに罵られつつ道を下ると、広場に出る少し手前で分かれ道に立った。片方はもちろん村へ、そしてもう一方は先ほどガーランドが下調べをしていた場所である。
「さて森に行きますか。魔術知りたきゃ森へ行け、なんて言いますからねえ」