青い花の咲く午後
忘れられない貴方を待って、私は今日もティーテーブルを用意する。初夏の午後にだけ青い花が開く、庭の大樹の下で。お茶菓子は二人分。貴方と私の為に。ティーセットは貴方からの贈り物。初めて訪ねてくれた時に、大きな箱を抱えていらしたから驚いたものだ。
「壊れ物だから、気をつけてね」
貴方はハラハラしながら箱を渡すよう指示を出すと、言い訳するみたいにぎこちなく笑った。そのお顔がなんだか可愛らしくて、いつも優雅な王子様が、一体どうなすったのかと思った。
侍女は受け取った箱の重さによろめいて、慌てた私の従者が代わりに奥へと運んで行った。
「お気に召すといいんだけど。私、自分で選んだんだよ?」
褒めて欲しそうに目を伏せて様子を伺う王子様。
「まあ、サムエル王太子殿下自ら。もったいのう存じます」
私はスカートを程良く摘み、膝を曲げて目線も下げた。サムエル王太子殿下の靴はピカピカに磨かれており、どっしりと上等な生地のマントが映り込んで波打っていた。
「やめてよ。結婚の申込みに来たんだから、自分で選ぶくらい、させてよ」
サムエル殿下は、いつもの控えめな口調で何か不思議な発言をなさる。今日は、この世で我が家にしかない奇妙な大樹を観にいらしたのではなかったか?私は理解が追いつかず、思わず頭を下げたまま上目遣いで殿下の顔を見た。
「え、なに?その顔?」
サムエル殿下が悲しそうに眉を下げた。これは一大事。本当に、優雅で控え目な王子様が。一体どうなされたのだろうか。
「殿下?」
私は辛うじて声を絞り出す。
「これ、ペネロペア、いつまで殿下にお立ちいただいたままにするつもりだ」
隣から父が出した助け舟に喜んで飛び乗る。なるべく品よく身を起こし、待ち構えていた侍女に案内を促す。
「殿下、まもなく青い花も開きます。どうぞ、樹下のお席へ」
「ありがとう。君の声はほんとうに、小川のせせらぎのようだね」
私の顔が熱くなる。こんな事を仰る方ではないのに。
「ありがとうございます」
何があったのか聞きたいが、話してくれるのを待つしかない。私たちは黙って花盛りの庭を歩く。
「どうしたの?なんだか不安そうだけど」
殿下の美しい黄昏色の瞳に、気遣いが浮かぶ。その黄金の安らぎは、華やかな朝焼け色のまっすぐな髪に静けさを添えていた。この瞳に見つめられると、私はいつも落ち着かない。ずっとこの黄昏色の瞳にたゆたっていたいのに、すぐに離れて逃げ出したくもなる。波に揺られる小舟のように、ゆらりゆらりと近づいたり離れたり。
「あの、お具合でも?」
私は思い切って口に出す。私のほうが心配されてしまうなど、とんだ失態である。
「え?僕が?」
「ええ、その」
「ほら、また、なんだか今日はネリーが遠いよ」
殿下はまた、先ほどの泣きそうな表情を見せる。
「ねえ、僕、間違えたかな」
「え、あの?」
「僕、勘違いしたのかな」
「ええと、その?」
殿下は、青い花の大樹へと続く小径で急に足を止めた。色彩豊かな花の小道に、ミツバチやアゲハチョウが忙しなく飛び回っている。サムエル殿下のきちんと撫で付けた前髪が、微かに風で綻ぶ。
「君もてっきり、同じ気持ちだと思っていたんだ」
春の牧場を思わせる穏やかな声が、絶望の色を纏う。私の頭に初夏の通り雨がやってくる。これは必ず過ぎる雨。わかってはいるけれど、急に来るからとても驚く。
私は言葉を失う。殿下をお迎えした時に聞こえてきた、おかしな言葉を思い出す。
頭上を小鳥が飛び過ぎる。私たちを取り巻く花の香りが優しげに漂う。
「ごめんね、びっくりさせてしまって」
サムエル殿下は無理に笑顔を作る。私は慌てて口を開く。とにかく何か言わなくては。打ちのめされた王子様が、とぼとぼ帰る背中が目に浮かぶ。
「あの、殿下、殿下、サムエルさま」
「君のお家に居るというのに、なんでそんな呼びかたをするの?秘密にしなきゃいけない人は聞いていないよ?僕に弁えて欲しいから?」
「弁えるだなんて!そんな!まさか!」
私はとうとうはしたなく叫ぶ。
「サミ、わたくし!」
どうして良いかわからない。涙が溢れて止まらない。サムエル殿下は優しく私の手をとって、あと少しの道のりを黙って大樹まで進む。
用意された緑色のガーデンテーブルに向かい合って座る。殿下が手渡して下さった上等な絹のハンカチーフを握りしめ、私は嬉しさと戸惑いで途方に暮れる。
「では、結婚の申込みは、受けてくれるね?」
血の気が戻ったサムエル殿下は、私の眼を真っ直ぐ見て確かめてきた。黄昏の泉に、群青の花びらが散る。ああ、私の瞳が映っているのか。初夏の風が戯れに解いた私の髪が、一条朱く色を添える。
この髪が御縁の始まりだった。
「言っておくけど、魔導の髪色を持つ花守姫だからじゃないよ」
「ええ」
殿下と私の似通った髪色は、魔法の力を導くとされる。だからこの国で赤毛は、魔導の髪色と呼ばれるのだ。ピンクでも珍しいのに、はっきりと赤く燃える髪色は一世代にひとりかふたり。年頃の貴族が集められる王宮新年祭の煌びやかなホールで、私の頭は当然目立っていた。
「あの日君を見つけた時も、僕は少し、考えなしだったね。本当にごめん」
「ふふ、ブルーベル公爵家のガラテア様、あのあとロマンス小説になりましたのよ?」
「ええっ?そんなことが?」
出会いの想い出が話題になり、愉快な事件が蘇る。お陰で、気まずい思いは霧散した。
「ファーストダンスを約束していた従兄、即ちこの国の王子様が突然走り去り、ポツンと取り残された悲劇の麗人。金糸銀糸のマントを翻し颯爽と現れたのは、国賓の隣国王子。軽やかなステップを踏み身を寄せ合って踊るうち、ふたりは恋に落ちたのです」
私は吟遊詩人の真似事をして、立て板に水の語り口を披露する。サムエル殿下はふふっと温かに笑う。
「殆ど事実のままだねえ。まさかお話になっていたとは。今では、お隣の王子様をお婿さんに迎えて、立派な女公爵を目指しているよ」
「いえ、それがね、サミ。そのお話では、わたくし妖竜の手下で、国を滅ぼしに来ていたのよ!サミを妖術で惑わし、連れ去って、生命を吸いとり、殺してしまうの」
「えっ」
「ガラテア様とお隣の王子様は、にっくき魔物を見つけ出したものの間に合わなくて。王太子殿下は非業の死を遂げるのよ。ガラテア様たちは、救世の英雄王になられるの」
「うわあ。禁書?作者、国家転覆罪で業魔の刑だねえ」
そうなのだ。本当ならば、現在の王太子をモデルにした人物が残酷な死を迎える小説など許されない。業魔と名付けられた道具で、恐ろしい幻覚を一生見せられることになる。
「あの、ベロニカ王女殿下がお書きになられたので」
「え、あ、そうなの」
サムエル殿下は眉を僅かに寄せた。
「姉上、また変なものを書いて。王家の威信に関わるよ」
「ガラテア様とわたくしだけに朗読して下さったんです。それがなければ、お二方とお近づきになる機会はございませんでした」
「うーん、それは、まあ、良かったのかなあ」
「ええ、思いがけないご縁でしたわ」
サムエル殿下は、またふふっと笑った。青い花の膨らんだ蕾が、垂れた枝に並んで揺れる。私の心に漣が立つ。なんだか顔が熱い。
「ああ、良かった。ネリーもそんなにうっとりと頬を染めてくれて」
「え?」
「でも、驚かせてごめん。不意打ちで喜ばせたくてさ」
「あの、お玄関ホールでのお言葉でしょうか?」
私が念の為に聞くと、サムエル殿下は困ったように頷く。
「まさか、あんな不安そうな、逃げたそうな顔をされるとは思わなかったんだ」
「ご様子がいつもと変わってらして」
「ほんとに、ごめんね」
「いえ、でも、驚きました」
互いにもじもじと花などに眼を彷徨わす。ちょうど良いタイミングで、茶菓子や軽食の飾られた器や立派な茶器が運ばれてきた。
「あら、初めてみるわね?」
ティーポットはふくよかに優しく、細い縞目の入った透明魔法水晶製だった。魔法水晶は、自由な温度調節が出来る貴重な鉱物である。一説には水晶ミミズの排泄物だとされており、ご令嬢がたの中には嫌う者も多い。
「気に入った?」
「もしかして、今日のお土産」
私は息を呑む。
「うん。婚約の贈り物はまた改めて贈るけどね」
「素敵な茶器だわ」
「気に入ると思ったんだ」
王太子殿下はご機嫌にふふふっと笑いかけてくださる。私もつられて、うふふっと笑った。
「お紅茶が透けて、美しいわね」
「うん、ネリーの笑い声みたいに爽やかな美しさだね」
「まあ、そんなこと」
魔法水晶には謎が多くて、まだ本当のことはわからない。だが私は、ミミズの排泄物であっても構わないのだ。今のところ人体に悪い影響がでるという発表は無い。匂いもしない。見た目の美しさと機能性のほうが、私には重要だ。
カップは縁に魔法水晶が使われている。カップ本体は金茶の陶器だ。これは、魔法水晶を土に混ぜて造るそうだ。こういう見えないところを合わせた揃いは、最近流行の兆しがあると言う。
「ねえネリー、君は知っているだろうか?」
「あら、何を?」
「あの大広間で、君のヒナゲシ色の素敵な髪を見つけた時、僕の胸がどんなに踊ったのかを」
「まあ」
私は思わず眼を伏せる。そんなこと、気が付かなかった。そんなふうに思ってくれていたなんて。出会ったあの時から。
「まさか君、驚いたのは今日申込むことではない?」
「え、その」
「ねえ、やめて?僕の気持ち、そもそも知らなかったの?」
「あの、お許しなされて下さいまし」
私は慌てる。またサムエル殿下を傷つけてしまう。仲良くしていただいてきた。それはわかっている。大好きな方だけど、でも。まさか、未来の妻として見て下さっていたなんて。しかも、初めてお会いしたあの日、既にお友達とは違う好きを私に向けて下さっていたなんて。
「気が付きませんでしたの」
「恋してたんだよ?初めから」
サムエル殿下が必死に訴える。金色の泉に熱が篭る。
「君は?」
「あの、わかりませんわ」
私の心臓は、どうしてしまったのだろうか。激しく打ち続けて、今にも口から飛び出してしまいそう。
「その様子が、恥ずかしいだけじゃないといいんだけど」
サムエル殿下はそう言いながら、お菓子挟みを手に取った。それから、テーブル越しに拗ねたような視線を投げてくる。受け止めたそれは、宥めてあげたくなるほど弱々しい。
「どれがいい?」
「あ、そのレモンサンドを」
レモンサンドは、四角く切った薄焼きパンにレモンバターが爽やかな軽食である。程よく薄いフレッシュレモンを小さな三角に切って、果汁と塩で練られた出来立てバターの上に散らす。
その上からもう一枚の、同じ大きさに切ったパンが乗せてあるのだ。パンそのものの仄かな甘みと、レモン皮から感じる苦味、そして果肉の食感と酸味。
「ああ、清々しいわ」
一口齧れば、すうっとレモンの香りが立ち上る。私は自ずと眼を瞑る。サムエル殿下のふふふ笑いが耳に届く。なんて心地よい午後だろう。
「それで、教えてくれるの?」
「あら、何を?」
「えーぇぇ」
殿下は脱力して、両手を肘から曲げて顔の脇まで上げた。
「はぁ、君、恋したことある?」
完全に拗ねたサムエル殿下は、投げやりな調子で問いかける。
「恋?」
わからないわ。解らないって申し上げたのに。私は喉元まで上がってきた非難の言葉を飲み下す。そんなことを口に出してしまったら、殿下は立ち直れないかも知れないから。レモンサンドを置いて、少し真剣に考えてみることにした。
「どうかしら?」
「ネリー、ネリー、僕のネル、君はなんて残酷なひとなんだい?僕はてっきり、」
殿下は菓子挟みを片手に握りしめて、何やら愁嘆場を演じ始める。せっかく真面目に思い巡らせていたのに。
「くすっ、うふふっ」
「えー、酷いよぉ」
「サミ!」
私はもう耐えられなくなって、両手で口を抑えて笑い出す。
「ちょっと!肩まで揺らして」
「うふっ、だって!くすっ」
「なんだよ!君は僕と一緒に居て、胸がドキドキしないのかい?してるように見えるんだけど?」
サムエル殿下はとうとう怒って捲し立て始めた。
「幸せだけど苦しくて、離れたらすぐまた会いたくならないのかいっ!なってるように見えるんだけど!もうずっと前から」
珍しいどころか、殿下が怒るのは初めて見た。私は、あまりのことに笑い止む。
「そうさ、最初の最初、初めて出会ったあの時から!僕が走り寄って、ひざまづいて、君だって」
殿下の言葉が詰まる。
「きみ、だって、うぅ、ねる、ねりい」
殿下の閉じられた唇がふるふると揺れる。
「あっ!サミ、サムエル殿下!待って、そんな」
私はなんだかわからなくなって、ひたすら単語を並べ立てる。無意味な音声は初夏の風に乗って、不思議な青い花の蕾の元へと運ばれてゆく。
ピシッ、パーン!
独特の弾けるような音が次々と響く。
「あっ」
「ああ、これが」
派手な音がして開いた大樹の青い花は、穏やかな香りを私たちに注ぐ。しばらく2人は枝を見上げ、椅子の上で動かなかった。2人とも、この世界にただここだけにある大樹の花を見上げていた。
花の奥には鮮やかな金のシベがある。真ん中に緑色がかった白いメシベ。その周りを取り囲むのが、目にも鮮やかな黄金色のオシベである。
(美しいわ。なんて美しく、穏やかで、頼もしい)
私の心にも、一面に青い花が咲く。サムエル殿下が隣にいてくださる時、私の心はいつも華やいでいたではないか。真昼の太陽を受けたように浮き立つ心と、静かに凪いだ気持ちが同時にあった。
サムエル殿下は、いつも自然に私の隣においでだった。でも王太子殿下なので、頻繁にお会いできる方ではない。会えない間は寂しかったが、会った日を思い出しては満たされた。
(恋を、しているのだわ、私)
揺れる青い花の下で、私はチラリとサムエル殿下を盗み見る。殿下の朝焼け色に燃え立つ髪は、ほんのりと香る青い花と強烈なコントラストを成す。
「どんな実が成るんだい?」
サムエル殿下は不思議な花に視線を捉われたまま、呆然として疑問を口にする。
そういえば、花は有名だが、実について話題になったことはないようだ。花の大きさからは想像もつかない、小指の先ほどの地味な灰色の実がなるのだが。
その実は食べればそれなりに美味しい。だが、それだけだ。果実なのだが、種はない。次の世代は育たない。ただし我が家に伝わる話では、この大樹が枯れる時、真っ青な大きい実が一つだけ成るという。
その実は願いをなんでも叶えてくれる。我が家の先祖は、また大樹が生えるように願ったそうだ。木は新たな芽を出して、人々は奇跡を見たと称賛した。それから我が家は「花守の家」と言われるようになったのだ。
青い実の秘密は、当主夫妻と血族にだけ語り継がれることになった。家を継がない子供たちの伴侶にさえ話さない。話せないのだ。私たちは、奇妙な実の秘密が努力せずとも守られることを、大いに感謝していた。
遠い昔の物語だが、確かにあった出来事だ。
現代でも、当主夫婦は揃って花守と呼ばれる。息子たちは花守の御子、娘たちは花守の姫。大樹が枯れたのは、我が家の数千年に及ぶ歴史の中で3回。今は、そろそろ枯れる頃ではないかと目されている。
「実る頃においでくださいまし?」
「ネリー」
咎めるように低く唸ると、サムエル殿下はこちらに向き直る。殿下は、魅力的な笑顔をすっかり忘れて顔を顰めた。
「その時、プロポーズはやり直しかい?」
「いえ、違います!」
私は急いで打ち消した。
「お受けいたします!今っ」
「ほんとうかいっ」
サムエル殿下が少年のように声を弾ませる。
「はい、わたくし、気が付きましたの」
「うん」
「サミの仰る通り、わたくしも、」
「うん、うん」
「サミに恋しているのですわ」
「うん!」
「共にこれから歩んで行けたら」
「ねっ!」
「幸せだと思いますの」
「でしょう!」
殿下は立ち上がって私の隣にやってきた。そして、上気した顔で私の手を取ると、素早く唇を押しつけた。挨拶の口付けとはまるで違う。サミの唇は燃えていた。私はその熱情に溶かされて、その後のことは覚えていない。
恐らくは、両親に呼ばれて正式な婚姻の約束が提案されたのだと思う。後日、儀式のために神殿へ出向く日取りが相談されたので、その時は約束だけしたのだろう。
だが、私たちが神殿を訪れることはなかった。いよいよ明日、というその時に、国外れの山で見たこともない凶暴な生き物が現れたのだ。その生き物は、翼を広げれば成人男性の10倍はあると聞く。
銀色の短い毛がみっしりと生えた全身に、氷のような水色の眼が恐ろしく光る。瞳は縦の筋目に見えて、どこを見ているのかわからない。太く短いその脚には、鋭く曲がった鈍色の爪が三本生えている。
鳴き声もまた恐怖をもたらす。一声鳴けば山をも揺るがし、麓の村ではその震動で多くの人が命を失った。
「僕だけが出来るんだ。凄いでしょ?すぐに帰るよ」
出来るって何をするつもりなの?
それさえ書かれていない印章付きの紙切れが、使者によって到来しただけ。
それで、おしまい。
あなたは、どこ?
あなたは、何をしているの?
すぐって、どのくらい?
帰るって、いつなの?
王宮では、弟君が立太子の儀を終えた。
王宮では、弟君が戴冠の儀を終えた。
私は庭でティーテーブルを用意する。
2人のための。
茶器は魔法水晶の、あなたが下さったセットですよ。あなたが私に、思いもよらないお言葉を下さいましたあの時の。
そしてある日のことだった。正式に、サムエル殿下は魔獣討伐で死んだと発表された。あの生き物には、いつしか魔獣という名前がつけられていたらしい。それでも私は、毎年初夏の頃になると、あの青い花が咲く音を聞いている。毎日毎日。その優しく愛しい香りの中で。
それから何年過ぎただろうか。私はもう、若い娘ではなくなった。幾度か父母に聞かれた婚約伺いは、考えるまでもなく断った。我が家は花守。私は魔導の髪色を持つ花守の姫君である。婚姻相手はこちらで決めることが出来るのだ。
いらない。
あなたしか、私のサミしかいりません。
心なしか、奇妙な大樹も元気が無くなってきた。
今年も花がみんな散って、そろそろ灰色の実がなる頃だ。
「おかしいわね?」
花は実を結ばず、根本からぽとぽと地面に落ちてゆく。花びらだけでなく、花柄からすっかりみんな。
そして秋も深まるある昼下がり。
「まあ、そんな時期なのね」
家を継いだ兄夫婦と隠居した父母、そして私の目の前で、突然音もなく、奇妙な大樹が枯れて崩れた。後には一抱えほどもある、楕円の青い実が落ちていた。
それは奇跡の実だ。なんでも願いが叶う実だ。
ひとつだけとは言われていない。
かつて複数願ったことがないだけで。
当主だけが願えるとも聞いていない。
毎回当主が願うだけで。
「青い実よ、青い花の木をもう一度、私たちに見せてください」
兄が当然のように言葉を紡ぐ。たちまち青い実が地面に潜る。枯れ木の残骸も土に覆われてゆく。すっかり埋まってしまうと、今度は土が小さく盛り上がり、芽が出て伸びて、ぴょこんと双葉がひらく。
「ふふっ、可愛い」
秋の冷たい風に健気に歯向かうその双葉は、なんだかサムエル殿下のようだった。
「サミ、愛しているわ。いつまでも」
また夏が来る。奇妙な大樹の健気な新芽は、あれよあれよと育っていった。今ではすっかり元通りの大樹だ。秋から春、春から初夏にたどり着くころ、去年と同じ青い蕾がぶら下がる。何事もなかったように。
私も、平然と不思議な青い花陰で、ティーテーブルを用意する。あなたの席にもあの茶器を伏せ。1人でお茶をいただく。あの日のレモンサンドも用意した。
「ネリーっ!」
声まで聞こえるなんて。不思議なお花もやるじゃない?願いを聞いてくれなかったお詫びなのかしら?
「ネリーったらっ!」
私は幻聴の方へと顔を向ける。
(何、あの格好?幻の癖に、ちゃんと歳まで取って)
「ふふっ」
銀色の細かい毛がびっしりと生えたヘンテコなマントを固そうに靡かせて、赤毛の男が空から降りてくる。記憶の中より大人びた顔には、困ったような笑ったような、あの時みたいな笑顔が見える。へんなの。あなたらしくない笑顔。
気の利かない大樹だこと。
どうせなら、大好きな温かい眼差しを見せてくれたらいいのに。
「ネリー、ネル、ネル、僕の!僕のペネロペア」
突進せんばかりに急降下してきた男は、私を椅子ごと抱きしめた。
(この幻覚は暖かいのね?)
「なんとか言ってよ?」
幻のサムエル殿下が懇願する。しかし、すぐにハッとして謝る。
「ごめん、すぐじゃなかったねえ」
あの時みたいに可愛く焦る。
「なかなかあの生き物を倒せなくてさあ」
金の瞳が泣き出しそうに窄まった。
「王宮に戻るより先に、ネリーに会いにきたんだよ?それで許してくれないかなあ?」
サムエル殿下は少しだけ身体を離す。真正面から見つめられ、唐突に私の顔が熱くなる。首も、肩も、腕も、指の先まで朱に染まる。結い上げた髪と区別が付かないほどに。
「ネリーっ!可愛いぃー」
サムエル殿下はまた抱き締めてくる。
「殿下、まずはお茶を一杯如何でしょうか?」
私は虚しい影か嬉しい真か図りかね、変に冷静な行動をとる。
「うん、いただく」
死人のはずの元王太子殿下は、いそいそと椅子を持ち上げて、ちゃっかり私の隣に座る。
「あの、殿下はお亡くなりになったとされておりますが」
「えっ?酷いなあ」
「弟殿下が即位なされました」
「え?」
これには殿下がぽかんとした。
「父上は?」
「お元気ですよ?」
「早過ぎない?引退するの?」
「サムエル様が、あの生き物と戦って非業の死を遂げられたのですもの。一時は気を落とされて大変だったのです」
「死んでないんだけど」
サムエル殿下は不満を露わに眉根を寄せる。
「そりゃあ、あの生き物は飛び回るし、鳴き声一つで人が死ぬから、魔法を駆使する僕以外には近づくことも出来ないけどさあ」
なんとなく解ってきた。
「帰らないからって、死んだと決めつけるなんて、酷いよ。僕がどんなに苦労して、工夫して、こんなに長く戦っていたか、一眼でも見て欲しかったよ!」
目撃者がいないので、死んだことにされたのだ。
「ごめんなさい。わたくしだけでも信じれば良かった」
「え?信じて待っていてくれたんじゃないの?」
サムエル殿下がショックを受ける。見たことのない表情だ。まだ初めて知るお姿があるとは。
「殿下、本当に幻ではなく、生身のサムエル殿下ですか」
「何!殿下って!」
「本物だと決まったわけではありませんもの」
「身だしなみだって、魔法でちゃんと整えて来たんだよ」
「いつも優雅で隙のないお姿ですわ」
「ありがとう、ね、信じた?」
サムエル殿下はぶすっとして繰り返す。私は殿下の黄昏色をした瞳を覗き込む。花が咲く、入日の海に。群青色の私の心。金と青との瞳が混ざり、燃える赤毛はお揃いで。
「うふふ、随分遅いですよ?お帰りなさいまし、わたくしのサミ」