9.ヌードショー?
「矢内さんね?」
恵美も祐二も、心臓が太鼓乱れ打ち状態。祐二は、汗とも水ともわからぬ水滴を額から滴らせながら、必死で返答した。
「こいつの名は矢内じゃねえよ。わかったならさっさと向こうへ行け」
「あら、そうなのぉ? そこに置いてあるのはあなたのザック? それ、矢内って名前の、知っている人が持っていたザックにそっくりなのよぉ。その色、形とか、大きさとか。ちょっとくたびれていて、薄汚れているところなんかも。あたしね、矢内さんのザックのこと、はっきりとは憶えてないけど、なんとなく似ているわねえ。ちょっとザックを見せてちょうだい」
有無を言わせず、ナメ子はずいずいと進み、岩陰に置かれていたザックをひょいと手に取った。
「ああ……」
恵美の口から小さなうめき声がもれたが、ナメ子には聞こえなかった。ザックには『森神祐二』と名前が書かれている。ナメ子がこの名前を憶えているかどうかはわからないが、恵美が以前、ナメ子に告げた白蛇の飼い主の名が、これに似た『森神祐太』だったため、酷似した二つの名前から、ナメ子がよけいなことを想像してくれるとどうしようもない。
祐二も、恵美と同じことを考えたようで、顔をしかめていた。
流れる清らかな水も、この状況を流してはくれない。これ以上顔を隠し続けても、現状は何も変わらないのだ。恵美は、顔を見せることにする、と祐二に思念を送った。
(恵美、ごめん。俺、追い払えなかった)
(あの人たちが相手だからね、やっぱり水かけぐらいじゃ無理だったかも。顔を見せるまであきらめてもらえそうにないよ。仕方がないね。もういいよ。こうなったら、あたし、開き直るから)
固まっていた恵美は、覚悟を決めると、頭に掛けていた上着を取って、それで体を隠しながら、ナメ子の方をゆっくりと振り返った。ナメ子の顔が、パアッと喜びであふれた。
「やっぱり矢内さん! 憶えてなぁい? あたしよぉ、山田。こっちはあたしの夫。で、こちらが運転手。あなたがユウちゃんを連れて遊園地の巡業に来ていた時、あたしたち三人は顔を合わせているわよぉ」
そんなのわかってるって。あんたたちのことなんか一生忘れられるわけがないでしょ……そう言いそうになりながら、恵美はペコリと頭を下げた。
「すみません。憶えております。あの時、宿泊させていただき、お食事までお世話になり、ありがとうございました。確かに私はあの時の矢内です。今は結婚して名字は矢内じゃないんです。失礼しました」
「あら、そうなのぉ? おめでとう。彼がご主人なのね?」
「は、はい。そうです」
恵美が祐二の方を見ると、全裸の彼は、前を隠しもせず、ほおけて水の中に立ちつくしていた。
「ゆう」と言いかかって、恵美は言葉を止めた。『祐二』という名の黒蛇を連想させる名は、タブーだ。仕方なく普段決して使わない呼び方で祐二を呼ぶ。
「あなた」
祐二がゆっくり振り返る。恵美は、呼んだものの、その続きは、口からは言えなかった。
(祐二、前、隠してよ。ナメ子に見られてるってば。あの目付き、見て)
(ん? ああ、そうだな。それはいいけど、俺、服ないからどうしようかと考えていた)
祐二の手が慌てて前を隠す。
(じゃあ、あたし、がんばってごまかすから、あたしの言うとおりに話を合わせてよ)
(わかった。今度は俺が黙る番だな)
ナメ子たちの視線は相変わらずで、これではまるで見せ物だ。
「あの、服を着たいので、見ないでいただけますか?」
「うふっ、恥ずかしいのぉ? じろじろ見てごめんなさいねぇ。こんな山の中でまさかのヌードショーが見られるなんて、幸運だと思ったのよぉ。それも知った人で、無料でしょ。驚きと喜びで言葉にならないわぁ。ぬふふふ、ねえあなたぁん」
恵美が不快そうに唇をひくひく動かしていても、ナメ子はにこにこと笑っている。そのふっくらとした丸顔は、何の苦労も知らないように見える。恵美はため息を飲み込み、川の中を歩いて、置いてあった服のところへたどり着いた。
社長と石川は、祐二に掛けられた水を滴らせながら、水際に立っている。その目はまだ恵美の姿を追っていた。
「あなたぁ、聞いてるの? 素敵なヌードショーだったわねぇ」
「おお」
社長がようやく恵美から目を離し、正気を取り戻したように返事をした。
「セーラ、ヌードショーとは失礼だろう。夫婦の聖なる儀式のことをそんなふうに言うとは。石川君もそう思わないか」
ずっと黙っていた石川も、社長の方に顔を向けると、控えめな声で言った。
「社長、とりあえず、少しだけ場所を移動しましょう。座る場所がすっかり濡れてしまいました。服も濡れましたが、これぐらいなら速乾性の素材ですので、着替えの必要はないかと思われます」
「あらぁ、石川さんたら、濡れたなんて、言い方がいやらしいわ。矢内さんに聞こえてるわよぉ」
「奥様、あの男性に水をまかれたから服が濡れてしまったのでありまして、彼女を見たから濡れたのでは――」
「うふふ、石川さん、おもしろいわねぇ。矢内さんの体に発情してたんでしょ」
「いえ、そんなことはっ」
冷静に応えている石川の言葉尻は、少しつまっていた。すかさず社長が突っ込む。
「石川君、隠さなくてもいいじゃないか。美しい女性の素肌に、我々男性の本能が呼び起されるのは当然だ」
「んまぁ、あなたっ! 男の本能? あなたはそうだって言うの?」
さっきまでにこにこしていたナメ子は、膨れ面になった。
「奥様、ご主人とけんかならないでください」
大真面目な石川。遠い世界にワープしているような社長。あいかわらず自分だけのペースで話すナメ子。三人は、しぶしぶ恵美たちに背を向けてくれてはいたが、ちらりちらりと振り返る。その間も、けんかなのか、慣れ合いなのか、よくわからないばかばかしい会話をずっと続けていた。恵美も祐二も、聞こえてくる三人の会話に、ぐふっ、と吹きたい気持ちをこらえる。
恵美は服を身につけると、祐二に上着だけ渡した。先程まで恵美がかぶっていたものだ。
(祐二、これを腰に巻いてね)
(だけど、これだけじゃあまずくないか)
(しょうがないじゃないの。今から大ウソごっこやるからね)
服を着た恵美は、ナメ子たちに近づいて行った。
「あの、山田さん」
恵美に声を掛けられて、背をむけてしゃべっていた三人は同時に振り返った。祐二はまだ川の中で腰に上着を巻いたまま立っている。なんとも心細げの祐二の様子に、恵美は勇気を奮い立たせた。
「実は、先程なんですけど、猿に襲われまして、彼の服を持って行かれてしまったんです。で、彼の服、上着だけしか残ってないんで、もし、予備の服をお持ちでしたら、お借りできないでしょうか」
「猿がいるのぉ?」
ナメ子たちは、おしゃべりをやめると、口を開けて上を見上げた。沢に覆いかぶさる木々に、動物の影がないか、好奇心あふれる六つの瞳が上を向いた。黒っぽい木の幹。緑を広げる葉っぱたちが弱い風にそよいでいる。沢に分けられた森の、上から下まで舐めるように、彼らの視線が走っていく。もちろん、猿などいるはずはない。
恵美はできるだけ普通の顔でウソを並べたてた。
「そうなんですよ。猿がですね、突然あっちの方から出てきて、彼の服を盗られてしまったんです。ちょうど服の上に、お菓子の袋を置いていましたので、服ごと」
祐二は川の中で動かずに黙っているが、恵美の話に、それらしく、うん、うん、とうなずいている。恵美は笑いをこらえすぎて、自分が能面のような顔になっているだろうと思いながら、ウソをさらに続けた。
「ほんとうにびっくりしたんです。気がついたら――」
「きゃあ〜!」
恵美のウソ話は、ナメ子の突然の大声で切られた。
続く