8.おせんべい
「うふふ……邪魔なんかしないわぁ。好きぃなだけ楽しんでくださいな。静かにしているから」
ナメ子は前にいた石川を押しのけると、遠慮なしにずんずんと川岸を歩き、恵美たちに近づいてきた。つられて男二人も付いてくる。男たちの視線は、水中にある恵美の下半身に向けられていた。それは、くっきりとは見えず、かえってエロい。適度にモザイクがかかったアダルト映画の一場面のようだった。
抱きしめ合う素肌の男女。恵美の背中から下れば、丸みを帯びた臀部を経て、白い足が水の中でさらに生白く輝く。川の流れで祐二の足と並んで立っている輪郭が揺れ、女性のすべてが見えそうで見えないところが、男二人の興奮をよけいに誘う。
ナメ子は、どっこいしょ、と岩の上に大きなお尻をおろし、後ろをついてくる夫たちを振り返った。
「あなたもここに座りましょうよ。疲れたわ」
ナメ子は荷物をおろすと、さっさとおやつと水筒を出し、せんべいをバリバリと食べ始めた。
「石川さんもどうぞ。クッキーも、チョコレートもあるわよぉ」
石川もおずおずと、小さめの石に腰かけた。抱き合っている恵美と祐二はすぐそこだ。ナメ子たちとの距離は十メートル弱。あまりにも近すぎる。祐二は脅すように低めの声を出した。
「あっちへ行け。ここには蛇なんかいない」
「うふふ、あなた方もおせんべいはいかがぁ? このおせんべいはね、老舗の限定もので、一日に生産する数が決まっているの。とってもおいしいけど、貴重品だから、毎日は食べられないのよぉ。お勧めだから、食べてみて。硬すぎないし、この味加減が絶妙で、一度食べたらくせになるの」
ナメ子は上機嫌で、手に持っている、直径五センチほどの醤油せんべいを前に突き出して祐二に見せた。
「お兄さんたち、さあさあ、こちらへいらっしゃいな。せっかくだから一緒に食べましょう」
「いらねえ。こっちを見るな」
不機嫌な声音の祐二にも、ナメ子は気にせず微笑んだ。
「あらぁ、ごめんなさいね。まだ彼女とくっついていたいわよねぇ。終わってからでもいいからね、あなた方の分も残しておくわ。本当においしいおせんべいなのよぉ。いつまでも待っていてあげるから、好きなだけしなさいな。若いとがまんできないわよねえ。うらやましいわぁ。ねえ、あなた」
「あ、ああ、そうだな」
ナメ子の隣に座り込んだ社長の返事は魂が入っていない。石川も同様で、口が半開きになっている。
「あなたっ、聞いてるの?」
「ん? ちゃんと聞いているとも。せんべいを、そこのくっつきカップルに差し上げる、という話だろう?」
「んもう、違うわよぉ。若い人がうらやましいって話」
「おお、そうだったな」
ナメ子は、一枚ずつ子袋になっているせんべいを、夫と石川に手渡した。二人は無言で子袋を開け、せんべいを見もしないで口に突っ込んでいた。
恵美と祐二は動きがとれず、抱き合ったままで心の中で会話を交わした。
(畜生、居座っちまった。帰る気配もないぜ。どうする? あいつらの期待通りにやればいいのか?)
(ちょっとぉ! やるってマジで? あたしはいやだからね。なんであの人たちにそんなの見せないといけないの)
(俺たちがくっつくのを終わって、せんべいを食ったらそれで解放されるんだろう?)
(もう! 祐二! なに言ってんの。あたしは絶対にそんな恥ずかしいことはいや。それにね、あの夫婦だよ。あたしたちの正体を知らなくても、そんな簡単にいくわけがない)
(そうか。それなら、力ずくで追い払うしかないってことか)
(う……うん……たぶん。でも無理しちゃだめだよ。どんな飛び道具を出すかわかんないから。あの人たちは普通の人じゃないもん。ねえ本当にどうしよう……)
(逃げよう。恵美、いいか。俺が離れたら、さっさと服を着ろよ)
祐二は恵美の返答を待たずに、恵美を抱きしめていた手をほどくと、片手を下へ伸ばして腰元を流れる川の水をすくい上げた。できるだけ指をくっつけてたくさんの水をてのひらの中に入れると、のぞきの人々に向かって水を放り投げた。
「いつまでも見るな、このやろう!」
投げつけられた水がいびつな形の玉になって飛んでいく。
キャッ、とナメ子の悲鳴が上がったが、片方の手のひらですくっただけの少ない水は、あとわずかのところで届かなかった。祐二は恵美から離れ、ざぶざぶと下流へ進み、ナメ子たちに近づくと、今度は両手で水面をかいて水を飛ばし始めた。距離が近いので、水しぶきは確実にナメ子たちにかかった。
「いやあぁん、おせんべいがぁ」
飛んでくる水から必死でせんべいを隠そうとするナメ子。石川はどうしていいかわからず、その場に座ったまま、両手で顔を隠して水を避ける。社長はキッ、と立ち上がり、水の滴る顔をしかめて祐二を睨みつけた。
「これ、君、やめないか」
「おまえらがさっさと消えたらやめてやるぜ。おらぁ! 帰れよ。俺の女をじろじろ見るな、スケベやろう」
祐二は手を休めず、水をすくっては飛ばし続ける。水深の浅い場所まで来た祐二の全身は、はっきり見えていたが、祐二は隠しもせず、水かけに励んだ。休まず飛んでくる水に、さすがの社長たちも、恵美の姿ばかり見ていることはできなくなった。
「君、いいかげんにしたまえ。ずぶぬれになってしまうだろう」
一方、頭を上着で隠したままの恵美は、ナメ子たちが祐二に気をとられている間に素早く服を着ようと、岩の上に置いてある服の方へ移動を始めた。その時――
「あらまあ〜!」
ナメ子のひっくりかえったような声が沢に広がった。せんべいを水から守ろうと、ビニールのせんべい袋を持って、立ち上がったナメ子が、岩影を指さしている。
「そこのザック、矢内さんのに似ているわぁ」
その瞬間、祐二の動きが呪いにかかったように止まった。祐二は困って恵美の方を振り返ると、恵美も胸を手で隠した状態ままで固まって水の中に立っている。恵美の頭は隠れているのでその表情は見えないが、上着の下の恵美の顔がどんなふうになっているのか、祐二が想像するのは容易だった。
(恵美、やばいぜ)
(……なんでこうなるのよ)
(知るかよ。もう一度、あいつらに水かけやるか?)
(駄目ね……ザックが見つかったなら、それは無意味だよ。あの人たち、あのザック知っているんだもん。あぁ……)
どう応えるべきかと、二人とも黙っているとナメ子が声をかけてきた。先ほどよりさらに近づいている。その距離、わずか五メートルほど。
「あなた、矢内さんでしょう? 違うの? 顔を見せてくださいな」
よく知っている相手に声をかけているような口調。
――くっ……
恵美も祐二も、喉から出た音は言葉にならなかった。
続く