7.のぞき
「おお!」
社長と石川は、同時に声をあげた。視線の先には、素っ裸で行水を楽しむ男女の姿。まだ遠目なので、誰なのかわからないが、男と女が冷たい川の中でふざけ合っているのはわかった。流れる水音で、会話は聞き取れないが、楽しそうな笑い声がする。
先頭の石川が立ち止ったので、一行は必然的に歩みを止めた。三人は、うっそうと茂った木々の隙間から、黙ってじいっと恵美たちを見つめた。登山道から見ると、恵美たちのいる場所は、左前方下の沢になる。木々の枝が川の上にさしかかって、揺れる緑の葉っぱの間、流れる川の中に人間の白い肌が見え隠れしている。
恵美と祐二は、迫り来る危険も知らずに、笑いながら川の中に座り込んでいた。首までつかっているが、二人とも人の姿で、何も身にまとっていないので立ち上がれば丸見えだ。
「ふう……生き返った。これでまた歩ける。祐二、あたしが服を着るまでザックへ入って待ってって」
微笑んでいた祐二は、突然、ゲッと呟くと、身を震わせた。
「どうしたの?」
「恵美」
「何?」
恵美は、立ちあがって水のしたたる髪を搾った。
「え、え、恵美!」
急にどもった祐二を、恵美は不思議そうに見た。
「恵美、まずい。絶対にこれはまずい。じっとしてろよ」
「へっ? 何?」
祐二も立ち上がると、突然恵美に近づき、ぐいっと抱きしめた。
「ちょっと祐二! こんなところでやめてよ」
祐二の胸に恵美の顔が押し付けられるような格好になり、恵美は抱擁を解こうとした。
「顔を隠せ。あっちから見られている」
「登山者が来たのね。ごめん、わかった、すぐに服着るから放して」
「放せないから困っている。わからないのか? この寒気……どう考えてもこの感じ……」
恵美は、登山者たちが、社長夫妻と運転手だとは思ってもいなかったが、祐二はガタガタと震えていた。
「畜生! 絶対にあれはあいつらだ。おいっ、恵美っ、どうすればいいんだよ。服はないし、蛇にもなれないじゃないか」
「どうしたの? 落ち着いてよ。人の姿でいいから、水の中に座っていて。少しがまんすれば、登山者なら通って行くだけでしょう。祐二の服がないなんて、誰も思わないって。上着だけならそこにあるんだし」
「それではたぶん駄目だ」
祐二は絶対に恵美の顔を見せまいと、強く抱きしめた。
「祐二? 何よ、どうしたっていうの? 苦しいよ」
強い抱擁から逃れようと、恵美が身をよじる。
社長たちは、興奮の鼻息を吐きだした。抱きしめられている恵美の姿が、大人の妄想を誘い、男女の愛の行為の始まりを連想させる。三人は、じっくりと見たいが、見ていてはいけないような、置きどころのない視線を恵美の背に這わせていた。
「なかなか熱い眺めだな、石川君」
「はい。このような山奥で裸の女性を見られるとは幸運でございます。どうやらこれからお楽しみのようです。無料のショーとしては最高で」
「石川君」
社長は、にやりと笑って石川の顔を見た。
「鼻の下が伸びている。しかも赤いものが滴っているじゃないか」
「おあっ、すみません」
石川は、鼻血かと、指で鼻の下を触ったが、汗だけで血液は何も出ていなかった。
「社長……」
「ふっ、冗談だ」
男たちのにやけぶりに、ナメ子は丸い顔をさらに膨らませて、精一杯の不快感を示した。
「あなたっ! 何その顔は。唇の端からよだれがたれてるじゃないの」
社長はよだれを手の甲で拭いたが、何もついて来なかった。
「うふふ、うそよ。そんなに女性の裸がうれしいの? この私がいるのに。私も脱いで行水しようかしら」
社長は、ゲホッとせき込んだ。一瞬、妻のまるまるとした裸体があの中に交じって水遊びをするさまを想像してしまったのだ。
しっかりと肉がついた妻の体が水の中でぶよぶよと揺れて――
湧き出た妄想を振り払おうと、社長は首を軽く左右に振った。
「セーラ、何を言っている。女性の裸体がうれしいのではない。私たちはだな、山奥で天女の行水を見たことで感動したのだ。神秘的じゃないか。そうだろう? 石川君」
「はい。まことに素晴らしい眺めでございます。ここまで来たかいがありました。あの女性の美しい姿、奥様もご覧になられたでしょう。後ろ向きなのが残念でございます。さっき少しだけ見えた胸をもう一度――いえ、なんでもないです」
「石川さん、楽しめるのはいいとして、考えてみなさいな。こんな、人が通るような場所で若い男女が素っ裸でいちゃつくなんて常識がないわねぇ。山奥なら裸でいてもいいと思っているのかしらぁ。あの様子だと、きっとさっきまでやってたに違いないわよぉ。それで体がべとべとになったから、洗ってるわけよ。ねえ、そう思わない? まだいちゃつく気かしら。もう一戦始まりそうよお」
男二人は、恵美の姿に夢中で、ナメの言ったことには、どちらもすぐに反応しなかったが、やがて社長が、ごくりとつばを飲み込みながら、つぶやいた。
「いちゃつきが終わったら、幻の黒蛇のことを聞いてみよう。もう少しここで待とう」
一行は、その場で休憩にした。休む、と言っても、お弁当を広げるわけではなく、狭い登山道に一列のまま立ち止まって、ひたすら『二人の行為』が終わるのを待っているだけだ。
恵美にとって幸運だったのは、濡れた髪のおかげで、ナメ子たちが、行水天女が恵美だと認識していなかったことだった。
「ちょっと、祐二ったら。放して。こんなところでエッチはイヤだって」
「おまえ、まだわからないのか? あいつらだ」
「あいつらって?」
「恐怖のナメ子夫婦」
「ええっー!」
恵美は大きな声を出してしまったが、川の音が打ち消してくれて、ナメ子たちまでは会話の内容は聞こえなかった。
「うええ……本当? それなら、そうと早く言ってほしかったよ。うあ……あたしも寒気がする。あたしの背中を見られているんだ」
二人のいる場所は、水深は九十センチほど。二人は、立ち上がって抱き合っているので、腰から上が水から出ていた。
「あいつら……俺を探しに来たか。この状況では逃げられないから、俺があいつらを何とかしてやる。いいか、このままじっとしていろ。顔を絶対に見せるなよ。まさか、恵美だとわかっているとは思いたくないが、どうなのかわからない。とにかくこのままで黙ってろ」
「うん。でも……どうしよう。いつまでもこんな格好でくっついていられないよ」
「なんとか追い払ってやる。俺の顔なら、あいつらは知らないはずだ。遊園地の時に、遠目でナメ子に見られたかもしれないが、近くで見たわけではないからはっきりとは憶えていないと思う」
「でも、祐二」
「あいつらを殺してでもおまえを守ってやる」
「だめ! それは絶対にやめて」
「わかった。とにかく黙ってろ。絶対に顔を見せるな。俺たちの正体は気が付いていないと思うから」
祐二は恵美を抱きしめたまま、その濡れた髪を集め、自分の胸にうずまっている恵美の顔を覆い隠した。ちらっと登山道に目をやる。キラキラした六つの瞳が、こちらを凝視している。木の間からでもそれははっきりと見えている。祐二は目を細めて彼らを確認した。間違いなく、ナメ子夫婦。知らない男がひとり混じっているが、たぶん、あの家の召使だろうと思った。
「しっかり覗いてやがる……エロおやじどもが!」
祐二は恵美を抱いたまま、ザブリ、ザブリと水の中を移動し、荷物の置いてある岩陰へ片手を伸ばした。蛇探しスタッフからもらったグレーの上着を手にとり、それを恵美の頭からかぶせた。視線は移動しても付いてくる。ナメ子が知っているザックは、大きめの岩の横に置かれており、ちょうど登山道からは死角だった。
恵美の頭を隠すと、祐二は脅すような声音で三人に向かって声をかけた。
「おいっ、俺たちになんか用か?」
川の音がうるさくても、祐二の大きな声はしっかり届き、覗き見一行は、びくりと肩を動かし、お互いに、にやけながら顔を見合わせたが、誰も返事をしないので、石川が応えた。
「ちょっとお尋ねしたいことがあるのですが」
石川はゆっくりと道のない斜面を、川へ向かって降りていった。おぼつかない足取りで、ナメ子と社長がその後に続く。水の中に立ったまま恵美を抱きしめている祐二までの距離は、二十メートルを切った。
一行が近づいてくると、祐二は眉を寄せて、社長を睨みつけた。祐二の顔は、ちょうど逆光になっており、常人より薄い瞳の色はわからない。
「ずっと覗いてやがっただろう。何の用だ」
祐二は精一杯すごんだつもりだったが、ナメ子が口を開いて、力が抜けそうになった。
「あらあ、こんなところでエッチなんて、見てほしいって言っているようなものよぉ。若いっていいわねえ。あたしたちもね、情熱的な時もあったのよ。外でしたことないけど。ねえ、あなたぁ」
いきなり同意を求められ、社長は、目を白黒させたが、すぐに持ち直した。
「失礼した。覗くつもりはなかった。私たちは、幻の黒蛇を探している。きのうのテレビ放送を見てここへ来た。ここ辺りで大きな蛇を見たことはないか?」
「知らないね。俺たちの邪魔しないでくれないか」
「あらあ、邪魔なんてねえ。そんなつもりないわよぉ。二人の愛を見せたいならどうぞご自由に。ここで静かにしているから、たっぷり楽しませてもらうわぁ」
うわ〜ん、やだよぉ……しがみついている恵美のつぶやきが祐二にも聞こえた。
続く