10.変態夫婦
「あなたっ、あそこを見てぇ」
大声を出したナメ子は、沢の左斜面に斜めに生えている木を指差していた。恵美たち含めた全員が、その指先に視線が移った。
「ほらぁ、あそこ、あの大きな黒い木の枝よぉ」
「どこだ、猿がいるのか?」
社長の言葉に、恵美は思わず顔をしかめた。すかさず祐二に思念を送る。
(ちょっと、猿ってマジで? 本当にいたら、どうしよう。祐二の服をとられたことにしちゃったのに、猿が服なんかとってないってわかったらまずいよ)
(仲間の猿が持って行ったことにすればいい)
(えーっ、そのウソ、無理じゃない? そんな猿の軍団なんかいそうにないもん)
(無理かどうか、言っていないとわからないぜ。おまえがウソを言えないなら、俺が言ってやる)
(それはやめてよ。祐二がなんか言うと、よけいにややこしくなりそうだから)
祐二は世間知らずだからね、お願いだから黙ってて、と付け加えた。
恵美たちが心の会話を交わす間、社長と石川は、ナメ子が示そうとしている猿を探していた。
「わからない。どの枝だ」
「あそこよぉ。あの枝先、水の上に出ている枝よ。見てぇ」
「ああ、奥様、見つけました。あそこですね。確かにいますね」
石川にはわかったようで、明るい声だったが、社長はまだ見つけられないので、口調にいらだちを含んでいた。
「どこにいるんだ。ちゃんと説明しろ」
恵美と祐二も猿がわからず、枝から枝へ目を走らせる。パッと見てわからないなら、結構小さいのか? 猿……茶色いぬいぐるみみたいなのがきっと木の上にいるはず。
「あなたぁ、ほら、あそこだってば」
「んん? おお!」
社長も発見し、満足の声を上げたが、恵美と祐二はまだ見つけていなかった。かわいいぬいぐるみみたいなの。どこよ?
「あの、どこですか?」
恵美が目を凝らしながらたずねた。ナメ子たちの方を見ると、彼らは子どものように目を輝かせていた。
「あれはユウちゃんじゃないけど、まあいいわ。石川さん、捕まえてちょうだいな」
はい、と石川が準備を始めた。祐二捕獲用袋を荷物から出すと、トレッキングステッキを頭上で振り回せるように持ち直したので、恵美たちはようやくそれを発見し、理解した。
「蛇……ですか……あ、あそこですね。やっとわかりました」
あきれた恵美の声に、ふっ、と笑いが交じる。水面に倒れそうな角度で生えている木の枝先に、小さな茶色い蛇が巻きついていた。普段の祐二を見慣れている恵美には、この蛇はとても細いと感じた。
「蛇かよ」
祐二も思わず口に出すと、ナメ子が、ぬふふ、と笑った。
「あらぁ、あたし、猿がいるなんて、ひとことも言ってないわよぉ。見てちょうだい、あのいじらしい姿。あれで木に化けたつもりなのよ。首だけ出して動かないでしょ。うふふ、おばかちゃんねえ。ちゃんと見えてるわよぉ。今かわいがってあげまちゅよ」
石川がズボンのすそを太腿までまくりあげ、靴を脱いで水に入り、蛇のいる木の下へ向かっていく。
「石川君、気をつけろ。滑る」
「はい」
蛇を逃がさないように、石川はゆっくりと進んでいく。
恵美は、あの茶色い蛇が、今からナメ子たちに捕まり、その後どういう運命を迎えるのか予想し、かわいそうだと思ったが、今は同情している場合ではない。ナメ子と社長は口を開けて木の上の蛇に注目中。こんなチャンス、使わないともったいない。本当は、祐二の服を借りて、後で返しに行く、と言って約束だけで別れるつもりだった。祐二に「逃げるよ」と思念を送る。
恵美は祐二に目配せして、さりげなくザックの近くへ行き、そうっとザックを手に取ると、足元に気をつけながら、そのまま後ずさりで、下流へ向かって川岸を、そろり、そろり、と徐々に移動した。小石が踏まれてザクッと音が出る。そのたび、逃げようとしていることを悟られたかと、心臓が飛び跳ねる。じりじり下がりながら、ナメ子たちの様子をうかがう。
「ねえ、あなたぁ、木をゆすってみたらどうかしら」
「いや、セーラ、そんなぐらいでは落ちないだろう」
「やってみましょうか?」
皆、蛇に夢中でいい具合だ。幸い、水音に紛れ、足音は聞こえにくい。
そろり……そろり……静かに。静かに……
やがて、ナメ子たちが登山道から降りてきた場所まで来たので、そこからはナメ子たちに背を向け、斜面を登り始めた。恐怖で唇がピクピクしているのを感じながら、恵美は振り返った。祐二は裸足で、腰に上着を巻いた姿で恵美のすぐ後ろをついてくる。祐二も緊張しているのか、またブルブルと激しく震えていた。ナメ子たちはまだ蛇に夢中になっている。
(祐二、大丈夫だから。まだ気が付いていないみたい。今のうち)
(俺さ、やばい。震えが止まらないんだ)
(あたしもよ。でも絶対に逃げようね。あの蛇に感謝しなきゃ)
恵美と祐二は、緊張で高まる心臓を抱えながら、足音を忍ばせつつ正規の登山道まで斜面を登り、その後は駆け足で姿を消した。
「駄目ですね、もう少しのところで届きません。いかがいたしましょう」
石川がトレッキングステッキを調節して手を伸ばしたが、あとわずかのところで蛇まで届かなかった。蛇は、突然下から伸びてきた異物に警戒して体制を変え、首をひっこめると、木の先にきつく巻きついた。たたき落とすのは困難と思える。
「あなたっ、肩車よ。あたしがあの子をゲットするから、肩に乗せてちょうだい」
「……それは苦しい」
社長は、ナメ子の肉のありあまる体を見て、苦笑いした。
「あなたが乗せてくれないなら、あたし、石川さんに肩車してもらうわよぉ。いいのね?」
「セーラ、彼に無理を言うな。もう少し体重が軽ければ、乗せてやってもよかったが」
ナメ子は、一瞬むっ、と頬を膨らませたが、すぐにまたにっこり顔に戻った。
「あなた、名案を思いついたわ。肩車は、体重の軽い人が上になればいいんでしょ。石川さんが下で、上は矢内さん。どうかしらぁ。あら? 矢内さん?」
ナメ子たちが後ろを見ると、そこにいるはずの恵美と祐二の姿はなかった。
「いない……」
ナメ子は神隠しを見たように、ぽかんとしていたが、社長は眉を寄せた。
「さては逃げたか。まだその辺にいるだろうから、追うぞ」
「逃げたなんて、そんなはずはないわよぉ。だって服を貸してくれってあの人から言ったんですもの」
「しかし、ザックがないじゃないか。それが事実だ。まだそう遠くに行っていないだろうから、今なら捕まえられる。石川君、その蛇はもういいから、すぐに水から上がってくれたまえ」
ナメ子は「そんなーっ」と木の上の蛇を見上げた。
「あなたぁ、それじゃあ、あの子をあきらめるの? せっかくかわいい子を見つけたのにぃ」
「肩車は、おまえではできん。それよりも、矢内さんを捕まえないと、ユウちゃんが手に入らない」
社長にぴしゃりと言い返され、ナメ子は黙らされたが、すぐに立ち直り、水の中から戻ってきた石川が身支度を整える横で、せかすように、自分の丸い体を横に揺すった。
「石川さん、大急ぎよ。早く靴を履いて。濡れててもいいじゃないの。矢内さんたちが遠くへ行ってしまうわ」
石川は、必死で濡れた足のまま靴下を履き、登山靴の紐をしめている。その額には汗がにじんでいたが、ナメ子夫婦は気がつかなかった。
「早くしてちょうだいな」
「はい、申し訳ございません。紐をしめないと歩けませんので」
やがて、石川が耳元に流れてきた汗をぬぐって立ち上がると、三人は、登山道の方へ動き出した。恵美たちの姿は見えない。
ナメ子は大声で恵美を呼んだ。
「矢内さ〜ん、待ってえー」
返事は帰ってこない。
「遠くに行っちゃったかしら。なぜ急にいなくなったのかしらねぇ。矢内さんって、本当に変な人だわ。前の時も勝手に姿を消してしまって」
「そういう常識がない人なのだろう。泊めてやって、あんなに歓迎したのに、さっさといなくなるような礼儀知らずなのだ」
「そうだわよ。私たちの楽園も見せてあげたのに、本当に常識知らずねえ。今の若い人っていやよねぇ。世話になっておきながら、冷たい仕打ちで返してくる。シロの飼い主に会わせて欲しいって頼んだのに、ごまかされちゃったしねぇ」
「大体、こんなところで裸で男と遊んでいるような人だから、変人以外の何者でもないわけだ。夜は蛇と抱き合い、昼は人間の男と……すごい女性だ」
「矢内さんって、あなた以上に変よ」
「まったくだ。彼女は変態だ。彼女の夫もそうだろう。自分の方がましなのだと、気がついたよ」
社長は、そう言うと、ナメ子に笑いかけた。ナメ子も、大きな口に歯を見せて笑い返す。
「うふふ……矢内さんたちって変態夫婦。常識なしで、どこでも裸でくっつくのが趣味なのねぇ。いやあだわぁ」
ナメ子夫婦は『礼儀知らず、常識なし、変人』などの言葉をぶつぶつと繰り返して、不快感情を燃焼させた。二人とも、だんだんと気が晴れ、そのうちに、『変態夫婦、うちより変態、激変態』と言いながら、トレッキングステッキを振り回して、歩きながらげらげらと笑っていた。
――変なのは、あなたたちでしょう……蛇探しはもうやめて、帰りたいですよ。慌てて履いた靴下が湿って気持ち悪いです。足をふく暇も与えていただけなかったのですから。
石川のため息と、心の涙は、ナメ子たちには伝わっていない。石川はうつむいたまま、ナメコたちの後ろをついて行った。
続く