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地上の愛  作者: 槙野 シオ
8/16

ACT.8 恋 - Fate

── ノエルが生きてそばにいてくれるなら、僕は悪魔に魂を売ってもいい。


この気持ちは愛なのか、恋なのか。

もし、恋だったとして何ができるのか……

ルフェルも薄々感じてはいた。


もしかしてノエルは、他のこどもたちに比べると成長が遅いんじゃないだろうか。同じ年頃の子が十二歳になっているというのに、ノエルのからだは九歳のままだった。


……人間に生命の樹の実を与えると、成長の進み具合が遅くなるのか……?


このまま行くと、いまから三年でノエルは十歳になり、その次の三年で十一歳になるはずだ。その頃には同じ歳のこどもたちは、すでに十八歳を越えていることになる。


だからといって、ノエルへの愛情には何の変化もなかったし、ノエルもまたルフェルが大好きだった。ふたりだけの穏やかな生活が、ふたりのペースで続いている、ただそれだけだ。



───



ノエルが十歳の頃、他のこどもたちは十五歳になっていた。まだまだノエルは小さくて愛らしく、キッチンの吊り戸棚には椅子を使わないと手が届かない。


「ノエル、きみじゃあまだ無理だよ。何が欲しいんだい?」


ルフェルはクスリと笑って訊いた。


「取れるわ。ちゃんと椅子だってあるもの」


ノエルは頬を膨らませてそう言うと、吊り戸棚の下に椅子を置いてその上に立ち、戸棚の中にあるはずのサラダ用のボウルを手で探り始めた。


椅子の上で爪先立ちになるノエルの様子をルフェルは黙って見守っていたが、ルフェルの視線が気になってノエルはボウル探しに集中できずにいた。


「大丈夫だから、あっち行ってて!」


……と、言おうとして振り向くと、勢い余ってバランスを崩しノエルは椅子から足を滑らせた。こういうこともあろうかと構えていたルフェルは、ノエルが床と衝突してしまう前にノエルの下にからだを滑り込ませ、上から降って来るノエルを衝撃とともに抱き止めた。


「ほら、言わんこっちゃない」


ルフェルのからだに抱き止められたノエルは、ルフェルの造る細くはあるけれど決して華奢ではなく、しなやかな弾力と厚みを持った広い胸がこんなにも男らしかった(・・・・・・)ことに初めて気付いた。


「怪我がなくてよかったよ」


ルフェルは優しく微笑みながらからだを起こし、いまにも泣き出しそうなノエルを膝の上に乗せたまま、いつものようにぎゅうっと抱き締めた。


この時、ノエルの頬が真っ赤になっていたことに、ルフェルは気付いていなかった。



───



十八歳になったノエルは、息を飲むほどの美しさを(たた)えていた。


蜂蜜色のやわらかな髪と、陶器のように滑らかな白い肌。大きく潤んだ琥珀色の瞳、それを縁取る長く豊かなまつげ、つんと上品に尖る細く高い鼻、赤みを帯びた口唇(くちびる)はふっくらとみずみずしく、ノエルの小さな顔にそれらは見事な間隔で行儀よく並んでいた。


一歩外に出れば、誰もが振り返るほどの美しさでありながら、ノエルはルフェルの左腕を枕に胸の前で丸くなり、右手のひと差し指を握って眠る夜を送り続けていた。


父親のようなルフェルは、そろそろ成人するであろう娘同然のノエルと一緒に眠ることに、少々違和感を覚えていた。


自分は死ぬことのない天使だが、ノエルは人間なのだ。やがて人間の男と恋をして母親となり、しあわせな家庭を築いてもらわねばならない。しかしそれを考えると、なぜかルフェルの胸の奥がチリリと痛んだ。





── そして三年経ったある日。


ルフェルは三十年前に犯した罪の正体に気が付いた。


ノエルが十八歳の頃から何ひとつ変わっていないのだ。肌の質感も、美しいからだ付きも、何ひとつとして成長している兆しはなかった。言い換えれば、十八になったあの日から一切の衰えが見られない。ルフェルとノエルは、同じような年頃に見えるまでになった。そしてノエルは歳を取らなくなった。



生命の樹の実のせいか……



ノエルは人間でありながら、不老不死のからだに産まれ変わってしまったようだった。


同じ年頃だったこどもたちは、すでに四十歳を超えている頃だろう。しかしノエルは十八歳のまま、時が止まったような姿でそこにいた。


その夜、ルフェルのベッドに潜り込んだノエルに、ルフェルは訊いた。


「ノエル……からだの調子はどうだい?どこか具合の悪いところとか……」

「いいえ? 毎日健康そのものよ」

「それならいいんだ」


確かに具合の悪そうな様子はひとつもなかった。あれから三十年間、血を吐いたことだって一度もない。だとしたら、見た目だけではなく細胞も歳を取らなくなったのだろうか。


「ノエル、きみは自分の成長が、他のひととはちょっと違うと感じたことはないかい?」

「……あの時の、薬のせいね?」


ルフェルは驚いた。まさかノエルがそれに気付いているとは露ほども思っていなかった。


「ずっと不思議だったの。どうしてわたしは他の子たちよりも小さいのかしらって」

「それが……それがなぜ薬のせいだと?」

「飲んだ瞬間、本当に苦しみがおさまったの。瞬間よ? おかしいじゃない。そんな薬、他に知らないもの」

「でもそれと、きみが歳を取らなくなったこととは関係ないかもしれないじゃないか」

「そうかもしれないわ。でもね、からだは小さくても心は成長していたの。気付いてなかった?」

「……え?」


心は成長していた……? では小さなノエルのからだの中に、他の子同様に育ったノエルがいたというのか?


「わたしはこのまま……ずっとこの姿のまま、永遠に生き続けるのかしら」

「……わからない。見た目は若いままだけど、細胞が歳を取っている可能性もないわけじゃないんだ」

「ふふっ、どちらにしても、人間とは付き合っていけないわね」


それは当然のことだった。周りはどんどん老いて行くのに、ノエルは十八歳の姿のままなのだ。気味が悪いと物の怪扱いされるであろうことは、最早考える必要すらなかった。


「何の問題もないわ。わたしはルフェルがそばにいればいいし、それ以外を欲しいとも思わないもの」


そう言ってノエルは微笑むと、ルフェルの頬にやわらかくキスをした。





……違う、違うんだノエル。


そのままではきみは "母親" になれない。結晶の器になれないんだ。人間としてのしあわせを放棄することになってしまうんだ。


しかしノエルはすでに人間ではないかもしれない。それは、この三十年を振り返ればわかる。結晶を流し込んでも、正しく "人間" を宿すとは言えないからだなのだ。


本当に不老不死になり、天使と同じように永遠の生を持つ者になってしまったのか。それとも、見た目は歳を取らなくなったが細胞は衰え続け、あと四十年もすれば十八歳の姿のまま死んでしまうのか。



ルフェルは三十年前に犯した罪の深さに初めて後悔した。



「……ねえ、ルフェル」

「なんだい?」

「天使にはわからない気持ちなのかしら」


そう言うとノエルはからだを起こし、ルフェルの頬を両手で包んで口唇に優しくキスをした。


「…っ!!」


「あなた、本当に気付いてなかったの?」

「……気付いてなかったって……何に!?」

「わたしはもうずっと長いこと、あなたに恋をしてるのに」

「こ……恋……?」

「本当に気付いてなかったのね」


クスリと笑い、ノエルはもう一度ルフェルの口唇にキスをした。ルフェルの顔にノエルの蜂蜜色の髪がかかる。ノエルの香りと、口唇のやわらかさに、ルフェルは指一本動かせないでいた。


「あなたさえそばにいれば、他には何もいらないのよ」



ルフェルは天使なのだ。


人間とは容姿が似ているだけで、あとは何もかもが違う。人間との恋に落ちてはならないというエデンの厳粛な掟。地上であまり深い感情に囚われないよう、常に浄化され続ける魂を移した水晶。そこまでの厳重な管理をせねばならぬほど、人間に恋をすることは絶対に赦されない。



しかし。



言葉を持たない小さなこどもとの出逢いが教えてくれた、しあわせの意味。ふたりで過ごして来たあたたかで穏やかな日々。生きるために必要なものをお互いの内に見出し、離れてはいけないのだと思い続けて来た。大切で、大切でその愛しい命を失いたくないと、ずっとそばにいたいと願い続けたノエルがいま、自分に恋をしていると言う。


ノエルの命と引き換えに罪まで犯したルフェルの心は、二度目のキスでゆっくりと溶け始め、からだの奥底で眠り続けていた感情が密やかに目を覚ます。


自分の上で艶やかな眼差しを向けるノエルを、手放すことなどできるのだろうか。胸の奥がチリリと痛んだ正体は、もしかしたらノエルと同じ感情ではなかったか。父親のようだと思ったのは、単にそうでなくてはならないという思い込みではなかったか。


もし他の人間がいま目の前でノエルを連れ去っても、自分は正気でいられるのか。他の誰かにしあわせにしてもらうためにいままでノエルと暮らして来たのか。



── 僕も ノエルに 恋をしている?


そう思った途端、ルフェルの頬を涙が伝った。



「……ルフェル?」

「ごめん、なんでもないんだ」

「なんでもないときには泣かないものよ」


ノエルのほっそりとした指先が、ルフェルの頬を濡らす涙を拭う。そして、いつもとは様子の違うルフェルに気付いたノエルは、言ってはいけないことを言ってしまったのだ、と後悔した。


「……ごめんなさい。あなたを困らせるつもりはなかったの」


ルフェルは慌ててからだを起こし、ベッドから降りようとするノエルの腕を掴んだ。


「違うんだ!」

「いいえ、違わないわ。だってあなたの態度がとても硬いんだもの」


違うんだ、ノエル。


「ノエル……僕は人間じゃない」

「そうね、人間ならそんな美しい翼、一枚だって持ってないわ」

「僕のからだの中は空っぽで、切り離された魂は遠いエデンで毎日浄化されて行く」

「病気の心配も、怪我の心配もなくて安心ね」

「だから僕には……多分、心がないんだ」

「……心が、ない?」

「感情が深まらないよう、魂は毎日浄化され続けているから」



生命の樹の実を持ち出したあの日、すでにエデンの厳粛な掟に背き罪を犯した身なのだ。いまさら、人間に恋をしてはならないという絶対禁忌を破ることに、ためらう意味などない。


しかし、博愛は赦されても情愛を赦さないエデンにおいて、この気持ちを神々が知ることになれば……水晶の浄化は純化へと切り替えられ、感情のすべてを取り除かれる危険性が跳ね上がる。


そうなれば……僕はノエルへの愛を忘れてしまうかもしれない。



「……だとしたら、そのエデンという場所もたいしたことないのね」


ノエルは立ち上がり、ルフェルのエメラルドの瞳を自分の琥珀の視線で貫いた。強く、激しく、まっすぐにルフェルの瞳の奥を捕らえ、その水晶体を引き裂いてしまいそうな力で、ルフェルの視線を離さなかった。


「わたしは」


わたしは陽の沈みかけた薄暗い海辺で、それまで見たこともない美しいものを見たの。触れるとやわらかくてあたたかで、そのひとは傷だらけで汚れたわたしの手を嫌がることもなく、何度も真っ白な翼に触れさせてくれたわ。


大きな手が近付いた時は痛いことをされると思ったけれど、その手はわたしの頭をなでて、それからわたしのからだはふわりと宙に浮いたの。


知らない場所に連れて行かれた時は、次はここでジャガイモを剥くのねって思ったけれど、あたたかい水を掛けられ優しく皮膚をこすられて、何がなんだかわからなくて逃げ出そうと必死だった。


「……憶えていたのか?」


でもそのひとは、わたしの着るものを用意してくれたの。あのダブルガーゼのワンピースと麻のサンダルは、産まれて初めてわたしのためだけに用意されたものだったわ。


そしてわたしに名前をくれたのよ。エルというのは、ヘブライ語で神を意味するんですって。


それからは毎日いろいろな所へ連れて行ってもらったわ。小川で初めて魚を捕まえたの。わたしの手のひらの小さな水たまりの中で飛び跳ねるものの名前が魚だって教えてくれた。


「そんな、昔のことを……」


わたしの剥いたジャガイモで、キッシュを作ってくれたのよ。わたし、食べ物があたたかいなんて知らなかった。


誕生日には必ずケーキを用意してくれて、決まって「好きなだけ食べてもいいんだよ」って言ってくれるの。わたしが嬉しいと自分も嬉しいと言ってくれたのは、そのひとだけよ。


わたしが九つの時、眠ろうとしたら激しく咳込んでしまって、そのひとは真夜中にも関わらず、わたしを抱いて診療所まで走ってくれたの。


「次の日、今日は一日寝てないとだめだよ、と言ってそのひとは夕方まで戻らなかったの」

「……」

「わたしね、教会で本を読んで知っていたのよ」

「……何を?」

「天使の話。そのひとは天使の中でも一番階級の高い熾天使(セラフ)で、その中でもさらに特別な天使だったの」

「特別……?」

「そう、翼が十二枚もある熾天使は、神と同じくらいの存在なんですって」

「……ノエル」

「その神と同じ存在である特別な熾天使はね」





「ちっぽけなこどもの命を救う、たったそれだけのために厳粛な掟に背いて罪を犯したのよ!」


── 違う……


「心がないですって? 何も持たないこどもの命と引き換えに、大きな罪を背負ったあなたの心が?」


── 違う。


「親にさえ棄てられた要らないこどもを見捨てたとしても、誰もあなたを咎めたりしなかったわ!」

「違う!! ちっぽけなんかじゃない! 要らない子なんかじゃない!」

「あなたの心はここにあるのよ、ルフェル」


そう言うとノエルはルフェルの手をおもむろに掴み、やわらかな膨らみを持つ自分の左胸に押し当てた。


「僕の……心……」

「そうよ、あなたの心……鼓動がわかる?」


やわらかな膨らみの奥から伝わる小さな振動。規則正しく伝わって来る鼓動を感じながらルフェルは思い出した。


あの日、震える手で生命の樹の実を絞った僕が恐れていたことは、犯した大罪が明るみに出ることではなく、目の前の小さな命を失うことではなかったか。


魂の記録を確かめに戻った時、胸に広がったのは罪悪感などではなく、この小さな命を失わずに済んだという安堵ではなかったか。



── ノエルが生きてそばにいてくれるなら、僕は悪魔に魂を売ってもいい。



「あなたがこのからだに与えた命を、わたしはずっと守ってるのよ」



何も要らない。他には、何も。


種族も、身分も、掟も、そのどれもが僕を止められなかった。立場を守る振りをして、聞き分けのいい振りをして、毎日美しくなって行くノエルに気付かない振りをして、やがて人間の男と恋に落ち、しあわせな家庭を築くことを願う振りをして。


この気持ちを、ノエルへの愛を、忘れるはずがない。忘れられるはずがない。



── 気が触れそうなほど欲しかったものは、いつだって隣にあった。



「……気付かなかったことを謝ったりはしないよ」

「いらないわ、そんなもの」

「この先ずっと……逃げ続けることになるかもしれない」

「かくれんぼも鬼ごっこも、わたし上手だったでしょう?」

「ある日突然、エデンに連れ戻されるかもしれない」

「そのときは、奪い返しに行くわ」


「ノエル、僕の……僕のものになってくれないか」


その言葉を聞いた瞬間、ノエルの琥珀色の瞳からぽとりと大粒の涙がこぼれた。


「……お馬鹿さんね、ルフェル。わたしはもうずっと昔から、あなただけのものなのに」



ルフェルは、まるで強く触れると壊れてしまいそうな宝物を扱うように、優しくノエルを膝に乗せ、それから蜂蜜色の髪を慈しむようになでながら、ノエルにそうっとくちづけた。ノエルのやわらかく熱を帯びた口唇に、ルフェルは気の遠くなるような感覚を覚える。ノエルの口唇は、こんなにやわらかだったろうか。


「強く抱き締めたら、壊れてなくなったりしないかな……」


ルフェルが少し不安そうに言うと、ノエルは「あなたのものなのよ」と囁くように応えた。


ルフェルはノエルの背に腕を回し、力一杯抱き締めた。ノエルのあたたかさに、やわらかさに、しなやかさに、ルフェルはめまいすら感じていた。


からだを覆っていた服をするりと滑らせると、窓から薄く部屋を照らしていた青い月灯りがルフェルのからだに影を作り、その形をくっきりと浮かびあがらせた。


すっと伸びた首から続く広い肩幅。鎖骨を境界に厚みを増す胸と、そこから徐々に細くなる骨ばった腰。銀色の髪は薄青く艶めき、白く輝く十二枚の翼はまるで奇跡のようにノエルを包み込んだ。


「あなたは本当に、何もかもが美しいのね……」


ルフェルの腕の中で、ノエルが愛しい声をあげる。


ノエルの額に、まぶたに、鼻先に、頬に、耳に、首筋に、ルフェルは口唇を優しく這わせながら、いままで抑えて来た恋心をひとつひとつ確かめた。もう、気付かない振りなどできない。


ノエルのやわらかな胸にくちづけると、もう世界にはふたりだけしかいないような気持ちになった。愛しく恋しいノエルが自分の腕の中で、そのしなやかな背を仰け反らせ甘い吐息を漏らす。


このまま……このまま死んでも構わない。


ルフェルはいままで知らずにいたしあわせと小さな痛みにからだを浸し、ノエルさえいれば他に何も要らないことを、思い知らされて行った。



ふたりの優しく、切なく、それでいて激しい営みを、月だけが遠くから静かに照らしていた。

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