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地上の愛  作者: 槙野 シオ
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ACT.7 ジョシュア - Joshua

「堕天するにはみっつ方法があるのさ」


ジョシュアの堕天を聞いたルフェルは、ある場所に向かうが……

いつものビルの屋上で空を仰ぎながら、ルフェルは久しぶりの休日を持て余していた。


何もすることがない。いや、正確には何もしたくない。排気ガスでどんよりと曇った空に長い溜息を吐きながら、ルフェルはかつて美しく輝いていた空や(きらめ)く小川、地上を彩る色とりどりの草花を思い出していた。


小さな村のあぜ道を歩きながら、井戸水を汲み上げる村人や畑を耕す耕人と言葉を交わし、お腹の大きな母親に頼まれ産まれ来る赤ん坊の名前を考え、牧場の牛の世話を手伝うこどもの、そのからだより大きな牧草の塊を、よろよろと運ぶ姿をはらはらと見守った、遠く懐かしい日々……





「……ェル……ルフェル、おいルフェル!」

「……やあ、トビー」


いつの間にか眠ってしまったルフェルは、トビーのただごとではない声に起こされた。


「やあっておまえ、のんきに眠りこけてる場合じゃねえだろ」

「何かあったのかい?」

「ジョシュアが……やっちまったんだ」


ルフェルは跳ね起きた。


「やっちまったって……何を!?」

「堕天したらしい」

「まさか……」


ルフェルは肩をすくめて苦笑いした。


「おれも詳しい話は知らねえが、エデンでは人間になったってもっぱらの噂だぜ」

「果ての森に追放されたはずだろう?」

「いや、大天使長の計らいで果ての森行きはなくなったんだ。相手の女も死んでるしな」

「だったら、地上にいるだけじゃないのか?」

「それが、ジョシュアの水晶が消えたらしいんだ」

「水晶を……水晶を持ち出せたのか!?」

「……?……持ち出してどうするんだよ」


天使の魂は、地上で(けが)れを帯びることのないようそのからだから切り離され、特殊な水晶の中に収められる。水晶は毎日エデンで浄化され、その浄化を担っているのが "水晶の間" であり、そこには現存する天使の魂を収めた水晶が、すべて並べられている。


ちょうど、鳥の巣のような棚に結晶が並んでいるのと同じように。ぱっと見ただけでは誰のものかわからないが、トビーの水晶もルフェルの水晶もその水晶の間にある。


もちろん、ジョシュアの水晶も。



「堕天するには三つ方法があるのさ」


ルフェルは言った。


「ひとつ目は神に背きエデンの掟を破ること。この場合は死罪、奈落への追放、果ての森送りのどれかになる」

「ふたつ目は地上にいる時 "裁きの刃" で自分の心臓を貫くこと。そうすれば人間としてその場で死ぬことができる」

「三つ目は……水晶の間から自分の水晶を見つけ出し、それを持って地上に降りること」


「……降りて、どうするんだよ」


トビーは恐るおそる訊いた。


「水晶を地面にでも叩き付けて割るのさ」

「割る!? 魂の入った水晶を!?」

「そう、そうすれば魂はその "持ち主" のからだに戻るんだ」


天使の魂は水晶に収められていて、からだには魂が入っていない。だから、どれだけからだを傷付けても痛みは感じないし、死ぬこともない。傷付いたように見えることはあっても、エデンで浄化されれば空っぽのからだは一晩もあれば綺麗に元に戻る。


しかしこの汚れた地上でからだに魂が戻ったらどうなるか。


「どうなるんだよ」

「エデンのような清浄な場所ではないから、まず寿命が縮む。とはいえ元々天使の寿命は長いから、人間として暮らすには充分だろう」

「ジョシュアは生命の樹の実を勝手に食って、永遠の生を得てたんだろう?」

「ああ、そのせいで階級を落とされたくらいだから、それは事実だろうな。だからあと六十年は生きられるんじゃないか?」

「そんなに短えのかよ」

「それから、痛みや苦しみを感じるようになるね」

「痛みや苦しみ?」

「いま、僕たちの魂は水晶に守られているから、このからだを傷付けても血の一滴も流れないだろう?」

「ああ、そうだな」

「その魂がからだに入ってるんだ。傷付ければ魂も傷付いてちゃんと血も流れる」


からだの中に戻ってしまった魂は、エデンで管理されている水晶のように浄化もされない。だから感情が蓄積されるようになり、そのせいで悩んだり苦しんだりするようになる。もちろん何かあれば病気にもなるし、事故に遭えば怪我だってする。


「人間になんかなったって、良いことなんざひとつもねえじゃねえか」


「……ジョシュアには……きっと人間になりたい理由があったんだよ」



それにしても、あのおびただしい数の水晶の中からよく自分のものを見つけられたものだな……とルフェルは感心した。百人の天使たちが仕えていても大忙しの水晶の間で、たったひとつを……



───



ルフェルはジョシュアのことが気になり、とある庭園を訪ねていた。


街路樹の枝葉の間からこぼれる陽の光は薄いカーテンのように小道を覆い、いつもは硬く響く靴音もここでは土と砂に吸収され静かな摩擦音を鳴らす。


庭園の入口にあるゲートの向こうにはテラコッタタイルが敷き詰められ、あたたかく落ち着いた雰囲気を感じさせた。小鳥のさえずりが聞こえるほど、のどかな空気に触れるのは久しぶりだな、とルフェルは目を閉じゆっくりと流れる時間に身を任せた。


こうしているとまるで昔と何も変わっていないような気さえして来る。やわらかな風がルフェルの銀色の髪をもてあそび、陽の光にあたためられた大地は足元を優しく包む。都会の喧騒をどこかに置き忘れて来たかのような静寂に耳を澄ますと、光の降り注ぐ音さえ聞こえるようだ。


閉じたまぶたの奥は懐かしい光景を見ていた。何にも代えがたいしあわせな日々と……それから……



近付いて来る足音にルフェルはそうっと目を開け、耳だけでその足音との距離を測った。足取りは重く引きずるようだが急いでいるようにも感じる。上着のポケットに両手を突っ込み、入口で立っている背の高い人影がルフェルだと気付いたジョシュアは、慌てていま来た道を戻ろうと向きを変えたが、ルフェルのひと言がそれを止めた。


「割ったのか!」


ルフェルの言葉にジョシュアは立ち止まり、たっぷりと時間を掛け振り返った。ゲートに背を預けジョシュアを見るルフェルの表情は穏やかで、自分を(とが)めに来たのではないことを悟ったジョシュアは安堵のため息をひとつ漏らすと、ゆっくりルフェルへと向かい歩いて来た。


「やあ、ジョシュア。もう水晶は割ったのかい?」

「割ったよ。持ち出したその日に」

「そうか……気分はどうだい?」

「天使のときより、ずっといいよ」

「階級を落とされる覚悟で生命の樹の実を食べるほど、永遠の生を望んでいたのに?」

「……カーラに逢う前の話だ」



園内の細く緩やかな坂道を歩きながら、ルフェルはいろいろな姿で佇む墓碑を静かに見ていた。綺麗に手入れされたものもあれば、雑草に絡め取られ放置されたままのもの、見向きもされずひび割れたものや、おもちゃが賑やかに置かれている小さなもの。


ジョシュアは白い御影石で作られた墓碑の前で立ち止まると、そこに刻まれた文字を愛おしそうに指先でなぞり、それから深紅のストックの花束をそうっと手向けた。


「この中でカーラが眠ってるんだ」

「……結晶を……入れてあるのかい?」

「そうだよ。あの散りぢりになった砂粒をね」

「もう人間になってしまったのなら、エデンの領域じゃあないな」

「ああ。僕はこれから死ぬまでの間、毎日カーラに花を届けるんだ」

「いい考えだ」


ひざまずき目を閉じたジョシュアは、そのまましばらく動きを止めた。きっとカーラに話したいことがあるのだろう……ルフェルは音を立てないよう、少し離れてその姿を眺めていた。


人間との恋に落ちエデンの掟に背いたジョシュアの罪を、たったひとり笑顔で引き受け、二度と産まれることのなくなったカーラ。


あの時現れたのがミシャでなければ……主天使(ロード)クラスの天使であったなら、ジョシュアはエデンに連れ戻されても、カーラが砂粒にされることはなかった。


いや、手帳に死因が記されていなかったことも、あの場にミシャが現れたことも、すべてが最初から決められていたことだった。裁きの刃を突き出したミシャの手が、小さく震えていたことにジョシュアは気付いていただろうか。


突き出された裁きの刃を何のためらいもなくジョシュアが受け取ったなら、きっとミシャはそれを咎めただろう。そのためにミシャは来たのだ。ジョシュアを止める、そのために。神々の不安と警戒を拭う勤めを課されたミシャは、忠実にその責を果たしたに過ぎない。あの悲劇が繰り返されることのないよう、第二の(ルフェル)を生み出さぬよう。



── カーラの魂を消滅させたのは……僕だ。



「なあルフェル、きみは特級の熾天使(セラフ)としてエデンの天使を統べていたようだけれど」


カーラとの会話を終えたジョシュアは立ち上がり、白い御影石から視線を外すことなくひとり言のように続けた。


「人間との恋に落ちた天使を……咎めたことはなかったのか?」

「もちろんあったさ。それも数え切れないほどにね」

「その中の天使が科された、一番酷い罰は何だった?」

「……さあ、どうだったかな」


ルフェルは御影石の上に手向けられたストックの花束を見ながら、もう二度と叶うことのないジョシュアの想いに、愛する者を遺して行かなければならなかったカーラの想いに、胸が潰れそうなほどの悲哀と後悔を覚えていた。赤いストックの花言葉は……


── 永遠に続く愛の絆。





「すまない、今日はもう時間がないんだ」


ジョシュアはチラと腕時計を確かめて言った。


「何か約束でもあるのかい?」

「カーラが働いてた花屋で……働いてるのさ。そろそろ休憩時間が終わる」

「そうか、きっとカーラも……喜んでくれてるだろうね」


細く緩やかな坂道をくだり、庭園の入口で別れを告げると、ジョシュアは木漏れ日のカーテンの中を静かに歩き出した。人間になったジョシュアのあかぎれだらけの手は、カーラと同じ痛みを感じていることだろう。永遠を生きるより人間として、カーラの分まで生きようと決めたジョシュア。


その時、ふとジョシュアは振り返りゲートの前で立ち尽くすルフェルに向き直した。


「きみはなぜ……果ての森を選んだんだい? 水晶を割ることだってできたはずだったのに」



……選んだわけじゃない……それ以外、方法がなかったのさ……

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