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地上の愛  作者: 槙野 シオ
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ACT.5 ふたり - Close

怪我をした動物かと思っていたそれは、小さなこどもだった。


言葉を解さないこどもの母親は夫を手に掛け自らの命を絶って、いまは果ての森にいた ──


「どうかルフェル、あの小さなこどもを守ってあげてちょうだい」とディオナに託されたルフェルだったが……

「ノエル、お願いだから出て来てくれないか」


朝からルフェルは焦っていた。


ベッドで眠っていたはずのノエルの姿がない。居間はもちろん、寝室も書斎もキッチンも浴室に至るまでくまなく探したが、見つかるどころかその気配すら感じられないのだ。おやつや遊びなどの甘い誘惑で釣ろうとしたところで、言葉を理解しない彼女にとっては単なる雑音に過ぎないだろう。


他人に対し募らせた恐怖心や不信感を、そう簡単に払拭できるはずがない、と部屋を分けたのがまずかった。自分の存在や視線が気になり落ち着いて眠れないようでは困ると思ったルフェルは、居間に簡単なベッドを作った。何かあればすぐ隣の寝室からもわかるだろうと思ったが、まさか自分が気付かないとは思っていなかった。


熾天使(セラフ)の持つ特異な能力など露ほども役立つことはなく、神経を集中させようにも立ちはだかる不安と焦りが絶え間なくルフェルの冷静さを奪って行く。勝手を言って預かり、ディオナに託されたという責任感も相まって、ルフェルはあってはならないこの現状に困り果て、頭を抱えしゃがみ込んだ。


すると、居間にある本棚と壁の隙間の、ちょうど開いたカーテンが重なり溜まっている部分が……わずかに動いた。いや、小さなこどもとはいえいくらなんでもこの狭い隙間には……と思いつつ、一縷の望みを懸けルフェルはそうっとカーテンを持ち上げた。


そこには、カーテンの端を掴み硬い床の上で丸くなって眠るノエルの姿があった。


いままでの不安と焦りから一瞬にして解放されたルフェルは、全身の力が抜けて行くような感覚と胸に広がる安堵感を初めて知ったと同時に、部屋の隅で隠れるように眠るこの小さなノエルの境遇を嘆いた。きみが生きるために得たことは、こんなに悲しいことなのか? 硬い床の上でからだを丸め、せめてカーテンを掴み安らぎを求めるような……



ルフェルはしゃがんだまま、ノエルの寝顔を見ていた。蜂蜜色の髪、透き通る白い肌。天使の子と見紛(みまご)う愛らしさを持ちながら、それ以外のものを何ひとつ持たない小さなノエル。まるで鉛でも飲み込んだかのようにルフェルの胸はずしりと重くなった。


やがて朝陽のまぶしさにぎゅうっと目をつむり、小さな手でその目をこすりながら、ノエルはルフェルの姿を見つけ飛び起きて硬直した。しかししばらくルフェルの顔を見つめたあと、そうっと近付いてノエルはルフェルの頬を拭った。



── このとき初めてルフェルは、自分が泣いていたことを知った。



「……おはよう、ノエル」

「う あー あー」

「きみがいなくなったかと思って随分と探したんだよ」

「ぁ うう」

「いてくれて……本当によかった……」


しゃがみ込んでうつむくルフェルの周りを、ノエルは少しずつ場所を変えては不思議そうに眺め、それから一向に動く気配のないルフェルの頭をその小さな両腕できゅうっと抱き締めた。思いもよらない出来事にルフェルは驚いたが、いきなり動くとまたノエルを警戒させると考え、しばらくそのまま動かずにいた。


抱き締められた頭はとてもあたたかかった。



───



ノエルはきょろきょろと周りを確かめると、椅子を引きずってその上によじのぼり手を洗った。それから椅子に腰をおろし、小さな手でナイフを動かしながらじゃがいもの皮を剥き始めた。まだ四、五歳の幼い手には大き過ぎるじゃがいもを、落とさないよう何度も掴み直しては黙々とナイフを動かす。


なるほど、あの女が言っていたように村の家々をたらい回され、叱責される前にこうして仕事をこなすことで命をつないで来たというわけか。さしずめこの僕の棲み家も、彼女にとっては次の牢獄といったところだろう。ルフェルはノエルの頭を優しくなでると「ありがとう」と言い、小さな手で一所懸命むいてくれたじゃがいもでキッシュを作った。



テーブルに置かれたキッシュを見て、それからノエルは少し離れた所でまたきょろきょろと周りを確かめた。「ノエル、おいで」そう言って優しくノエルを抱き上げ椅子に座らせると、ルフェルは目を閉じ手を合わせ食事の前の祈りを捧げる。ノエルにその意味はわからなかったが、慌ててルフェルと同じように手を合わせた。


そしてルフェルからスプーンを渡されると、ノエルは焼き立てのキッシュの前でスプーンを持ったまま、どうしていいかわからず戸惑っていた。


……まさか、テーブルで食事をしたことがないのか?


ルフェルはキッシュをひとくち食べてからノエルの顔を見て、同じようにするんだよ、とスプーンを動かして見せた。ノエルは握り締めたスプーンをキッシュに突き立て、恐るおそる口に運ぶとキッシュの熱さに驚き、それから大急ぎでそれをかき込み始めた。


「ノエル、おかわりもあるしキッシュは逃げたりしないから、ゆっくり食べても大丈夫だよ」


一体いままでどんな所で何を食べていたんだ。目の前で食事を貪る小さなこどもは、まるで数日ぶりに獲物にあり付いた獣のようではないか。


ルフェルは暗澹たる思いと共に、この愛らしく不運なこどものしあわせの行方を握るのは、自分なのだとあらためて思った。そして、満足そうな顔でスプーンを置いたノエルの口の端についたキッシュを、優しく指先で拭った。



───



その夜、ルフェルはノエルのため居間に作った簡単なベッドを、寝室へと移した。今朝のような思いをするくらいなら、多少の無理を通してでも見える場所にいてくれたほうがいい。ノエルをベッドに寝かせ部屋の灯りを消すと、ルフェルは自分のベッドに転がりノエルの姿が見えることを確認し、目を閉じた。


間なしに、ノエルがベッドから降りる気配を感じ、ルフェルはやり切れない気持ちになった。やはり身を隠せる場所のほうが安全だと感じるのか。いや、まだここへ来てたった二日なのだから、彼女にとってはそれが当たり前なのだ。いまはノエルを見守ることに徹しよう、と目を開けると……自分のベッドによじのぼるノエルと目が合った。


「……ノエル?」


ノエルはルフェルの首にしがみ付くと、言葉にならない声で何かを懸命に訴えた。震えながら窓を指し首を左右に振り続ける。もしかして部屋の暗さが怖いのか? 腕を伸ばしカーテンを開けると、青白く仄明るい月灯りが部屋をひっそりと照らす。ノエルは少し安心したようにルフェルの左腕に頭を乗せ、胸に背をぴったりと押し付け丸くなった。


昨日あの狭い隙間で眠っていたのは……カーテンの向こうにある月灯りを求めていたのか。


「……気付かなくてごめんよ、ノエル」


ひとり暗闇のなか眠ることが、どれほど心細かっただろう。ルフェルは自分の胸に背を預け丸くなる小さなノエルを、右腕で優しく抱き締めた。ノエルは自分を抱き締める腕を小さな手で確かめながら、その先にあるひと差し指をきゅうっと握り、そのまま眠りについた。



───



次の日から、結晶の器を探すときもノエルを連れて行くことにした。外の世界でいろいろなものに触れたほうが、言葉を覚えるにも知識を増やすにも刺激されるものが多く、感情の成熟を助けると考えたからだ。何より昨日のことを思えば、ひとり家に残しておくことなどルフェルには考えられなかった。


本棚と壁の隙間に入り込み、硬い床の上で丸まっていたノエル。


自分の胸に小さな背を押し当て、指を握り締め眠ったノエル。


いまノエルを守れる者は自分しかいない。ノエルが頼れる者は自分だけなのだ。預かった義務感や託された責任感などではないひとつの気持ちが、ルフェルの中で生まれ、育っていた。



一日の仕事を終え家へと帰る途中、川沿いに続く小路を歩いていたルフェルは、ふと足を止めた。


「ノエル、見てごらん。小魚が跳ねてる」


やわらかく降り注ぐ夕陽をきらきらと川面が照り返し、時折小さな魚が跳ねては水しぶきに光を含ませ辺りに振りまく。その様子を熱心に見ていたノエルは、ルフェルの腕の中から大きく身を乗り出し「うう! あー!」と何かを訴えた。ルフェルが抱いていた腕をほどきノエルを立たせると、しばらく小川の淵で(きらめ)く水しぶきを眺め、それからそうっと小川に足を踏み入れた。


跳ねる光を捕まえようと小さな腕を振り回すその姿は、どこにでもいるこどもと何ら変わることなく、足をなでて行く小川の流れを、飛び散る水しぶきを、心地よい水の冷たさを、全身で感じること以外すべて忘れているように見えた。ルフェルは夢中になって遊ぶノエルの生きいきとした顔を、嬉しそうに見守った。


しばらくすると、ノエルが大きな声をあげた。驚いたルフェルが慌てて近寄ると、ノエルは両の手のひらの上に小さな魚を乗せていた。小さな手のひらで作る水たまりの中で、小さな魚はピチピチと飛び跳ね暴れた。


「ノエル、すごいじゃないか! 魚っていうんだよ。さ・か・な」

「ぁ ぁーなぁ」

「そう、さかな、だ」



ノエルはやっと捕まえた "さかな" を、そうっと小川へ返した。


一所懸命に自分の手で捕まえた魚だ。持って帰りたいと言い出すこともあるだろう、と思っていたルフェルは驚いた。そうなれば、命あるものだから水に返すよう言うつもりでいたが、持って産まれた感覚なのか、それともまだ幼くてこだわりがないのか。どちらにせよノエルの思いを咎めずに済み、ルフェルはほっとしていた。


ずぶ濡れになったノエルを抱き上げ「さあ、もう帰る時間だ」とルフェルは家へと歩き出した。


ノエルは「あーあーな」「あーぁーなぁ」と何度も何度も繰り返した。なんて飲み込みが早いんだ、と嬉しくなり、ルフェルはノエルをぎゅうっと抱き締める。するとノエルも小さな手でルフェルの腕にきゅうっとしがみ付いた。



───



結晶の器を探しながら市場や露店で賑わう村の中心部を歩いているとき、条件の良さそうな女をひとり見つけた。年齢は二十二歳。健康状態は見たところ悪くはなさそうだ。前世も……果ての森ではない。伴侶との信頼関係や家計の状態、近所の評判に親族の品格などはわからないが、最低限の条件は備えている。そのとき、あとでディオナに伝えに行こうと思っていたルフェルの翼を、ノエルが掴んだ。


「だ え……ルへる」

「……どうしたんだい?ノエル」

「だ え」

「……だめ?」ルフェルがそう訊き返すと、ノエルはこくりとうなずいた。

「なぜだい?」


ノエルは黙って目の前を指した。目の前にあるのは……診療所だ。


ルフェルはノエルの言うことが気になり、診療所から出て来た "素材" とすれ違った。からだの芯に……黒い固まり。単なる怪我や風邪などではない。近くをすり抜けただけでもそれとわかるほどの闇の気配。いまは健康そうに見えるが、多分あと数か月の命だろう。彼女のからだは、細胞が侵され始めていた。


「ノエル……なぜそれがわかったんだい?」

「あん とあ う」


……何となく。


やはりノエルには何か不思議な力が備わっているような気がする。あの小魚のときのような、命に関する理がわかっているかのような。


ノエルがいると結晶の器探しは以前より捗るようになった。ノエルがうなずけば健康、首を横に振れば不健康。わざわざ "素材" の近くまで行って神経を研ぎ澄ませる手間が省けた。それはルフェルの負担を減らし、地上に産まれる新しい命が増えることに大きく貢献した。



───



ノエルは利口で賢かった。言葉を覚え、文字を覚える速さも、まるで乾いた砂があっという間に水を吸い込んで行くかのようだった。賢いノエル。優しいノエル。しかし大きな物音と暗闇だけは、苦手なままだった。


ルフェルの左腕に頭を乗せ、右手のひと差し指を握ったまま、胸元に小さな背を隙間なく押し当て丸くなる。窓から入り込む青白い月灯りが部屋をひっそりと照らす中、聞こえるのはノエルの鼓動だけだった。静かな夜を安心して眠るノエル。ルフェルは自分の指を握ったまま眠る、この小さなこどもをしあわせにすると毎晩誓った。



「この子を、しばらく預かっても構いませんか?」と連れ出したノエルには誕生日がない。否、天空で管理されている結晶の記録を調べれば、即座にその答えはわかる。


しかし、ノエルの両親の行方を調べたときに味わった絶望感と罪責感、不快感、罪悪感、喪失感、不信感、閉塞感、無力感、そして何より激しい憤りを覚えたことにより、ルフェルはあの両親とノエルとのつながりを積極的に見つける気にはなれなかった。


自分勝手で愚かな人間の犠牲になった証など、僕のノエルには必要ない、とさえ思うほどだった。だから、ルフェルはノエルを預かったその日を、誕生日として祝うことにした。今日は二度目の誕生日だ。ノエルは多分六歳になる。


「ノエル、誕生日おめでとう」


ルフェルはそう言うとノエルの目の前に、クリームで可愛らしく飾られたケーキを置いた。


「わあ ルフェル ありがとう!」


ノエルはルフェルに抱き付くと頬にやわらかくキスをした。ルフェルはノエルのやわらかなキスが大好きだった。


「さあ、切り分けようか。ノエルが好きなだけ食べていいんだよ」



ルフェルはノエルとの暮らしを愛していた。小さなノエル。可愛いくて賢いノエル。お互いが無条件に愛を注げる相手。もしかしたら母親というのはこういう気持ちなのかもしれないな、とルフェルは思った。


「僕は母親じゃなくて、父親か」ルフェルは自分の考えがおかしくてクスリと笑った。

「ルフェル なにか うれしいの?」

「うん、毎日が嬉しいんだよ」

「ノエルも まいにち うれしいよ?」

「ノエルが嬉しいと、僕も嬉しいよ」



ルフェルはこのまま、いつまでもノエルとの愛すべきしあわせな時間が続くことを願った。

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