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地上の愛  作者: 槙野 シオ
2/16

ACT.2 シャーリーとカーラ - Shirley & Carla

「残念ながら、僕たちには人間の言う "感情" というものがないんだ」


地上で失われた人間の魂を光のドアへと導く"魂の案内人" は、感情を持たない天使だった。

亡くなる直前に "最期の願い" を叶えるとはいうものの、叶えてくれるのは "いまのきみの状態でできること" に限られると天使は言う。


予定通り病室に現れた天使に、彼女が願うこととは ──

「そろそろだな」


白い壁、白い床、白い天井。窓に掛かるカーテンも白く、備え付けのロッカーやベッド(わき)のサイドボードもまったくもって白い。不浄なものなど塵ほどもないといわんばかりの真っ白な病室。白いベッドには、腕に隙間なく管を着けられ青白い顔をした患者が横たわっている。



「僕の声が、聞こえるかい?」


ルフェルはベッドで微動だにしない患者に声を掛けた。ベッドの上の少女が薄っすらと目を開く。


「……お迎えが……来たのね?」

「いいかい? 一度しか言わないからよく聞いて。きみはいまからこことは別の場所に行くんだ」

「……そう……やっとその日が……」


少女はそう言うや否や、薄っすらと開いた目から一筋の涙をこめかみに這わせた。


「迎えに来てくれて……ありがとう」

「いまのきみの、一番の願いはなんだい?」

「願い……?」

「そう、願いだ。僕はいまきみの "最期の願い" を叶えるためにここにいる。ああ、もちろん死にたくないとか、億万長者になりたいとか、そういった願いは叶えてあげられないんだ。叶えられるのは "いまのきみの状態でできること" だけ」

「わたしの願いは……このまま静かに死ぬことよ」

「最期に逢いたいひとはいないかい? 最期に見たい場所とか」

「……ないわ」

「本当にそれでいいのかい?」


ルフェルに念を押された少女は、目を閉じて何か考えているように無言になった。それから数秒ののち、ゆっくりと血の気のない口唇くちびるを動かした。


「わたしはシャーリー。最期の願いに、少しだけ話を聞いてくれる?」

「もちろんだよ」

「……わたしは、小さな頃から病弱で入退院を繰り返して来たの」

「うん、どうやらそのようだね」

「パパもママも、それは苦労したのよ。わたしの入院費や手術代を稼ぐために、一所懸命働いてくれたわ」


シャーリーは腕の力を頼りにゆっくりと上体を起こし、ベッドの上で座り直すと話を続けた。無論、シャーリーの実体はベッドに横たわったままだが。


「余命を宣告された以上、もうパパとママに迷惑を掛けたくないの」

「パパもママもきみを愛してるよ」

「ええ、だからこそ、よ。わたしが生き続けている限り、莫大な治療費は途切れることなくかさんで行くもの」


シャーリーはルフェルの左手を両手で優しく包み、愛しそうに頬を寄せた。


「これでもう……パパもママも楽になれるのね……」


透き通るように白く細い腕で、ルフェルの左手を優しく包んだままシャーリーは言う。


「さあ、わたしを最期の場所まで連れて行ってちょうだい」



───



光るドアを開けると、シャーリーは自ら進んでその中に入って行った。右足が地面をとらえた途端、シャーリーのからだはまばゆい光を放ち、一瞬、ふわりと空気を揺らしてから結晶となって地面に転がった。まるで「ありがとう」とでも言ったかのように、(きら)めく空気を揺らして。



「……なぜだ」


ルフェルは地面に転がった結晶をそうっと拾い上げ両手で包み込むと、不思議そうにその結晶をしばらく眺めていた。十八年も生きていれば少なからず、いや、ある程度の経験からさまざまな感情が芽生えていたはずだ。しかしシャーリーの結晶は "無色透明" で、何の生き様も感情も読み取ることができなかった ──



「無垢な魂だったのね」


「……ディオナ」


結晶を手にしゃがみ込んだままのルフェルの後ろから、凛と澄みそれでいて穏やかな声が聞こえた。くるぶしまで届く長い黄金色の巻き毛をふんわりと躍らせながら、ディオナはルフェルの前にひざまずき、ルフェルの手で、さも愛しそうに包まれている無垢な結晶に、いままで人間として生きて来たことに対する愛を伝えようと優しく触れた。



「……ルフェル、この結晶は……使えないわ」

「なぜです?」

「この結晶は……同じ運命をたどるからよ」

「同じ運命?」

「……そう。儚げに散って行く、可哀相な運命を背負った魂だから」

「その結晶に運命を吹き込むのはディオナ、あなたのお役目では?」


ディオナは深い海の(あお)を写し取った瞳に、ほんの少しの陰りを(うかが)わせながら、ルフェルの手から無色透明で(はかな)げに光を放つ結晶をそうっと取り上げると、今度は自分の両の手のひらで包み込んだ。


「ルフェル、あなたはこの結晶に何か特別な執着を持っているようだから正直に話すけれど」

「執着、というほどのものではありません。ただ、なぜか不思議な感じがするだけで」


ディオナは、美しく儚げな光を放つ数多の結晶が並ぶ鳥の巣のような棚の前で(きびす)を返し、向かい合わせになっているもうひとつの棚の前に足を運んだ。


「ディオナ!?」


結晶の間にあるもうひとつの棚には、青い結晶も、紫の結晶も、虹色の結晶も並んではいない。無機質な鈍色(にびいろ)の艶を帯びた鉄製の棚にあるのは、漆黒のような闇色の結晶や、ひびの入った透明な結晶ばかりだった。


ディオナがその棚に触れると、棚は緩やかにその結界を解き真鍮の取っ手をあらわにする。


「なぜだ、ディオナ!」


「よく聞きなさい、ルフェル。この結晶はね、その昔ネフィリムの魂だったものよ」


ルフェルはディオナの手から結晶を取り返そうと右手を伸ばした体勢のままで硬直した。


「な……」

「あなたはまた、ネフィリムを産ませたいの?」

「そんな……まさか彼女が……シャーリーがネフィリムの産まれ変わり……?」

「わたしの見極めが甘かったわ……今度こそしあわせになれると思ったのだけど……」


ディオナは無色透明な、元はシャーリーだったはずの結晶を鉄製の棚の端にことりと置いて静かに扉を閉めた。それから誰にも触れられぬよう、棚の扉にふっと息を吹きかけもう一度厳重に結界を張った。


「またしばらく……ここで純化されるのを待つことになったわね」


結界が張られた棚からはたちまち取っ手が消えてなくなり、開くことはできなくなったが前面のガラスから中を窺うことはできた。ガラス越しに見えるシャーリーの結晶は、儚く慎ましやかな光をそうっと放ち続けている。二度と産まれ直すことのできない結晶が並ぶ棚。ルフェルはシャーリーの結晶から目を離すことができずにいた。


そのルフェルの戸惑いと寂しさ、目を逸らせずにいる "本当の理由" を知るディオナは、浅い溜息をひとつ()いて、まるで小さなこどもを諭すようにルフェルの顔を覗き込んだ。


「ルフェル。一度堕ちたあなたに、二度目はないのよ」

「わかっています」

「わかっているのならどうかお願い、このままおとなしくここにいてちょうだい」

「……」

「ルフェルお願い、わたしの力にも限界があるのよ」

「……わかって……います」



───



その夜、ルフェルはいつものビルの屋上で静かに空を仰いでいた。いつまで経っても眠らない街の灯りと排気ガスで汚れた空気が、そこにあるはずの数多の星を隠してしまう。そこにあるのに目に映らないものは、きっとないものと変わらない。シャーリーの心は……どこにあったのだろう。



"産まれてはいけなかったネフィリムの魂" のことを考えると、胸の奥底に深く突き刺さったままの(くさび)(うず)いた。



───



── 今日も仕事だ。


ルフェルは手帳を確認すると、ある妙なことに気が付いた。


「……死因が、ない?」


おかしなこともあるものだと思いながら、ルフェルは現地に向かった。



「そろそろだな」


しかし、指定されたそのアパートには、人間の気配も匂いも、いままでの暮らしを感じさせる温度も何もかもがなかった。乾き切ったキッチンシンク、ただそこにあるだけのテーブル。整えられたベッドのシーツには、一筋のシワすら見当たらない。


手帳に間違いはない。天空にいる天使たちによってスケジュールの管理は完璧なはずだ。


「何かが、おかしいな……」


部屋の様子を確かめながら、手帳どおりであれば、あとほんの五分ほどで僕はひとつの魂をドアの前まで連れて行かなければならないはずだ、とルフェルはもう一度手帳を確認し、現場になるであろうキッチンへと戻った。



ギ……と(かす)かな音を聞いて振り返ると、目の前に現れたのは黒尽くめの天使だった。



「……ジョシュア、なぜきみがここに?」

「ルフェル……頼む、見逃してくれ!」


まさか、仕事がかち合ったのか? 随分と長くこの仕事をしているけれど、システム手帳に間違いがあったことなどただの一度もない。いや、その前にジョシュアはいま何と言った?



軽く混乱したルフェルがジョシュアに詰め寄ろうとした時、その背後からおずおずとひとりの女が姿を現した。艶やかな黒髪を肩の高さで丁寧に切り揃えたその女は、少しばかり痩せてはいるものの顔色も良く "健康" そのものに見えた。


「ジョシュア……?」

「忘れ物を取りに来ただけなんだ、いまは目をつむってくれ」

「……まさか、ふたりで逃げるつもりなのか?」

「堕天までの時間を稼ぎたい」

「逃げられるわけがない……現に手帳にはこうして記され、僕はここに来た」

「だからこそ一秒でも早くこの場を立ち去りたいんだ」

「きみの気持ちはよくわかる……しかし」

「気持ちがわかるのは当然だろう!?」


ルフェルには二の句が継げなかった。



── ここでいま僕が目をつむって、僕が(とが)められるだけで済むのなら構わない。しかし、たとえ世界の果てまで逃げることができたとしても、その世界の果ては神の創った庭の一角に過ぎないのだ。


「ジョシュア、僕は」


言い掛けてルフェルは、いままで部屋に流れていた空気が凍り付いたように動きを止めたことに気付き、すべてが手遅れだということを悟った。ジョシュアも……天使である彼も気付いているだろう。


すうっと部屋の温度が下がり、空気に含まれた水分が細やかな氷の粒となって煌めきながら降り注ぐ。主天使(ロード)たちがジョシュアを天空へと連れ戻すために、神々の言葉を携えて来たか……そう思いながら、ルフェルは降り注ぐ氷の粒がやむのを待って、立ち昇る冷気の中の影に目を凝らした。



── まさか……



「大天使長さま……!」

「ジョシュア、貴様……よもや天空の法度(はっと)を忘れたわけではあるまいな」

「……もちろん、忘れるはずなどありません」

「ならば選べ。このまま天使として永遠を生きるか、 "裁きの刃" でもって "人間" となりこの場で絶えるか」


天空の天使を()べる大天使長ミシャは、焦土の炎のように灼熱した怒りをその瞳に宿しながら、凍土の氷のように冷たく寒々しい表情を崩すことなく、ジョシュアに向かい裁きの刃を突き出した。


天使が人間との恋に落ちることは絶対禁忌だ。


控えるように、といった努力義務などではなく、程度によっては天空を追放されることすらある重い罪なのだ。しかし、神々と直接の対話を許された上級三隊の、それも第一級の身分である大天使長が御自(おんみずか)ら地上に降り立たねばならないほどの問題ではないはずだ。


「……大天使長」


ルフェルはミシャの突き出した裁きの刃を手のひらで優しく咎めながら、一旦収めてくれるよう訴えた。


「ほんの少し、数分でいい。ふたりに時間を許してはいただけませんか」

「無駄だ。その数分で何が変わるというのだ」

「変わらないからこそ、必要な時間なのです」

「……いいだろう。急いても結果が()くなるわけではないからな」



事態が飲み込めない黒髪のカーラは、いま目の前で起こっていることが、夢なのか現実なのかすらわからなかった。ジョシュアに言われこの土地を離れる準備はしたけれど、堕天までの時間? 永遠を生きる? 裁きの刃? 人間になる? そして何より、背中から六枚もの翼が生えているこの女性は何?


「ジョシュア……これは一体、どういうことなの?」

「……隠すつもりはなかったんだ」

「いいえ、隠してたことを咎めてるわけじゃないわ」

「僕はあの日……きみを迎えに来た」



囁くように、つぶやくように、時折のどを詰まらせながら、ジョシュアはすべてを打ち明けた。


自分が天使であること、人間に恋をしてはいけないこと、天使が人間になる方法、裁きの刃の使い方、それから、自分がどれだけカーラを愛しているのか、を。カーラは静かに耳を傾けながら何度も(うなず)き、話を聞き終えた時には穏やかでしあわせに満ちあふれた笑顔を見せた。


「ジョシュア、ありがとう。わたしを見つけてくれて」

「……きみを、死なせたくなかったんだ」

「ええ、わかってるわ。車に()ねられそうになったわたしを、助けてくれたのはあなただもの」

「カーラ……愛してるよ。絶対、きみを忘れたりしない」

「わたしもよ。だからあなたは、生きてちょうだい」



── 次の瞬間、ミシャの右手がカーラの額をなぞった。



カーラは一瞬にして真っ赤な結晶となり、フローリングの床にころころと転がった。


「ジョシュア、貴様に "果ての森" 護りを命ずる」


ミシャは無慈悲にそう言い放つと、フローリングに転がった結晶を拾い上げようとしたルフェルを制した。


「触るな。 "地上" に落ちた結晶はすでに(けが)れを帯びていて使いものにならん」


ミシャはその赤く輝く結晶を指先で拾い上げると片手に収め、ジョシュアの目の前で砂状にして指の間からサラサラと床に撒き散らした。


「……死因がなかったのはこういうことだったのか」

「まったく、愚かなことを考えたものだ」


苦々しくそう吐き捨てると、ミシャはすうっと姿を消した。



───



「……カーラは」


ジョシュアはしゃがみ込み、床に撒かれた、元はカーラの結晶だった赤い砂を、手のひらで寄せ集め始めた。


「カーラは、小さな花屋で働いていたんだ」


静かな声で語りながら、時折場所を移し、赤い砂を一箇所へと集める。


「毎朝早くに店へ行って、市場から送られて来た切り花の水揚げをして、それから植木鉢に水をやるんだ」


ルフェルはジョシュアから目が離せないまま、黙って耳を傾けた。



カーラはまだほんの小さな頃、両親を事故で亡くし施設に預けられた。それでもカーラは "パパとママが大好きだった笑顔" を絶やさぬよう、どんなに寂しくても明るく振舞っていた。


十五になり施設を出るその日まで、カーラは一度も泣かなかったんだ。


初めて自分の部屋を持ち、初めて仕事に就いた夜、カーラはね、両親の写真を見ながら笑顔で言ったよ。


「パパ、ママ、いままで守ってくれてありがとう。わたしはもう大丈夫だからね」と。


その時、ぽとりと写真にね、一粒涙が落ちたんだ。僕にはそれが忘れられなかった。


来る日も来る日も切り花の水揚げをして、植木鉢に水をやって、庭木に虫が付いていないかどうかを確かめ、ゴムの木やモンステラの葉を一枚一枚丁寧に拭き、あかぎれだらけの指先は痛かっただろうに、いつだって彼女は笑顔でサボテンやハーブに話し掛けながら、懸命に働いた。


そんな彼女が、どうして事故になんか遭わなくちゃならなかったんだ。


僕には耐えられなかった。あの涙を見てしまったから。


人間の運命を変えるだなんてそんな大それたこと、禁じられていることくらい骨の髄まで沁み込んでるさ。でも、止められなかったんだ。車に撥ねられそうになったカーラを僕は全力で突き飛ばしていた。転んだ彼女は膝を擦りむいたけれど、それでも生きていたんだ。



── 本当は彼女を光のドアへ案内しなくちゃいけなかったんだけど。



「でも、やっぱり僕が間違ってた」


部屋に舞い散った砂のほとんどを集めると、ジョシュアの声が少し震えた。


「あの時……光のドアへ案内していれば、カーラは結晶となって産まれ変わりを待つことができたんだ」


集めた赤い砂を、今度は自分の手のひらに移しながらジョシュアは続けた。


「もう二度と……彼女の魂は産まれることがなくなった。こんな砂粒になってしまった。産まれ変わった彼女は、もしかしたらいまよりずっとしあわせになれたかもしれないのに。それを、その未来を、僕が奪った」

「ジョシュア……自分を責めても何も変わらないよ」

「彼女が一体何をした!? 僕は一体何をしたんだ! 何の権利があって彼女の魂を消滅させた!?」


ジョシュアは手のひらの上で、それでもなお煌めき輝く砂粒を見つめながら叫んだ。


「僕が人間になって死んで、それでも彼女が生きて行くなら僕はそれでもよかったんだ!」



── ルフェルの胸の奥底で楔が疼く。まるで、おまえの罪の()()はここだと言わんばかりに。



ジョシュアは "果ての森" へ行く。何年か、何十年か。神々の赦しを得られるその日まで、彼は果ての森をさまよい続けるだろう。


ルフェルにはそれが憐れでならなかった。

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