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第2話 母の死


 峠を越えると海原の景色と共に懐かしい匂いが届いた、潮の香りだ。


 私の生い立ちは珍しいものではない。何処にでもいる、漁村の、貧しい海女(あま)の娘だ。姉妹も居たが大人になる前に皆死んだ。父は産まれた時から居なかったので、今残っている私の家族は母さんだけだ。


 あの日が来るまで私は本当に普通の少女だった。魔法も知らなかったし、顔だって今のような酷いものではなかった。泳げるような年になれば海藻(かいそう)や貝を取りに海へ行き、よその海女の縄張りに間違えて入って怒られたり、よく日に焼けた近い年の男の子に恋をしたり、それで祭りの日に一緒に踊ったり…そんな思い出しかない、ありきたりな子供だった。


 厳しくも間違ったことは決してしない母と共に生きていた。波が穏やかな日も激しい日も、海が温い日も刺すように冷たくなる日も、ただ、毎日その日その日を生きていた。


 今でもあの日のことはよく覚えている。曇り空で、波が少し荒れていた秋の日だ。私は母さんに「どうして私はアミラって名前なの」って聞いてみて、産んだ時に神父さんにつけてもらったって聞いたからそのまま神父様の住む丘の上の教会まで走りに行ったのだ。そして丘の中腹までたどり着いた時、突然後ろからそれまで聞いたことも無いような大きな音が轟いた。


 黒真珠のように光る鱗、蛇のような細長い影、そして津波が体を起こしたような巨大な姿。初めて目にしたその魔物の名は、後に毒竜バジリスクであると知った。


 バジリスクが咆哮と共に浜を駆ける。口から撒き散らした黒紫色の体液は私がよく知る村の人々を小屋ごと溶かし、目を光らせたかと思うと睨まれた人は石になった。皆魔物が現れたと知るや蜘蛛の子を散らしたように逃げ惑うが、バジリスクはそれをあざ笑うかのように殺戮の限りを尽くす。


 怖い、死んじゃう、逃げなきゃ。浜から離れようと必死に体を動かすが上手く走れない。足元がおぼつかず、腰も抜けているように踏ん張りがきかない。


 「ひぃ…ひぃっ…!」


 やっとの思いで近くの祠に駆けこむ。普段は誰も近寄らない教会近くの不思議な(ほこら)。何を祀っているのかも知れない小さな社。奥の隅まで逃げて縮こまる。


 「フシュル…シュル…」ズルリズルリと這いずる音が外から聞こえ、キツイ匂いが壁越しに届いてくる。もうすぐそこまで近づいてきたのだ、さっきまではあんなに離れていると思ったのに!


 母さんはどうなっただろう、妹たちはどうなっただろう。好きな男の子は?村のみんなは?急速に近づいてくる死の予感に私は恐怖した。


 耳を塞いで神に祈る。嗚呼(ああ)、神様!どうか助けてください!憐れな私にどうか救いを!!


 『―――?―――、―――――?』


 「ギャ…ッ!」


 突如予想だにしなかった形で頭に知らない存在の声が鳴り響く。これまで自分以外の何ものも感じなかった心の内の部分に、いきなり別の存在を感じ取ったものだからあまりの出来事に仰天して気絶しかける。


 『――、―――――、―――!』


 意識を手放しかけた私に、その声は―何故か声の雰囲気からそれが女性だと分かる―口調を荒げて叩き起こしてくる。甲高い女の声。人の声は耳を塞げば音から逃れられるけど、心に響く声はただ無防備に受け取るしかないのだと悟る。


 『―――――、――。―――、―――――?』


 「えっ…えっ?」


 声は語る。吾が名はネヴュラ。至高の三神に仕える七つが精霊の一、その分霊。美と芸と嫉妬を司る存在の一端であると。曰く生き延びるだけの力が欲しいなら、吾と誓約を結ぶべし…そう迫ってくる。


 『―――、―――。―――』


 精霊…おとぎ話で聞いたことがある。お母さんの、そのお母さんの、そのまたお母さんが生まれるより更にずっと昔…。勇者様達と共にあったという神々のお使い。人に力を貸すことで誓約した者は超常の力を得ることができるという。


 だが、精霊というのは伝説上の存在であった筈だ。少なくとも村の大人達の誰かが精霊と話しをするというのは見たことも聞いたことも無い。一部の貴族様達だけが関わり合える特別な存在なのだ。


 『―――――?―――、―――――。―――――!』


 私の疑問を感じ取ってか、お前は市井の身でありながら特別な魔力を有していると声は答える。しかし、同時に迫りくる危機のことも伝えられて早く誓約を結ぶように促された。そうだった、外からは強大な存在感がもうすぐそこまで近づいてきていることがハッキリと伝わってくる。私は助かりたい一心で精霊が唱える呪文を、意味も分からぬままに繰り返す。


 『我は汝…汝は我、精霊ネヴュラの名のもとに誓約を為す。己が顔を腐らせてかの一柱の力を借りん』


 「われはなんじ…なんじはわれ、せいれいねヴぃらのなのもとにせいやくをなす。おのがかおをくさらせてかのいっちゅうのちからをかりん」


 『銀の海より授かりしは収奪の瞳…緑眼よ、今開かれん…』


 「ぎんのうみよりさずかりしはしゅうだつのひとみ…ぐりーんあいずよ、いまひらかれん…え?」


 その瞬間、どこかで見えもしない青髪の女がほくそ笑んだ気がした。


 かの精霊が往々にして人を騙す悪霊だと知ったのはバジリスクを倒し、顔が腐り落ちきった後。全てが終わって帝都で学び知った後だった。




―――

――




 母の荒れた呼吸音で目が覚める。情けないことに寝てしまっていたのだ。苦しそうな母を助ける為に急いで鎮痛の処置を施すが、薬に体が慣れ切ったのかもう殆ど効果がない。無力、何が天下一の魔法使いか。ここではただの無能ではないか。


 強い潮風が木製の窓枠に当たってガタガタと鳴っている。日が落ちてから聞こえるそれは苦痛に喘ぐ何かの悲鳴のようにも聞こえた。


 バジリスクを倒してから私の生活は一変した。良い方にではない、腐った顔を嫌って人々から、それまで親しかった故郷の人間からすら忌み嫌われたのだ。


 村の危機を救った当初こそ命の恩人だとありがたがられたものの、次第に私に近づこうとする人間は一人、また一人と減っていった。村長や神父様は呪われた私の顔を見て距離を置いたし、親切な隣人も家に近寄らなくなった。想い合った男の子も最初の数年は気を使ってくれていたが、次第に別の子に惹かれて私の前から姿を消した。


 もう死んでしまおうかとは何度も思ったが、その度に唯一傍に居てくれた母が何度も私を支えてくれた。


 「アンタは村を救う度に自分を犠牲にしたんだ。外面をどれだけ悪く言われようが、まことの心が誰よりも美しいことを私は知ってるよ」


 半身をバジリスクの毒で犯された母。その治療費を稼ぐ為に帝国軍に入り、魔物を殺戮し続けた。私が直接治せないかと回復魔法を学びに帝都へも幾度となく行ったが、結局バジリスクの毒とはある種呪いのようなもので、高名な神官を呼んで奇跡を発現させることでしか病の進行を止められなかった。


 そして報奨金目当てに勇者パーティに加わり、失敗して今に至る。もう神官に診せるどころか効き目の薄い鎮痛剤を用意するだけの金すら無い。村へ帰る前に金に換えられそうなものは全て金に換えたが、当座の生活が凌げるだけで病の解決には圧倒的に金が足らなかった。今までの食い扶持であった帝国からは追い出され、この顔では春を売ることもできない。手詰まりだった。


 「……」


 やせ細り、窪んだ瞳で母が訴えかけてくる。意図を知る為に口元へ耳を寄せると、既に何百と聞いたその言葉が繰り返された。


 「…シテ、殺シテ…」


 「……」


 私は首を振って拒絶の意思を伝える。激痛に堪え難くなった者が死を望むことは戦場で何度も見た光景だ。


 平時は血気盛んな兵士が、手足を失えばもう殺してくれと子供のように泣きながら頼む…だが、大抵の場合その判断は正常ではない。苦痛と絶望に苛まれた者が逃避の為に口にした言葉であって、そこに意思と呼べるだけの熟慮も決意もありはしない。


 実際、多くの者は痛みが抜ければ言葉を翻す。あの時の自分は正気を失っていたのだ…と、だから私も母の言葉を認めずに手を撫で、声を掛けて励ます。


 「そんなこと言わないで…母さん、母さんは強い人なんだから…。何度も何度も折れた私を正してくれて、誠実さを教えてくれて………。母さんに先に逝かれたら私、独りぼっちになっちゃうよ、何も残らなくなっちゃうよ…。…だから絶対に諦めないで、私を置いていかないで?お願いだから…」


 「…あ……」


 渇きひび割れた掌を何度も撫でる。生きて、生きて、死なないで、死なないで。


 どれだけ貧しくても決して盗みを許さなかった母さん。どれだけ村人から嫌われても決してめげなかった母さん。帰ってくる前はどれだけ体に毒が回っても決して弱音を吐かなかった母さん。だから普段通りの矍鑠(かくしゃく)とした、誇り高い母に戻って欲しい。


 もはや私の生きる意味と同義である母を撫でながら、明日の献立を用意するために外出の準備を進めた。ただ、明日を送らせるためだけに。


 骨と皮しかない体の何処にそんな力が残っていたのか、母が死んだと知ったのは翌日山菜取りから戻ってきて窓外から首吊りの紐が見えてからだった。




―――

――




 「おおおぉぉぉ…!!お"お"お"おおぉぉぉっ…!!」


 墓前で泣く。何日泣いても不思議と腹は減らず、涙は尽きるまで流れ続けた。


 (私は最後の親孝行として母さんを殺してあげるべきだったのかなぁ…?せめて安らかに逝けるように…っ!)


 泣いて、泣いて、泣いて。悲しき心が摩耗した後には、静けさと問答のような怒りが残った。


 何故母が死んだ?金が無かったからだ。


 何故金が無かった?報奨金が貰えなかったからだ。


 何故報奨金が貰えなかった?勇者たちクソ共が私を追い出して横取りしたからだ。


 「くふっ…くはははははっ!」


 死んでしまいたかった。母を守れず想いも聞けない、そんな親不孝で無能な私に生きる価値は無い。この世に未練もありはしない。そして、浮世に価値を感じないということは失うものが何も無いということだ。


 (……)


 フツフツと怒りが魔力へと変換されていく。復讐は虚しいと人は言うけれど、するもしないも変わらないのなら自我を貫徹させることで得られる快感を否定する理由も無い。胸の内から溢れ出す、このどす黒い感情に蓋をする理由は無い!


「ブッ殺してやる…!皆殺しだ…一人残らず必ず、必ず復讐してやる…!!」


 人に恥じることをするなと教えた母も逝ってしまった。無力な自分すら復讐の対象、己を人がましくさせていた自制心が吹っ飛んで、剥き出しの感情が魔力と共に発露される。


 誓言を唱えて(とび)色の瞳を緑に変える。殺意のままに地を蹴った。


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