思い出
私の目の前に広がるその景色は、それはそれは美しく、おとぎ話の世界にも勝るものでした。
あり得ないほど大きな椿の木が頭上を覆い、どこからともなく桜吹雪が舞っていました。もちろん地面は一面暖色の絨毯が敷かれていました。
どちらの花も共存することはなく、しかし多くの共通点を持つ花です。とても人が普通に暮らしていてはお目にかからない色の花弁を付け、その美しさに未練を残さず散っていく。しかし、その終わり際までも美しく、むしろそれが本番であるかのように振舞います。
椿の暴力的なまでの赤は母を思い出してしまいます。
母はいつも出掛ける前には、思い人を当てられ紅潮する子供の頬のように赤い口紅をして
出ていきました。
好奇心に負けてそれを不器用に塗った私を見た母は、普段は私が何をしても激一つ飛ばさないのですが、私の頬を強くぶちました。その時の手の臭いは今でもこびりついおります。
驚いた私は当然泣き喚いてしましましたが、今思い返しましたら大げさに滲んだ視界で母も泣いていたような気がします。
口紅くらいで、なんて母親だと思うかもしれませんが、それほどあの口紅は母にとって儚く、脆いものだったのです。あの口紅が母の口に流し込む魅力は母が一人の女性として生きていくためにかけがえのないものだったのです。
では、桜吹雪の柔らかさは何を思い出させてくれたか。それは母の温もりでした。なぜお前は母親ばかりと思うかもしれません。しかしそれは仕方のないことなのです。というのも父は私が幼い頃出ていきました。当時の私はなぜか子どもながらにもう二度と父が帰ってこないことを知っており、女の意地とでも言いましょうか、父が私の頭を撫でて玄関から出ていく姿を見てもなんの感情も溢れ出さないように必死で蓋をして父の広く、くたびれた背中を見送りました。
そんな私の初めて女としての振る舞いを奪ったまま消えた父は罪深い人だと今でも思います。
話がそれてしまいました。桜吹雪が思い出させてくれる母の温もりと言うものは同時に夜の青さも思い起こさせます。
寝つきが悪く、寝床でいつまでも目を開けたままの私の隣で母は何をするでもなくただ私の手を握っていました。目が暗闇に落ち着き、あたりは薄く、弱い青で包まれる頃に母はきまってこう尋ねました。
「眠れないの」
このたった六文字は酷く私を安心させました。ちょうど頭、心臓、右手、左手、右足、左足にそれぞれが浸み込んでいくようでした。
私がその目に見えない毛布に包まれ緩みきった思考で頷くと母はいつも握っていた手を引き付けちょうど私の顔が母の胸に包まれるように強く抱きしめました。
端麗な鼓動は私を穿ち、その回数を数えている内に私は微睡みに落ちていくのでした。
いままで書いてきた全てを思い起こさせてくれたその場所は今となっては思い出せなくなってしまいました。というのもそうしたのは私自身なのです。
あまりにも完成された美は人を犯していきます。ましてこの世に存在しない美など言うまでもありません。
実際その場所に私が初めてたどり着いたとき私は人生というものなど捨ててしまってここに留まり、今はもう亡き母に会いに行こう。きっとこの大きな椿の向こうには母があの口紅を引きながら待っている。そう本気で思いました。もちろん母はいませんでした。
そして私はこの景色はもう二度と見ないでおこうと決めました。
しかしまたここでも女の意地と言うものが頭をもたげてきました。というのもこの美しい景色のたどり着き方を忘れる代わりに絵に留めておこうと思ったのです。
何かを捨てるには何かを手に入れなければ気が済みませんでした。父の代わりに女を手に入れたように。
そうして私は鮮明にその景色を植え込んだ後、文字通り三日三晩をかけその景色の絵を壁一面に描きつけました。
そうして私が毎朝目覚め、体を起こすとその景色が広がります。夢現のなか見るそれは本物のように思えます。しかし自分で描いた絵であるということにすぐ気が付き幻想世界は崩れます。絵にしてしまえば幻想世界は無くなってしまうのでした。
それでも灯りを消し、その景色が青に沈んでいく姿を見ると私は母を思い出します。
母をあの口紅を引き、夢の中でも私をぶつのでした。
ハッピーエンドなのでしょうか。




