鈍行
あれだけ頬を伝っていた汗は効き過ぎるほどの空調に冷やされて、多少のべたつきだけを残してどこかへ行ってしまった。
旧式然としてうなる空調の音と、窓硝子に隔てられた遠い蝉の声。そして一定の間隔を置いて訪れる、体を揺らす車輪の音。息づかいはここには自分ひとり分しかない。こののろまな電車は、今日も空っぽで走っている。
父の故郷への里帰りが決まったのが一週間前の夜。その父に突然の仕事が舞い込んだのが昨日の朝。
そして田舎の祖父がいろいろ用意してくれた手前で行かない訳にもいかず、一人で電車に揺られているのが今。
父の実家……祖父の家は、いつもなら父の運転する車であれば――道中眠りこけて言うというものあるが――すぐだった。しかしこの電車では酷く時間がかかるようで、せっかく用意した暇つぶしの小説には既に飽きが来てしまった。ゆるゆると流れる退屈な時間は、向かいの窓に流れる青々とした田と山々を見送り、ときたま現れる川と反射する光に目を細めていた。
背をもたれる窓硝子の奥の空をちらりと仰げば陽はいまだ中天にすらかからず、この道行きが半ばであることを知る。
ひときわ大きな音を立てて列車が弧を描き、うなじが夏の陽に晒される。肌寒いほどの空調と焦がされる首筋の温度差に、なぜだかこの上なく夏の訪れを感じた。
この列車に最後に揺られたのはいつだっただろうか。
あぁ、あの頃にはまだ母が居て、車が故障したからとこの列車に乗ることになったのだったか。母もあれこれと文句を言いながら、結局は閑散としたこの電車の旅を楽しんでいたように思う。その日もこんな風に窓の外を流れる夏を眺め、たしか蛍の飛び始める時分に祖父の家にたどり着いたのだった。思えば、あのささやかな旅路が我が夏の原風景なのだ。
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冷房がごうごうと音を立てている。蝉の声がうるさいほどに響いていた。
いつの間にか眠ってしまっていたらしい。目をこすり、うっすらとまぶたを持ち上げる。向かいの席にはいつの間にか、女性がしゃんと座っていた。その女性は爽やかな白いワンピースを着て、麦わら帽を被っていた。彼女の後ろから差す強い夏の陽の影になって顔は見えなかったが、綺麗なひとだと思った。淑女然とした佇まいもあっただろうか。ただ漠然と、そう思った。
「あら、起きたのかしら」
咄嗟に、あ、はい、と答える。
「あなたはどちらへ向かうのかしら?」
――祖父の家に、あの、お盆なので。
「あら、いいわね」
――あなたは、どちらへ?
「わたしは、大切な人のところに行くのよ」
――それは、いいですね。
「うふふ、いいでしょう?」
――はい。
「あのひとったら、ずいぶんと適当だから、心配でたまに見に行きたくなるの。」
――お好きなんですね。
「えぇ、そうね、愛しているわ」
――――。
他愛もない会話、しかし赤の他人とするには少々踏み込みすぎて、知り合いとするには随分と面映ゆい。
返事が口から出る前に、電車が弧を描く感覚。軋みこすれる車輪の音似合わせて体が傾く。女性は顔を上げ、もう着くのね、と小さく呟いた。
白む窓の外に老朽化の進んだ駅舎が流れ込んでくる。赤煉瓦の屋根に所々剥がれた木の壁、柱に打ち付けられているはずの駅名はもう霞んで消えていた。
「あぁそうだわ、これ、持っていってちょうだい。私が持っていてもあまり意味がないのよ」
いつの間にか手の中に、少し反った大きなナスが握られていた。
「それ、せっかくだから使ってあげてね、この季節だし、悪くならないうちに早めにね」
甲高い停車音を立てて列車が止まる。女性は立ち上がり、こちらに背を向けてゆったりとした足取りで扉へ近づく。
「思ったよりも早く着くのね、まぁ、帰ってくる分にはどんなに早くたって構わないのだけれど」
女性はボタンに指をかけ、そっと押した。
「でも、そうね、せめて行くときくらいはゆっくりしたいわ」
扉が開く。幾万かという蝉の声が鼓膜をうち、鼻先で熱気と冷気が混ざり合う。
「じゃあ、またどこかで会えたらいいわね」
こちらに振り返ったその美しい女性は、夏の陽に照らされて柔らかに微笑んでいた。
排気音と共に扉が閉まる。女性の後ろ姿は夏の駅に消えていった。
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眠りから覚める。機械を通してくぐもった車掌の声が目的の駅に到着したことを告げていた。
陽に当たり続けていた首筋がヒリヒリと痛んでいた。
持ってきた大きな鞄を両手で抱え、なんとか扉を開けて無人駅に降りる。陽は既に山の奥に落ち、空には茜色の雲がたなびいていた。いつの間にか世界を占める音は、あのやかましい油蝉から別の、儚げな声にすり替わっていた。
駅の出口には、祖父が軽トラを待たせていた。
「おぅ、来たか、ご苦労さん。疲れたろう、早く帰って飯にしよう」
うん、そう言って祖父の方に歩を進める。するとどこからか何かが落ち、祖父の足下へ転がる。
「なんだこれ、ナスか。なんだ、ナスなんて持たされたのか」
――いや、それはもらったものなんだ。
「そうか、でも一個だけじゃあな・・・夕飯に漬物にでもするか」
よっこらせ、と祖父はナスを拾い上げ、そのまま運転席に乗り込む。
荷台に鞄を置き、助手席に乗り込む。車内は独特のにおいと古びた冷房の匂いが立ちこめ、メモ帳や付箋、ごみが所々に散らばっていた。
――掃除、しなよ。
祖父は何か言いたげだったが、結局何も言わずに運転していた。
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祖父の家は相も変わらず物が多かった。それでも遠くからの孫を迎えるために一応の整理はしてくれていたらしく、なんだか可笑しくなってしまった。
久しぶりに嗅ぐ祖父の家の匂いに無性に懐かしくなってしまって、座っていられずに家の中を歩いて回った。
ふと、線香の匂いが鼻に届いた。そういえば、線香があがっていることなど今まで一度たりともない家だった。
――お線香、あげたの。
「あぁ、整理してたらいくらか見つかってな。盆だし、しけってもいなかったし、折角だからな」
そう、と小さく返事して仏間へ足を運んだ。ここに来たこともほとんど無かった。例に漏れず雑多な荷物で散らかっていたが、仏壇の前には薄くなった座布団が一つあるだけだった。
手を合わせ、線香をあげると――仏壇の端にある写真立てが目にとまった。今はもはや珍しい白黒に写る女性が、この家を背に微笑んでいる写真だった。頭には麦わら帽子、柔らかなワンピースが風に揺れている。
台所からは祖父が野菜を切る音がする。
――ねぇおじいちゃん、この写真っておばあちゃんの?
「おう、そうだぞ。このナス、漬物でいいな?」
遠巻きに聞こえる祖父の声は、包丁を研ぐ音も伴っていた。
急いで立ち上がり、台所に向かいながら大声で。
―――やっぱりそれ、使わないで!
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墓の前に立ち、供え物を置いて線香を焚く。祖父の家に滞在する最終日になっていた。
頭が割れるような蝉の合唱には少し慣れたが、今にも抜けそうで軋む床とお手洗いに現れる虫にはついぞ慣れなかった。
しかし墓前で手を合わせているのは、結局は祖父との二人きりだった。
「このナス、もったいねぇなぁ。」
――そうかな。
あのナスは、飲み物や果物と一緒に墓前に供えることになった。
四か所に割り箸を挿してある、いわゆる精霊牛。
――まあ、いいじゃない、折角もらったんだから。
「折角いいものをもらったからだろうに」
祖父は不満げだが、それもまた可笑しくてすこし笑ってしまう。
墓前に座り、手を合わせ、目を閉じる。やかましい油蝉と遠くに流れる沢の音、風に乗って運ばれる土と草の匂い。
じわじわと夏の温度が染みこんでくる。骨まで伝わるような熱を感じながら、あの白昼夢の言葉を思い出す。
――『帰ってくる分にはどんなに早くたって構わないのだけど』
――『せめて行くときはゆっくりしたいわ』
お盆には、キュウリの馬と、ナスの牛。定番といえば定番だろう。
――これなら、少なくともあの鈍行列車よりもゆっくりでしょう?