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(夜。診療所の食堂。広い部屋だけあって、外で吹く風の音と、中にいる二人の声が室内に響く。ストーブの音。アヤメは席についている。ミライは晩御飯の支度をしている。アヤメは口笛でとあるポップソングを吹いて、口ずさむ)
ミライ ソーセージにいり卵でいいですよね、アヤメさん?
アヤメ うん?はい。ご飯大盛りで。
ミライ 太っちゃいますよ。
アヤメ いいよ、太っても。体をチェックする鏡がないから、どうせ太っても太ったことに気づかない。だから機嫌も損なわない。
ミライ 楽観的な考え方ですね。感心しました。
アヤメ どうも。
(曲を口ずさむ。ミライは料理をさらにのせて近寄る)
ミライ 聞き覚えのある曲です。どこで聞いたか覚えられませんけど。
アヤメ 中国のポップソングです。
ミライ 懐かしい曲に聞こえます。(皿をテーブルに置く)どうぞ、召し上がって。
アヤメ ありがとう。頂きます!(食べ始める)美味しい!
ミライ 美味しいですかね?三月から冷蔵庫にあった材料ばかりですが。
アヤメ それでも美味しい。
ミライ アヤメさんはおなかをすかしていたから美味しく食べているだけです。
アヤメ でも、富士本さん。卵は四ヶ月も持たないよ。
ミライ これは粉末卵ですから。
アヤメ 粉末?
ミライ 脱水されて粉になった卵です。冷蔵庫に入れると十年も持ちます。
アヤメ 十年!この卵は、あたしが小学生だった頃の遺物ではないでしょうね。
ミライ 三月に買いました。ここは町からかなり離れているから、春になるとまとめがいして夏をここにこもってすごします。
アヤメ 飽きないか?
ミライ なにをですか?
アヤメ 粉末卵。
ミライ 少なくともピータンより美味しいです。
アヤメ (笑う)だよね。あの黒い卵をはじめて見たときぞっとしたよ。
ミライ 灰と石灰に混ざって漬け物にされた卵。幾ら中華料理が好きでも、あれは口に合いません。でも、ワン・ファンの好物でした。
アヤメ 貴女の、ワン・ファンさんか。
ミライ はい。彼女はいつも「これは背が高く育ったコツだ」と言いました。貴女のワン・ファンさんは、ピータンが好きでしたか?
アヤメ そうはもう、あたしにもせっかちに食べさせようとするほど好きだった。大変なことに。
ミライ 貴女のワン・ファンと私のワン・ファンは、知り合ったら気が合ったと思います。
アヤメ 同じ都市に住んでいるんだから。ひょっとしたら向こうで出会って友達になったかもしれない。
ミライ 私のワン・ファンは、貴女のワン・ファンよりかなり年上です。ジェネレーションギャップがあります。年上はこやかましいたちです。私のワン・ファンは、うるさい女と思われてしまうかも知れません。
アヤメ それでもあって欲しいなぁ、あたしのワン・ファンに。(暗い声で)少なくとも、あたしなんかよりいい友達になれるよ。
ミライ 喧嘩、したんですか?彼女と。
アヤメ 喧嘩、というか。一方的にビンタを食らった。抵抗もしなかった。静かに叩かれて彼女と別れた。
ミライ どうして?
アヤメ あの時あたしには、口をあける権利はなかったから。
(間)
ミライ 私も、一度だけ恋人と喧嘩しました。暴力振ったこともあります。
アヤメ えっ?富士本さんが?
ミライ 信じがたいですか?
アヤメ 富士本さんの人を殴る姿って想像もつかない。
ミライ 殴ってはいませんが、まぁ、引っ叩きました。あとで凄く後悔しましたが。やはり何かあっても、好きな人は大事にしておくべきです。その人の罪はなんだろうと、暴力はいけません。
アヤメ あたしは、浮気した。ワン・ファンの信頼を裏切った。ビンタより、裏切りのほうが痛いではないか?
ミライ 一瞬冷静を失って、好きな人を傷つけたあと、その一瞬を取り消せない事が一番痛いです。
アヤメ 貴女は、そういう別れ方をしたのですか?
ミライ さぁ。ずっと昔のことですから、記憶が曖昧になっています。食卓で長話をするのもあれですし、さめないうちに食べて下さい。
アヤメ 富士本さんは食べないのですか?貴女と一緒に食事をしたかったのに。
ミライ 今夜は食欲がありません。速く寝たいです。明日の朝食はご一緒させます。では、ごゆっくり。
アヤメ おやすみ。
(ミライは立ち上がって、食堂を出る。自分の部屋を向かって廊下を歩く。しばらくすると、とあるドアの向こう側から兎莱の声が聞こえる。ミライがその方向へ歩き続けると兎莱の声がはっきりと聞こえるようになる)
兎莱 あなた。あなた。
ミライ またかよ。
兎莱 ね、そんなに照れなくていいじゃない?患者の人たちは皆寝ている。ねぇ、今度は大声出さない。や・く・そ・く、といっても嘘よ。(くすくす笑う)
ミライ エロ女、最低。
兎莱 ねぇ、ねぇ一回だけ。一回だけ。先生が抱いてくれないと眠られないんだもん。
ミライ しっかりして、父さん。私が生まれなくてもいいから、その女を振ってしまえ。
(歩いてその部屋を通り過ぎると、兎莱の「愛をねだる」声が遠ざかる。そのとき、同じ部屋からもう一つの声が聞こえてくる。ミライはきびすを鳴らしてたち止る)
アヤメ (部屋の中から、子供っぼい話し方で)お父さん。
(兎莱の悲鳴。ミライは思わず部屋の前に戻る。寒げが走って、ミライの口から子供のすすり泣きのような声を出る)
アヤメ (部屋の中から、子供っぽい声で)お父さん。なんで、お母さんをいじめるの?お母さんが悪いことをしたの?
兎莱 違う。これはいじめではない。遊びだ。お父さんとお母さんは遊んでいた。
アヤメ (子供っぽく)うそよ。うそ。お母さんは痛かったよ。こういう顔をしたよ。
兎莱 駄目!私の真似しては駄目!いいか。お父さんは私に悪いことをしてない。君はまだ子供からお母さんとお父さんの遊びがわからないだけ。
アヤメ (子供っぽく)お母さん、ここにいては駄目。僕の部屋で寝て。
ミライ (呟く)アヤメの声だ。
兎莱 君のベッドは小さい。あのベッドで母さんは寝れない。
アヤメ じゃ僕もここで寝る。
兎莱 ここはお父さんとお母さんの部屋なの。君は自分の部屋で寝なさい。
ミライ 鍵を掛けているはずなのに。どうして?(ドアを開けようとする)マスターキー。マスターキーはどこだっけ?そう、金庫。確かに、金庫にあったよね。
兎莱 君のベッドは小さい。あのベッドでお母さんは寝れない。
アヤメ じゃ僕もここで寝る。僕もここで寝る。
ミライ 落ち着け、落ち着け。壊れたレコードになっているからには、正しい言葉を言ったらあいつらを消せる。お父さんのセリフ。お父さんのセリフはなんだっけ?思い出せ、あたし。思い出すんだ。
アヤメ (子供っぽく)お母さん、ここにいては駄目。僕の部屋で寝て。
ミライ 何かをいわないと、あいつらは朝まで。。。
兎莱 君のベッドは小さい。あのベッドでお母さんは寝れない。
アヤメ (子供っぽく)じゃ僕もここで寝る。
ミライ 図書室。お父さんの日記を見たら、この時のセリフを見つけるかも。
(走り出す。「アヤメ」と兎莱の声が遠ざかり、ミライの走る足音と息の音だけが聞こえる。ミライは図書室についてドアをぱっと開ける。部屋にあったアヤメも、ミライも同時にびっくりして悲鳴を上げる)
ミライ アヤメさん!どうしてここにいるんですか?
アヤメ どうしてって。。。
ミライ どうしているんですか?
アヤメ 富士本さんこそどうして怒るのよ?寝る前にちょっと時間つぶししたかっただけ。
(ミライは図書室にある引き出しを全部、次々と開け始める)
アヤメ どうしたんですか、急に?顔色がわるいよ。
ミライ 何でもありません。
アヤメ 何でもありませんじゃないでしょう。凄く焦っているじゃない。
ミライ お父さんの日記を探しています。
アヤメ にっ、日記?
ミライ ない!ここにもない!どこなんだよ!(沈黙。ミライはパニック・アタック寸前の状態にある。深く息をしながら振り返ってアヤメをじっと見つめる)
アヤメ な、なによ。
ミライ なにを読んでいる?
アヤメ べっ、別に。。。
ミライ なにを読んでいる、アヤメ?
アヤメ ただの短編小説集、みたいな本。ラブコメディのストーリがいっぱいあって面白い。作家は明らかに素人だけど。手書きで書いているページが多いし。。。
ミライ お父さんの日記!
(ミライはアヤメを引っ張ったいて日記を取り戻す。アヤメはしりもちにつく)
ミライ よくも、お父さんの日記を。。。私たちの日記を勝手に読んだわね!私はあんたを信じていたよ!たちなさい!(アヤメが立ち上がる)さっきのは私の信頼を裏切った罰だ。これは私に対して友達の不利をした罰だ!(もう一度アヤメをひっぱたく)なんだそのしんとした態度は?なんとか言え!言い訳一つも言えないのか!
アヤメ あたしには、口をあける権利はないから。
ミライ やけに腹立つわ!成人の真似をしやがって!
アヤメ 止めてください!止めないと、あなたが傷つくことになるから。
ミライ 傷つけるならやってみろ!
(もう一度アヤメをひっぱたく。アヤメはゆっくりと、冷静に話す)
アヤメ 一瞬冷静を失って、好きな人を傷つけたあと、その一瞬を取り消せない事が一番痛いです。(間。ミライは息を呑む)貴女はいつもこうなんだ。元気があまって、近くにいる人に八つ当たりして、怒りを友達にぶつけるの。済んだ事が仕方がないのに後悔して、落ち込む。おわびをして許してもらって、また同じミスを繰り返す。好きな人を傷つける。(間)貴女はなぜこういうやつなんだ、ワン・ファン?
(間)
ミライ ワン・ファン?(間)狂っている。貴女は狂っている。やっとコメス病の症状を示しだしたようだ。
アヤメ そうかな?あたしはそもそもコメス病ではないかもしれない。貴女があたしを診察したわけじゃないでしょう。コメス病にかかっていると言ったあたしに信じてここに受け入れたけど、確実に診断してはいない。
ミライ なにを言っている、アヤメ?
アヤメ 今はあたしにビンタをうった。しかも三回も。あたしがコメス病だったら、あたしからあなたに記憶の欠片が移ったに違いない。(間)あたしの過去について、何かわかったの?(間)わからないでしょう!
ミライ 出て行って!今すぐ私の診療所から出て行って!
(ミライは日記を手に取ったまま、慌しく図書室を出る。ページをめくりながら歩く)
ミライ お父さんの手書き。初デート。秋田への旅行。花見に行った夜。結婚した日。新婚旅行。妊娠テストが青くなった朝。母のつわり。私の名前を決めようとした一週間。父が可愛いと思った名前のリスト。美王、麻王、美砂王。。。王の字を含む名前が多いね。王様のような偉い子供が欲しかったのか、男の子を望んでいたか。(一度で数十ページをめくる。廊下の向こうから、兎莱とアヤメの同じセリフを繰り返す声がかすかに聞こえはじめる)あった!「追加、後々笑えること」母の寝言。揉め事の種になったおでんだね。なにこれ?あった!セックス中に子供に捕まった件。よし、消すぞ。エロ女とガキの二人、おさらばだ!(ドアの前に突ったつ)
兎莱 駄目!私の真似しては駄目!
アヤメ (子供っぽく)お母さん、ここにいては駄目。僕の部屋で寝て。
ミライ(つぶやく)エロ女と話すな、ガキ!お父さんに話しかけろ。
兎莱 君のベッドは小さい。あのベッドでお母さんは寝れない。
アヤメ (子供っぽく)じゃ僕もここで寝る。
ミライ(つぶやく)早く。
アヤメ (部屋の中から、子供っぽい声で)お父さん。なんで、お母さんをいじめるの?お母さんが悪いことをしたの?
ミライ えっと。どれどれ、(男らしい声で読む)「いじめられたのは俺だ。心配するならお父さんの心配をしろ、アヤメ」アヤメ...
(沈黙。部屋からの声が静まっている)
ミライ アヤメ。(間)あの子のいたずらだわ。お父さんの日記を勝手に自分の名前を入れたに違いない。(ミライはぱっと日記を閉じる)二度とこんな事が起きないように日記を金庫にしまっておこう。(自分の部屋へ歩く)