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(ミライは早い歩調で診療所の廊下を歩く)
ミライ なんだよあの子?ルールまで破ってここに泊めてやったのに。まったく、いまどきの若い子には「恩」と言う言葉が通じないのか?顔が可愛いだからって調子に乗ってんじゃないってえの。
(図書室に入ってドアを閉める)
ミライ 何でここに来たんだろう。図書室の匂いが嫌いなのに。お父さんが好きだった本が並んでいる部屋では落ち着けるはずがないのに。(本棚に歩いて、適当な本を手に取る)「気休めに奇妙な白い花を二つ手元に持っている。精神と強さがなくなってしまったときでも、感謝とお互いの優しさはまだ人の心にいき続けていたという証拠として」(本をぱっと閉じる)タイム・マシン、か。こんなのを読んでなにが面白いんだよ、お父さん?人間は一つの時代のとりこだ。誰も別の時に逃げたりは出来ない。
(遠くから、とある女子の声が聞こえる)
兎莱 (すみません...すみません...)
ミライ あの子だ。アヤメだ。私を探している。謝りたいでしょうけど、しばらくほっとこう。
(兎莱の声がだんだん強くなる)
兎莱 すみません。すみません、富士本先生。どこも痛くない?
ミライ ずいぶんと後悔しているみたいだね。
兎莱 本当にごめんね。富士本先生が、急にあんなことをするから...
ミライ (小声で)あの子の声じゃない。声が似ているからアヤメだと思ったけど、彼女じゃない。まさか。。。
(兎莱の言葉は、部屋の中で話しているようにはっきりと聞こえる。然しその声には、妙な響きがまざっている)
兎莱 ごめんね。富士本先生が、急にあんなことをするから。。。
ミライ また来たのか。
兎莱 ごめんね。富士本先生が、急にあんなことをするから、つい。。。
ミライ うるさい。黙れ!
兎莱 どこも痛くない?ごめんね。
ミライ 何で私の前に現れたの?最後の発作から半年も経っているのよ!もう、こんなことは起らないと思っていたのに。(間)まさか、あの子が原因で。。。
兎莱 すみません。すみません、富士本先生。
ミライ (兎莱の声を遮るように、大声で)うるさい!うるさいんだよ!
兎莱 痛くない?ごめんね。
ミライ あああ、もう!お父さんのセリフを言わないと何時間も続くんだよね、これ?
兎莱 すみません、富士本せんせい。ごめんね。
ミライ 仕方がない(男らしい声で)大丈夫だよ、兎莱くん。
兎莱 どこも痛くない?富士本先生が、急にあんなことを。。。
ミライ (男らしく)尻をうっただけ。大丈夫。それにしても凄い照れっぷりだね、あはは。
兎莱 フリではありません。本当に苦手なんですよ、人に触られるのは。
ミライ (男らしく)僕が苦手ですね。
兎莱 そんな事はありません!富士本先生は、顔が女の子みたいに綺麗ですよ!手も華奢でいつもさすが外科だと感心します。
ミライ (男らしく)褒めているつもりか?
兎莱 褒めてますよ!
ミライ (男らしく)じゃ、何で僕が肩を寄せると嫌がるわけ?
兎莱 私、くすぐったいです。
ミライ (男らしく)嘘いえ。
兎莱 本当ですよ。
ミライ (男らしい)いいんだよ、中途半端な言い訳を作らなくても。子供じゃあるまいし、くすぐったくてあれだけ派手に抵抗するか普通?
兎莱 脇に指一本触れると痙攣するほどくすぐったいです。
ミライ (男らしい)証明しろ。脇をくすぐらせろ。
兎莱 脇に指一本触れると痙攣するほどくすぐったいです。
ミライ あれ?会話が続かない。セリフを間違えたかな?
兎莱 脇に指一本触れると痙攣するほどくすぐったいです。
ミライ ああ、もう!あの時お父さんが使った言葉を言わないと消えてはくれないよ、こいつは!何だっけ、お父さんのセリフ?
兎莱 脇に指一本触れると痙攣するほどくすぐったいです。
ミライ うるさい、黙ってろ! 考えられないでしょう。
アヤメ (廊下の向こうから)富士本さあぁん!どこですか?
ミライ やばい!エングラムを消せないうちにアヤメに見つかってしまう!
アヤメ (もっと近く)富士本さぁん!
兎莱 ...くすぐったいです。
ミライ お父さんの日記!(引き出しを一つ一つ開けて、日記を探す)日記を探さなきゃ!お父さんの日記にはあの頃の出来事が全部書いてある!
兎莱 本当ですよ。脇に指一本触れると痙攣する。。。
アヤメ (ドアの前にたつ)富士本さん?いるんでしょう?
ミライ (息を呑む。ささやく)手遅れ!あたし。。。
アヤメ 謝りに来ました。さっきはごめんね。
兎莱 ...ほどくすぐったいです。
アヤメ 別に富士本さんが嫌なわけじゃないから。
ミライ 思い出しました!(男らしい声で)証明しろ!自分で自分の脇をくすぐれ!
アヤメ 富士本さん?
(沈黙。兎莱はくすくすと笑い始める。ミライは荒く息をする)
アヤメ えっと、はいってもいいですか?
ミライ あと二十秒。
アヤメ えぇ?
ミライ どうぞ。
(アヤメはドアを開けて部屋に入る。兎莱は笑い続ける)
アヤメ あの、自分で自分をくすぐれないと思うんだが。。。もしそれで許してくれるならやってみるね。
ミライ いえいえ、私はね、読書すると思わず大声で読んでしまう場合もあるんです。私のくせで気にしないで下さい。
アヤメ くせ、ですか。
(間。兎莱の笑いが終わる)
兎莱 いやだね、先生。自分で自分をくすぐれないじゃない。(間)でも、別に富士本さんが嫌なわけじゃないから。。。あなたをくすぐりましょうか?
(セリフの最後に兎莱の声が遠ざかって消える。ミライはため息をついて座る)
アヤメ 立ったまま音読するとは、セリフを覚える役者みたいでカッコいいです。
ミライ ですから、声に出るのは不可抗力です。ちょっとしたトゥレット障害のようなことです。
アヤメ 初めて耳にする症状ですね。
ミライ さっきは、私も大げさに反応してごめんね。
アヤメ 誤解を解けたいよ。富士本さんが座ろうとした椅子にね、今朝あたしも座ったんだ。富士本さんはスカートが短いから、座ったら病気が移ると思ったんだ。
ミライ 直接なコンタクトがないと移らないはずですが。
アヤメ たまには移るよ。病人が使ったタオルや服から移るためしがある。
ミライ ありませんって。
アヤメ 確かに、遺伝子的に近い人同士ではないと、直接なコンタクトでしか移らない。でも親の使ったものから子供へ移ることがある。きょうだいのあいだでも間接に移る。妹がよく姉の化粧道具を借りたりするから。
ミライ 私達は親戚ではありませんけど。
アヤメ わかってるよ。それでもパニックしちゃって、思わず大声出したんだ。ほら、貴女のちょっとしたトゥレット障害みたいに。
ミライ そう、だったんですか。私は、アヤメさんに嫌われたかと思いました。
アヤメ どうして?
ミライ だって、アヤメさんは海外が長かったですね。私だったら、新しい環境にそうそう馴染めなかったと思います。リラックスしているところで不意打ち掛けられると誰だって怒ります。
アヤメ どうして知っているのよ。
ミライ エンパシーですよ、エンパシー。私も病人でしたら同じリアクションを示したといっているのです。
アヤメ そうじゃなくて、あたしが海外の暮らしが長かったことを。
ミライ アヤメさんがそういったじゃないですか?
アヤメ あたしは海外から来たって言っただけ。
ミライ そう...でした。でもアヤメさん、貴女は恋人がいたと言ったじゃありませんか。週末旅行で恋人を出来るほど挑戦的な女子には見えません。
アヤメ いやみか?
ミライ まさか。そういえばどこですか、アヤメさんが行った国は?
アヤメ 中国です。
ミライ (大声で)中国?
アヤメ そんなに驚くことかよ。
ミライ よく許可を取れましたね。パンデミックのとき以来、あの国はほとんど立ち入り禁止になっています。
アヤメ あたしはパスポートを見せて飛行機に乗ったまでだ。
ミライ 何たるアバウトさ!保健省はなに考えているんでしょうね。中国は今でもコメス病が流行っているのに。
アヤメ 道理であたしもかかったというわけだ。
ミライ 大勢の中国人は、お互いの記憶に感染されすぎてもう自分が誰だかわからなくなっているらしいです。何も気にせずホームレスの暮しをするそういう人々はウーミン、「名無し」と呼ばれるって、あれは本当ですか?
アヤメ さぁ。あたしが行った町には全然そんな事がなかった。
ミライ どの街ですか?
アヤメ チンタオ。
ミライ チンタオ!
アヤメ だから、そんなに驚くことかよ?
ミライ 私にもチンタオに行った事があるのです。チンタオか。懐かしいです。ミカエル大聖堂を見ましたか?
アヤメ 見たよ。古くてうっとうしいビルだった。
ミライ 最初は私もそう思いましたけど、時がたてばたつほどチンタオの思い出が薄くなってミカエル大聖堂だけは鮮やかなまま記憶に残りました。私は、そこで大切な友達が出来たからかな、大聖堂のことを大事に思います。
アヤメ まぁ、友達作りにもってこいな空間だから。親切な人が多いし、ミサに行くとパンとかもらえるしね。
ミライ あれ貰ってはいけません。貧乏人のための炊き出しですから。
アヤメ だって、シスターのジンジャーブレッドが美味しかったもの。
(ミライはびっくりする。遠くから、茶瓶が吹く蒸気の音が聞こえ始める)
ミライ まだ引退してないのですか、ビユ叔母さん?
アヤメ 元気にジンジャーブレッドを焼いてらっしゃるよ。
ミライ 大した精力です!あたしがチンタオに行ったとき、シスター・ビユは七十五を迎えようとしていました。今は90歳のはずです。
アヤメ そう?全然そんな年には見えなかった。
ミライ 懐かしいですわ。あたしもまたビユさんのジンジャーブレッドを食べたいです。
アヤメ 富士本さんも食べたの?貧乏人のための炊き出しってのはどうした?
ミライ (とても懐かしいことを思い出す声で)友達が、私のとても貧乏な友達が、君も食べてと言いましたから。
(間)
アヤメ 彼氏?
ミライ 違います、違います。女友達ですよ。
アヤメ 名前はなんて云うんだ?
ミライ ワン・ファン(王芳)です。
アヤメ 偶然ですね。あたしにもワン・ファンという友達がいる。
(ミライは愛情を込めた声で話す。茶瓶の音が徐々に強くなる)
ミライ 人気な名前ですから。中国にはそういう名前の人が何百万人もいます。あたしの知っているワン・ファンは、貧乏な大学生で家賃を払うとまともな食材を買う金さえ残りませんでした。ものぐさでバイトもしませんでした。だから、朝食はいつも大聖堂で食べました。あたしも誘ってね。ワン・ファンちゃんはいつも暗い顔しましたけど、シスターの暖かいパンをかじって、美味しい紅茶を飲んだら元気出して笑顔を見せてくれました。
アヤメ 好きだったんですね。
ミライ えっ?うん。。。大好きでした。あたし、いえ私の人生で食べた朝食のなかで、彼女と一緒に食べたジンジャーブレッドは一番美味しかったです。ワン・ファンちゃん、今はなにをしているんでしょう?今でも、シスターが出してくれる紅茶を飲んでいますかな?(間)アヤメさん、台所のストーブをつけっぱなしにしたみたいです。
アヤメ 違うよ。あたしは家事が苦手でストーブを見るのも嫌だ。
ミライ でも茶瓶の音が聞こえます。
アヤメ 茶瓶?(間)何も聞こえません。
(間。ミライが耳をすまして聞いてみると、茶瓶の音が消えている事に気づく)
ミライ ヘンね。
アヤメ 綺麗な人だったか?富士本さんのワン・ファンは?
ミライ カッコいい人でした。特にバスケをする時にね。大会を見に行きましたら、彼女がシュートを決めるたびに、観客の女性たちは皆キャアと騒ぎましたよ。アヤメさんのワン・ファンは?
アヤメ そうね。背が高くて、選手みたいな体格でカッコいい女子だった。
ミライ あなたのワン・ファンさんが背が高かったと言うより、あなたは小さかったかもしれません。
アヤメ そんなことはない。彼女は本当に背が高かった。
ミライ チンタオの女性は、平均で日本人の女性より十二センチも背が高いです。
アヤメ あたしのワン・ファンはもっと背が高かった。背が百八十センチもあった。
ミライ 大げさですね。
あやめ 本当だ!だから好きになったよ。
(間。ミライは緊張する。背景からかすかに兎莱の、「先生、富士本先生」とささやく声が聞こえる)
ミライ 好きって、もしかすると...
アヤメ はい。
ミライ なら、感染者であることを隠した恋人は...
アヤメ ワン・ファンのことだ。
(間)
ミライ 失礼します。
(図書室から出てだドアを閉じる。廊下を速い歩調で歩く彼女の足音が遠ざかる)
アヤメ 過去が怖いんだね。十五年前、チンタオの町。大聖堂、シスターのパン、彼女の暗い顔、あたしの弱さ、君の弱み。
(彼女の声が途中で弱くなって消える)