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踏み台

作者: 草間 奏


男は踏み台を見つけた。

いつからそこにあったのか、気が付くと目の前にあった。

見えなかったのものが突如質量をもったように。

目の前のそれは微かに陽のにおいのする、美しい木目が際立つ簡素な造りで

男を取り囲む暗がりの中ではぽっかりと浮かんでいるようにもみえる。

ただ「懐かしい」という形容詞が男の脳内を満たしそれは感情となって目から溢れた。

感情は血が通う管を伝って全身を巡る。それはやがて男の躰に色彩を与えていく。

しばらくの間、男はその不思議な踏み台から目が離せなかった。

やっと手を伸ばし触れてみると、

そのなめらかな感触と控えめなぬくもりが何かを伝えようとしている。

今ここにある踏み台。

ふと男は頭を働かせた。前後左右に文字通り働かせた。そして気がついた。

少し向こうに何かがある。隔てるものがみえる。

それは光を吸い込んだようにぼんやりとした明度をもった白。

壁だ。

踏み台を脇に抱えてその壁に近づく。そしてそれに触れながら沿って歩いた。

真横にまっすぐ伸びた壁はひんやりとして扉も窓もない。

耳をあて、目を閉じる。

すると聞こえる。かすかな鳥の声、優しい歌だ。

そんな小さな、ほんのちっぽけな音が大きく男を揺さぶった。

行かなくてはならない。この向こうがあるべき場所なのだ。

男は抱えていた踏み台をおき、急いで足を乗せる。

しかし足りない。少しだけ、壁を越えるのには足りなかった。

男は落胆した。

男の躰は熱くなり、躰を巡っていた感情が猛獣のように牙をむく。

その猛獣は焦りとなり、怒りとなり、男の躰を叩きつける。

胸打つ音はどんどん加速して、皮膚の隙間からは汗が吹き出し、全身の筋肉が収縮して音のない声がでた。

気づけば、壁は途方もなく高く見え、猛獣が走り去ったあとの躰には

かさついたざわめきとぼんやりとした失望が残った。

この踏み台の意味はなんなのか。

あれほど際立っていた踏み台もくすんで見える。

そっと撫でてみても、はじめに感じた懐かしさもぬくもりもなにもなかった。

ここにあるのはただの古ぼけた踏み台。

そう、最初からただの踏み台なのだ。

意味などなにもない。

どういうわけか期待をしていたのだ。

男は壁に背を当て座り込む。

鬱々とした暗がりの中で、そっと目を閉じた。

そしてゆらゆらと情景がまぶたの裏に浮かび上がるのを感じた。

夢か、妄想か。

男はそのゆらゆらとした意識に身を任せた。


セピア色


背丈の低い少年


木の匂い


優しい歌


テーブルの上にスープとパン


横にある大きな本棚


踏み台に足を乗せる少年


本棚の上段にある本に手をかけて


難しそうな分厚い大きな本を取り出し抱える


近くにいた大人の女性が少年の頭を撫でる


そして女性の口が動く


それを聞いた少年は嬉しそうに照れ臭そうに抱えていた大きな本を開いた


その本の意味なんてわからなかった。

さほど興味があったわけでもなかった。

しかし母は褒めてくれたのだ。

男の思い出が重なってゆく。

あなたは私の誇りだと頭を撫でてくれた母は

その踏み台も、その難しい本も

幼き頃の男のちっぽけな見栄だとわかっていたのかもしれない。

それでも、大きくなろうとする我が子が誇らしかったのだろう。


男は目を開けた。

相変わらずの暗がりが広がっている。

背中には壁のひんやりとした温度が伝わってきた。

改めて踏み台を眺める。

やはりこれ自体に大した意味はないのだ。

踏み台はただの踏み台で、その上に乗る行為もただの行為だ。

必要なのは、ほんの少しの見栄なのだ。

男はもう一度壁の前に踏み台を置き、足を乗せる。

壁を越えるには少し足りない踏み台もそのままだ。

ただ、男は越えられると信じていた。

自信や覚悟というそんな大きなエネルギーではなく、

やっぱり、ほんのちょっとの見栄なのだ。

自分をごまかさないほどの小さな小さな見栄なのだ。

穏やかな心の音が壁を少し下げてくれたように感じた。

これなら大丈夫そうだ。

少し背伸びをして壁の縁に手をかける。

腕を曲げ、ゆっくりと体を持ち上げて目線が壁を越えたとき

真っ白な明るさとなめらかな風が男の躰を通り過ぎ、あの優しい歌が男を包み込んだ。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 抽象画のような作品ですね。 人の成長を描いているのでしょうか。 壁にぶつかり道具もうまく扱えず葛藤を味わうが、母のぬくもりを思い出すことで平静を取り戻し、いつの間にか大きくなっている――幼…
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