少女マンガな人生はもういらない
放課後、職員室での作業を終えて根城である保健室へと戻る。
別に職員室でも作業は出来るんだけど、やっぱり一人で黙々とやった方が捗るしね。
そんなわけで、保険医である私、雪原 弥千代は足早に目的地へと向かった。
多分、足止めを食らうであろうことを予想しながら。
雨が降った後のリノリウムの廊下は、歩くたびにキュッと足の裏にくっつく感じがして嫌だ。肩から前へと流れてきた色素の薄い茶髪を手で払い、白衣の襟元を正す。
「雪原せんせー、さよならー」
「気を付けて帰りなね。悪い男に引っかからないように」
「あっはは! 先生もねー」
私に向かって手を振りパタパタと元気よく駆けてゆく女子生徒に、苦笑を零す。いっちょ前に返してくれるじゃないの。
笑って言うけどね。本当に、悪い人に引っかかっちゃダメなのよ。悪いって一言で言っても色々あるんだから。
例えばそう、校舎裏で複数人の女子生徒が、一人の同じく女子生徒を取り囲んで不穏な雰囲気を醸し出しているとかね。
歩みを止め、ガラガラ、と窓を開けて下を覗き込む。
「なぁにやってんの、早く帰んなさい」
「げっ、千代りん!」
「……せめて千代りん先生って呼んでくれない?」
「長いからやだー」
なんでかなぁ。生徒と距離が近くていい事だとか言われたりもするけど、仲がいいんじゃなくて、完全に舐められてるよね、この態度。
明らかに苛めてましたって現場を教師に押さえられてんのに、どうしてあんな堂々としてられんのかね。最近の子って怖い。いや、別に最近というわけでもないか。
女は昔っから怖い生き物だ。
「今度千代りんって呼んだら、内申下げるからね。担任の先生教えなさい」
「絶対やだし!」
「じゃあね、千代りん。ばいばーい」
全く私の話を聞かない女子生徒達は機嫌良く立ち去った。残されたのは、じっと動かないで沈黙を保っていた一人の生徒だけ。
「ほら、泉水さんも」
ビクッと肩を震わせて、私を見上げた彼女の瞳は怯えで揺れていた。
彼女の心の内をなんとなく理解しながら、敢えてさっきの状況については何も口にせず、私は手をひらひらと振って帰るように促す。
「あ、ありがとうございました」
小さな声でそう言い、頭を下げて駆けてゆく泉水 泪子の後姿を見送った。
立ち去る彼女の背中を見つめていると、胸に苦いものが込み上げて来て、そっと目を逸らす。
「ちーよりん!」
ぽんと肩を叩かれて、半目になりながら後ろを振り向くと、予想通りの薄っぺらい笑みを浮かべた男が立っていた。
同僚で数学教師の河伯だ。
人懐っこく甘い笑みを売りとしているこの男は、生徒や教師陣、果てはPTAの奥様方を全て味方に付けるという、世渡り上手っぷりを発揮している恐ろしさを持っている。
「コーヒーごちそうして」
「はいはい」
言われるだろう言葉は予想通りだったから、適当に返す。断ったって勝手についてくるだろうし。
二人並んで私の城である保健室へとやっと戻ってきた。
河伯はやたらと保健室に入り浸る事が多い。ここにおいてあるコーヒーメーカーも奴が持ち込んだものだ。勿論豆も。勝手に私物を置くなと言いたいが、恩恵にあずかっている身なので黙っている。
私がコーヒーの準備をしている間に、勝手にソファを陣取った河伯が意味ありげにこちらを見てくる。
なによ、と少しだけ眉間に皺を寄せて見返した。
「いやぁヒロインっていうのはハプニングが尽きないねぇ」
誰の事を指して言っているのかは明白だ。目に涙を浮かべていた少女が脳裏を過ぎる。
「ヒロインってね、少女漫画じゃあるまいし」
「だって名前からしてヒロインっぽいじゃん。るいこって」
熱いコーヒーをテーブルの上に置く。河伯はそれを手に取って香りを嗅いだ。
初めてコーヒーの香りを嗅いだ時に衝撃を受け、それ以来大好物になったのだそうだ。とてもどうでもいい情報で、別に私は知りたくもなかったんだけど。
「当事者として感慨深いものがあるんじゃないの? 泪子ちゃんのあの引きの力」
「私はもう無関係よ」
「どうだかねぇ。だったら今あんたは此処にいないし、俺もこうしちゃいない。だろ?」
泉水泪子の引きの力。確かにあれは少女漫画のヒロインそのものだ。
見た目は美人というわけではなく、そこそこ可愛いくらいで特に目立つものではない。
だが学校一モテる(しかも親は大会社の社長の)男の子と良い感じになって、それが気に食わない女の子達にイジメまがいの仕打ちを受けたり、かと思うと幼馴染の子や転校してきた子に迫られてみたり。
これ以上ないくらい充実した、周囲を否が応にも巻き込んでゆく、はた迷惑な青春を送っている。河伯のいうハプニングを引き寄せる力が尋常じゃない。
そして、か弱そうな外見とは裏腹に、バイタリティ溢れる彼女は、行けども行けどもぶち当たる壁を乗り越えるどころか、時に人の力を大いに利用しながら力づくでぶち壊していくのだ。
それがまた、本人無自覚って言うのだから、本当に女とは怖いものだ。
かつての自分の記憶を振り返り、私は顔を顰めた。コーヒーの苦さが増した気がした。もはやほろ苦い、などでは済まされない。
葬り去って二度と誰にも掘り起こされたくない黒歴史を、目の前に引きずり出され曝されるこの苦痛。
「後悔先に立たずって言うしね。折角俺が二度目の人生、今度こそ悔いの残らないように生きろよ?」
茶化すようでいて、意外と真面目に諭す河伯に、苦笑しながら頷いた。
“二度目の人生”と言われると少し違和感を感じる。確かに私は前に生き死んだ記憶はきちんと残っているけど、それが自分だったという感覚は薄い。
悔いばかりが残る人生だから、自分のものだと思いたくないだけかもしれないけど。
腹立たしくて悔しくて、こんな風にしか生きられなかったのが嫌で、周囲の人を傷つけた。
最後まで変えられなかった自分を呪った。
その呪いを願いと受け取って、やり直しのチャンスをくれたのが、神様の遣いだなんて胡散臭い肩書を持った目の前の男だ。
「でも、私が今やっている事は未来の改ざんでしょ? 神様が許しちゃっていいの?」
ほら、あるじゃない。恋人が死ぬ過去を変えたら、未来が歪んで今度は自分が、若しくは別の誰かが死んでしまうとか。それは許されない禁忌だった……みたいな映画。
私がしようとしているのは、それと同じだ。
剣や魔法の異世界へ転生して、そこでチートだか勇者だかになれる人生も用意してくれていたらしいのだけど、あんまファンタジーに興味なかった私は、惹かれる事もなく。
むしろ後悔だらけだったこれまでの人生を元より変えてしまう事を願った。
時間を遡り、もう一度同じ時を繰り返し生きる道を選んだ。
だけど一つ。前世とは大きく違う点がある。
雪原 弥千代とは、河伯が私の魂を入れる為に用意した、そもそもは居ないはずの人物だった。子供を切望しながらも恵まれずに嘆いた夫婦に、河伯が命を宿らせた。
つまり今の私は、前世とは別人となっているというわけだ。
河伯は何も言わないけど、前世で嫌い抜いて死んだ自分にもう一度生まれさせるのは可哀そうだと思ったのかもしれない。
「未来の改ざん? ははは雪原先生はとても想像力逞しいですね」
無駄に爽やかで丁寧な口調に、思わず鼻フックかましてやろうかと思った。
「あんた等の未来がちょろっと変わった程度で世界的に影響を及ぼすわけでなし、問題ないない。ま、軌道修正して、収まる所に収まるだけだろうし……未来が脱線しないように俺がこうして付きに付いてんだ。あんたは心配せずに、自分の思うようにやればいい」
「イケメンめ」
「もっと褒めろ! 褒められて俺は強くなれるんだ!」
あーあ、台無し。さわや河伯が最後の台詞で台無し。
でも、良いというお許しをもらえたので、やりたいようにやらせてもらおう。
人生をやり直す。いや、正確にはやり直させる、なんだけど。
私は自己満足の為に、今世の泉水泪子の恋を引き裂くつもりでいる。
「失礼します」
一言置いてから入口が開いた。
入って来たのは、天峰 頼。噂をすれば、渦中の人のお出ましだ。
すらりと背の高い、他にないくらい端整な容姿の男子生徒だ。
染めたわけでもないのに淡い茶髪なのは、彼がクォーターだから。瞳も覗き込めば少し青っぽい。
外国人という程ではないにしろ、くっきりとした目元も高い鼻も肌の白さも、純日本人のそれとは違っている。誰もが目を奪われる美貌。
「いらっしゃい」
私が手を振ると、彼は笑顔で頷いた。
天使か。と真顔で言いたくなるくらい眩い笑顔だ。
だけど次の瞬間、部屋の奥に河伯が居座っているのに気付いて気まずそうに視線を逸らす。河伯はニヤリと口の端を持ち上げて性格悪そうに笑い、すぐに引込めたから、きっと天峰は気づいていない。
「ほんじゃ俺行くわ。コーヒーごっそさん、雪原先生」
「はいはい」
彼への返事は大抵これで、非情に適当なのだが彼は一切気にしていないので変えるつもりはない。
「すみません、雪原先生。良かったんですか……?」
「気にしなくていいのよ。河伯先生はサボりに来てただけだから。あ、コーヒー飲む?」
「いただきます」
礼儀正しい生徒である彼に笑みを向ける。彼が何故ここへやって来たのか、その目的は明白だ。
彼へコーヒーを差し出して、自分の分ももう一杯淹れる。
向い合せに座った。少し沈黙が続く。
室内に立ちこめるコーヒーの香りが、昂りかけた気持ちを抑えてくれる。
私は湯気がくゆっているカップを持ち上げて、熱で温められた縁に唇をつけた。
そうやって、笑いが込み上げてくるのを必死で隠していないと、バレてしまいそうだから。
どこか思い詰めた真剣な表情でこちらを窺い見てくる彼に知れたら大変だ。
きゅっと唇を一度噛んで耐えてから、今度はニヤけるのではなく、まるで慈しむような笑みを浮かべる。
「何かあった?」
パッと顔を上げた天峰は力なく笑った。その瞳が切なげに揺れる。
いつもいつも、こうして相談を受けるのは私だ。なんともしょっぱい……いや初々しい恋語りを聞いていれば、こんな感想が出て来ても仕方がない。
泉水泪子がヒロインならば、天峰頼はヒーローだ。
色んな妨害や嫉妬に晒されながらも。いや、その苦難を乗り越える度に二人の仲は進展し、やがてすったもんだの末に結ばれる。
ヒーローが美形だっていう点も、天峰ならば合格だ。百点満点だろう。
片っ端から学校中の女の子を落として行きそうな、そんな彼が恋煩いだなんて、微笑ましいではないか。
「別に、何がってわけではないんですけど」
コーヒーカップを握りしめて俯く彼を、私も静かに見つめる。無理に話を引き出そうとはしない。彼が話したい事だけ聞いてあげればいい。
いつもはそうだ。
だけど、なんとなく。今日は私から口を開いた。
「諦めるっていう選択肢は、ないの? もうずっと思い悩んでるわよね」
今度はゆっくりと視線を上げ、私を見返してきた瞳は真っ直ぐで、彼の気持ち強さを表しているようだった。
「ないです。そんな軽い想いなら、悩もうともしません」
「そう」
失敗。そりゃそうだろうけど。
もっと早い段階で摘んでおけば良かったんだろうけど、そうそう現実は甘くない。
「千代姉」
「天峰くん?」
「……ごめん」
ニコリと笑って指摘すると、彼は素直に謝った。手を伸ばしてポンポンと彼の指通りの良い髪を撫でると、気持ち良さそうに目を細めている。
まったく。油断するとすぐ昔のクセが出るんだから。
私と頼は幼馴染だったりする。
なので雪原 弥千代は、第三者として、だけどそれなりに事情に精通して、それなりに口を挟めるくらいの立ち位置にいるというわけ。
どうして頼達の同級生にならなかったのかと言えば、それは私の両親の年齢の事もあるから仕方ない。中途半端に近くするよりは、離れてても教師として同じ学園で見張っていられる歳にしたのだとか。
河伯の焦った口調の説明では、どうしても言い訳にしか聞こえなかったけどね!
しかしまぁ、だから気安く、教師である私にこうして恋愛相談など持ちかけてくるのだ。
可愛い可愛い年下の幼馴染の、甘酸っぱい恋だ。私だって出来る事なら応援してあげたかった。
相手が悪い。泉水泪子でなければ、私はもっと純粋に彼の相談に親身になってあげられたのに。
いや、違うか。きっと泪子以外の女の子ならば、頼がここまで思い悩むことなどなかった。
ああ、この世界が本当に少女漫画の世界なら良かったのにね。だったらきっと、この二人の恋も上手くいき、将来悲劇は訪れない。幸せに、めでたしめでたしで終われただろうに。
そして私は神様の力借りてまで、過去に戻って人の恋路を邪魔しようなんて、馬鹿みたいな真似しなくて済んだのに。
本当に、現実は甘くない。
頼と泉水は、すったもんだの末に高校卒業間際に晴れて恋人同士になり、大学、社会人になってもその交際は続く。
問題はその先だ。
頼は大会社の御曹司。泉水は生活にそこそこ余裕がある程度の一般人。
世間で言う所の玉の輿。勝ち組もいいところだけど、その実、これはなかなかに難しい問題だったりする。
そもそも住む世界が違い過ぎる。学校という区切られた小さなコミュニティーの中でなら、そうは言っても格差は見えづらい。
だけど、社会人として働きだし、天峰が次期社長というレールがはっきりと見え、結婚という文字がくっきりとして来れば話は別。
例え二人がラブラブでも、それだけで乗り越えられる程、障害の壁は低くなくなる。
親や親戚付き合いだけでも大変だというのに、懇意にしている取引先、時には財界との結びつきも頭に入れ、夫を支え時に妻として舞台に立たされる事だってある。周囲の風当たりもきつい。味方は少ない。
ま、要するに。泉水泪子には出来なかったのだ。いや、する前に逃げた。
結婚目前まで行きながら、彼女は逃げてしまった。
しかもただ逃げるだけじゃない。少女漫画であれば当て馬として現れただけのはずの、別の彼女に好意を抱いた男性の元へと走ったのだ。
それはダメだろう。いや、別の男が出来たにしろもっと上手くやれよと、私が当時の事を思い返してみて頭を掻き毟ったのは詰ったのは一度や二度じゃない。
今までだって、数えきれない障害乗り越えてきたくせに、何でここにきて怖気づいたんだ。耐えられなかったんだ。
もう、その時の騒動と言ったらすごかった。マスコミにも叩かれるわ、一時的にとはいえ会社も大打撃を受けるわ、天峰頼は荒れ狂うわ。
一体どれだけの人達に迷惑をかけた事か。
そして裏切った方も裏切られた方も、何もなかったことにしてその後の人生が幸福に包まれるわけもない。
頼に至っては、その後ずっと暗く険を孕んだ男に成り果てて、ずっと誰も信用しない男になってしまった。
私が変えたいのは、そんな碌でもない未来なのよ。
こんな風になっちゃうなら、最初からこの二人、付き合わない方がいいでしょう? 好き合わない方が幸せでしょう?
元当事者である私が言うんだから間違いない。
二人はちょっぴり辛い失恋を経験してもらう事になってしまうけど、泪子はどうせ別の男んトコ行くんだし、頼だって心を閉ざさずに済むかもしれない。
雪原 弥千代として二十三年生きて、客観的に二人の事を考えてみて。
可哀そうだと思うわよ。頼はずっと愛した女性にこれ以上ない裏切りを受けて。心を閉ざして、誰も信じられなくなるのも仕方ないかもしれない。
泉水泪子にしたってそう。どうやったって、こんな王子みたいな同級生がいたら、恋に恋する思春期の女の子が夢中にならないはずがない。その当時に将来絶対行き詰るからやめておけ、なんて言ってブレーキがかかるものではないだろう。
だからと言って! たくさんの人に迷惑を掛ける、誰の得にもならない恋愛劇を繰り広げちゃぁダメでしょ。
とぶつくさ愚痴ったのを聞いてくれたのは、河伯だった。
こういう事情があって、私は幼馴染の恋愛相談を受けるふりをして、虎視眈々と彼の恋を刈り取ってしまおうとしているのだ。
その為に子供の頃から頼と積極的に接触して親しい幼馴染という地位を獲得し、彼らの通う学校の保険医になっているわけよ。私のこの涙ぐましい努力!
新任として今年入ってきたばかりの私は、三年生である彼らの出会いは全然妨げられなかったけど、まだ恋人同士にはなっていない今なら間に合うはず。そう信じてる。
「自分でも嫌になるんだ。俺じゃ全然、何も力になってあげられない。いつももらうばっかりで。不甲斐なくて、他の男と話してる所見るだけで嫉妬してしまうくらい心が狭い……」
かわいいなぁ。
それが私は心に傷を負ってます、近寄るなお前のことなど信用しない、という苛つくくらい負のオーラを主張してくるダメ人間になってしまうなんて。やっぱりどうあっても阻止しなきゃ。
「どうやったら返せるんだろう。対等になれるんだろうって考えても、何も思い浮かばないんだ」
なんて健気……!
そうね、そうだったわね。こんな初々しい時期があったのよね、と感慨深く見つめていると、居心地悪そうに彼は視線を逸らしてしまった。
おっと、頼は真剣に相談してるっていうのに、話半分でずっと聞いてたわ。
咳払いをして誤魔化す。
「好きな人の為に努力するのは結構だけど、背伸びはしたって疲れるだけよ。今のままの天峰くんで私は十分だと思うし」
青いなぁとも思うけど。
ていうか泉水泪子は、そこまで高望みはしてないでしょうよ。学校の王子様的な存在なんだから今の状態で告白したって、即答でオッケーくれるって。教えてあげないけど。
頼ってこんな慎重派だったかなぁ。遥か昔の前世での高校時代を思い返してみる。ダメだ、記憶力が悪くなってきてるのか、いまいち細かくは思い出せない。
そして、気の利いた事を言うつもりがそもそもない私は、何の解決にもならない打開策を提示してみる。
「でももし、常に無理してなきゃ一緒にいられないような相手なら、やっぱり諦めた方がいい。そしたら私が天峰くんの事もらってあげるわ」
あはは! と笑いながら振った右手を、引っ張られた。
「きゃっ、……え?」
引き寄せられてソファから中腰に浮き上がる。その上強く握られて振りほどけない。急にどうしたのかと正面に座っていたはずの頼に目を向けると、思った以上に近くに整い過ぎた顔があった。
彼も立ち上がり、屈んで私に目線を合わせて至近距離から覗き込んできていた。
澄んだ色の瞳が私を捕える。
「それ、ほんと? 今のままの俺で千代姉はいいんだ? 俺の事、もらってくれるの?」
一気に質問されて、私は咄嗟に応えられず目を白黒させた。
「良かった……ずっと婚約の話無かった事にされてるんだと思ってた。あれ、まだ有効なんだね」
は? 婚約!?
あー、あぁ、はい。そういやしてたな。子供の頃に。
私の親と頼の親が仲が良かったから、私達も小さい頃はよく一緒に遊んでいた。
仲が良いな、と微笑ましげに見ていた父親に私がお願いしたんだった。純粋に頼を好きで言っている風を装い、その実、とても打算的な考えで。
最悪の場合を想定して、奥の手として婚約者という立場にいれば、私が直接土俵に躍り出て二人の仲を邪魔してやろうじゃないかと。それまでにあの手この手で穏便に済ます努力はしますよ? だけど、ホント最後の手段としてね。
奥の奥の必殺技として取っておいて……すっかり忘れてた。
ぽかーんとする私の目の前で、心底安堵してふにゃっと気の抜けたキラキラスマイルを振りまいている頼がいる。
うん? なにこれ、どういう展開?
「私との婚約が続いてて嬉しいの?」
「そりゃそうだよ。十年以上好きだった人と結婚が約束されてるんだから。嬉しくないわけがない!」
力強く言われて、もうどう返せばいいのやら頭が付いて行かない。
じゅ、十年以上? え、もしかして一緒に遊んでた子供の頃からって事?
「え、あれ? でも泉水泪子は?」
「泉水さん? 俺別にあの人と仲良くないけど……そんな喋った事もないし」
ええぇ!? じゃあなに? あんた一体今まで何の恋愛相談して来てたわけ!?
泉水泪子じゃなくって、私についての相談を私にしてたっての!?
「千代姉」
「んっ、んぅ」
呆然とする私を、熱を孕んだ目で見つめてくる頼に名前を呼ばれて、反応するより先に唇を奪われた。
一度は触れるだけですぐに離れて、次いですぐに二度目の口付け。
「頼!?」
「あ、久しぶりに名前呼んでくれた」
嬉しそうね! 頬を赤らめて微笑む頼に思わず和みそうになったけど、あんた何考えてんのよ!?
こんな、こんな……!
パニックに陥り顔を真っ赤にする私に「かわいい」と耳元で囁いてきやがるこの男は誰!?
さっきまで消沈してた頼は何処へ消えたのーっ!
もしかして。私が今思いついたただの仮設なんだけど。
本来なら生まれないはずの雪原家に私が生まれ、その私が泉水が現れるより何年も前に頼と接触して親睦を深めたその時点で、運命とやらは変わってたんじゃないだろうか。
泉水泪子と恋に落ちる未来は、もうとっくに消えてたのでは……
ああ、だから河伯は
『ま、軌道修正して、収まる所に収まるだけだろうし……』
なんて言ってたのか! あいつはとっくに頼の心が何処に向いてるのか知ってたな!?
「バカ伯め……!」
今頃職員室でほくそ笑んでいるであろう河伯に、文句を言ってやろうと、一歩踏み出そうとしたんだけど出来なかった。まだ手を握りしめられたままだったから。
「どこ行くの」
すっと頼が目を細めたのと同時に、体感温度もさっと下がった。さっきまでの上機嫌こそどこ行ったのっ?
すっかり冷え切った身体をカタカタと震わせていると、頼が難なくテーブルを跨いでこちら側へやって来た。
無意識に身体が逃げようとするも、やっぱり手を握られたままだから出来ない。
「言ったよね? 千代姉が他の男と話してるだけで嫉妬するって」
い、言ってましたね。まさか私の事とは思わず軽く流してたけど。
ていうか耳元で囁くなぁ! 背筋がぞわぞわする。若干涙目になりつつ頼を見上げる。
天峰 頼はこんな人間だっただろうか。
「あ、あなた本当に天峰頼?」
頼は私の唐突な質問にきょとんと目を瞬かせ、けれどすぐに笑顔を作った。
「そうだよ。他に誰に見えるの?」
「見えないけど……私の知ってる頼じゃない。私は」
私はこんなんじゃなかった!!
思わず叫びそうになって、慌てて口を噤む。
目の前にいる天峰頼は、私が天峰頼として生きた前世とはまるで別人のようだ。
今の私はあくまで雪原 弥千代であって、頼を自分自身だと思った事はない。
前世で彼として生きたという記憶はある。確かに自分の人生を変えたいという一心で、人生をやり直した。
だけど、弥千代になってみて頼に抱く感情は、物語の主人公に感情移入して肩入れするのと感覚的には近かった。
そして、歳の離れた幼馴染を、純粋に弟のような存在で大切だと思っていた。
「だったら、これから知っていってよ。ただの幼馴染じゃない、他の誰にも見せたことない……千代姉が引き出した俺を」
「私が、引き出した……?」
笑顔で肯定した頼に、湧き上がったこの歓喜はなんだろう。
泉水泪子じゃなく、私が頼を変えた。前世の頼には無かった一面は私が作って、私しか知らない。
その事に抱く優越感は、自分でも驚くほど大きかった。
頼の未来を変えたかった。
子供の頃に初めてかつての自分に会った時、懐かしいとは思ったけど、自身と同一視は出来なかった。それからもずっと、頼は私の中で幼馴染だった。
頼の恋の相手を、泉水泪子から変えてしまいたかった。どうしても。
彼はもう私にとって他人のはずなのに、どうしてずっとずっと何年も必死に、一途にその事を考え続けていたのか。
頼が他の人のものになるのが嫌だった。私を見てくれる可能性が欲しかった。
そんな想いが欠片も無かったと言える?
言えない。きっと、私の原動力はそこだったんだ。
前世の自分じゃないかと深く考えないようにしていたけど、弥千代はもうとっくに目の前の天使のようにも悪魔のようにも変化する年下の幼馴染に惹かれていた。
ごちゃごちゃと色々考えて、結局こんな単純な理由で私は頑張っていたんだと気付いて力が抜けた。
しかもそれを、頼に気付かされるなんて。
へなへなとソファに座り直した私に釣られて頼も隣に座る。
「千代姉?」
心配そうに覗き込んでくる頼の顔にそっと手を添えた。するとすぐにさらに頼の手が重ねられる。
「私も頼がずっと好きだったんだって、今気づいた」
「……っ」
頼が息を呑んだ。目を見開いて呆然と見つめてくる。そしてみるみる顔が赤く染まった。
何かを言おうと口を開いて、だけど言葉にならないまま、もどかしそうに私を掻き抱いた。
容赦ない抱擁に息がつまりそうになったけど、大人しく頼の為すがままになる。少し震えてる腕の感覚が愛しいと思ったから。
「千代姉……」
目元を赤くした頼の綺麗な顔が近づいてくる。唇が触れる寸前
「でも、付き合うのは頼が卒業してからね」
冷静な保険医としての私が、頼のキスを制止させた。
「は?」
このタイミングで言う? と思っているのをありありと頼の表情が伝えてくる。
それはそれ、これはこれ。
いや本当は抱擁されてるのだってアウトなんだけど、ここで止めてというのはあまりに酷だ。頼も、もちろん私も。
「十二年の恋心を寸止め出来ると思ってるの?」
「良く考えて。此処は学校、私は先生で頼は生徒でしょ」
「じゃあ家ならいいの」
「どう考えたってそういう問題じゃないよね!?」
怖い! 美形が目を据わらせるととんでもなく怖いから!
声のトーンも普段より低いし、相当ご立腹なのは分かるけど、ダメなものはダメなんだって。
「卒業って、あと何か月あるか分かってる?」
「えっと……、……九、か月?」
計算が遅くてごめんね! 頭の中で指折り数えながら答える。
「待てるわけない! なにその拷問っ!」
「わっ」
ぐいっと身体を後ろに押されて、そのまま倒された。
「ら、らい」
「ムリ。待てない。今すぐ欲しい」
いやいや、それこそムリですって! と言えなかった。
切羽詰まって焦りの見える瞳が、あまりに真剣に私を見降ろしてるから。
私をソファに縛り付けている手の容赦ない力が、頼の気持ちの強さなら、どう頑張ったって私は振りほどけない。
「……でもやっぱりダメ!!」
「ムリ!!」
なんていう、どこまでも不毛なやり取りは、様子を見に来た河伯が来るまで続いた。
忌々しげに舌打ちした学園の王子様がとても印象的だった。
後日、河伯を交えてこれから卒業するまでどうするのかを話し合う事になった。
私と頼の主張は平行線だし、頼が威嚇どころか攻撃しかねない勢いで河伯を敵視しまくるから、河伯がだんだん面倒になって来たらしく
「あーもう、付き合っちゃえばいいじゃん」
などと教師とは思えない問題発言をぶちかましやがった。
「妥協は必要だって雪原せんせ。全部ダメなんて言ってたら思いが鬱屈して、とんでもない爆発の仕方するよ? 彼の部屋に監禁されてベッドに繋がれたくないでしょ?」
ゾクッと悪寒が走った。
これは河伯の妄想なのよね? そうなんだろうけど。そうだって思うのに、何となく怖くて頼が見れないんだけど……!
今世で私がどんな道を取るのか、かなり以前から知り得ていた神の遣いに言われると、もしかしてそんな未来の分岐もあるんじゃないかって考えちゃうじゃない。
「ただし、清い交際でよろしく! 教師と生徒で爛れた関係なんて先生許しません。分かってるね? 天峰くん。情に訴えて雪原先生泣き落としなんてしちゃいけないよ? もしそんな事したら、今後一生、彼女に近づけなくしちゃうからね」
あくまで明るい口調を通しているというのに、河伯の迫力がなんかすごい。
頼までも圧倒されている。思わずと言った風に頷いていた。
「卒業しちゃえば、後はどんだけメチャクチャに愛情ぶつけたって誰も何も文句言わないんだから、もうちょっとの我慢じゃん。十年以上待ったんっしょ? よゆーよゆー」
「私は文句言う権利あると思うんだけど!?」
メチャクチャって何!? 怖い事言わないでってば!
この先が不安になるような事ばっかり言ってくるんだけど、何の嫌がらせ!?
「仕方ない。取り敢えず卒業までは我慢する。けど河伯先生のお許しが出た範囲でたっぷり愛情表現するから覚悟しといてね、千代姉」
いつもの五割増しでキラキラと周囲を輝かせる頼に、遅すぎる恋心を自覚したばかりの私が否やを言えるはずもなく。
なんやかんやで河伯的折衷案を受け入れた私達は、この三人以外秘密の、私の知らない真っ新な未来をこの日から歩むことになった。
主人公の前世は泪子の方じゃねぇのかよ!っていうミスリードを誘いたかったのに、上手くいきませんでした…
お読みいただいてありがとうございました