王子様の花嫁
ワイルダー公国第三皇子の娘、レイラへ対するクレイの溺愛ぶりは、近隣諸国でも知らない者はいない。
公務を終えたクレイは、今日も膝の上に飛び乗って来た愛娘をしっかり抱いてゆったりと椅子に体を沈めると、くるくると踊る金髪に顔を埋めた。
くすぐったそうにして身を捩る笑顔の眩しさに、クレイの一日の疲れは吹き飛んでしまう。
夕食前のほんの一時、料理の指示をする為にサラも不在となるこの時間は、クレイにとって父と娘の絆を結ぶ大切な時間だ。
いつもはこのままレイラの他愛ない話を聞くクレイは、しかしこの日はいつもと違った様子でレイラを見た。
「どうされたのですか、おとうさま」
愛らしい鳶色の瞳でレイラは同じ色の瞳を見つめる。
母親譲りの綺麗な色の金髪に、父親譲りの温かい鳶色の瞳を持つ娘に、クレイは優しく微笑んだ。
「今日は話があってね。デラから聞いたんだが…」
デラの名前が出た途端、レイラの瞳に怯えが走った。
「デラおじさまから、きのぼりのことをいわれたのですか」
娘をこれ以上怯えさせないように、出来るだけ優しい声でクレイは告げる。
「そうだ。おまえはデラが注意しても全く耳を貸さないそうだね。危ないから父上からおまえに直接注意するように、とデラに言われた。父上は木登りをするな、とまでは言わないが、デラが注意をするような高さまでは登って欲しくない。分かるかい?」
「だって…だって、おかあさまもこどものころはきのぼりしてたって…エルマおばさまだって…」
既に泣きそうになっている小さな姫が不憫で、クレイの心は激しく動揺した。しかしクレイはようやくその葛藤に打ち勝って、王家の人間として毅然とした態度で皇女を見つめる。
「母上は…そしてエルマ王女も少し、おまえとは事情が違う。おまえはワイルダー公国で初めての、生まれた時から王家の血を引く、唯一の姫だ。おまえはこの国の皇女なのだよ。ワイルダー公国の皇女とリブシャ王国の皇女は違うんだ」
「おかあさまのように、なりたいだけなのに…」
じんわりと瞳を潤ませる娘の、絹糸のような手触りの金髪を優しく撫でつけると、クレイは小さく溜息を吐く。
「おまえは母上のようになりたいのか?」
父のようになりたいと言ってはくれないことに傷付いているクレイの様子に気付くこともなく、レイラは無邪気に微笑んだ。
「はい。だって、おかあさまにそっくりになったら、しょうらいはおとうさまとけっこんできるのでしょう?」
「王子。本当に姫に注意して下さったのですか?」
眉間に皺を寄せて尋ねるデラに、執務室の文机で仕事をしていたクレイは上機嫌で答えた。
「仮にも森の女王の血を引く姫だ。草木の側にいる時に怪我をしたことはないとサラも言っていた。お前がその話を信じるかどうかは別として」
「…そのご様子では注意されていないようですね」
書類から目を離すことなく、クレイは続ける。
「この領地が緑溢れる土地になった以上、レイラは絶対的な森の力に護られるだろう。鬱蒼とした深い森でさえも姫にとっては心強い味方だ。そう森の女王が僕達に約束してくれた」
その言葉を聞いてデラは溜息を吐く。
「…あれほどの荒れ地が、ここまで緑豊かになったのですから、私も信じない訳にはいかないでしょう。時折、リブシャ王国のあの森にいるのではないかと錯覚するくらいです。正直、自分の息子もレイラ皇女の半分でもいいから快活になって欲しいと思っています」
「マイリも木登りは得意だった筈だがな。お前に似たのか?」
「そうかも知れません」
ワイルダー公国随一の騎士の言葉にクレイは耳を疑って、書類からデラに視線を移した。
「私は本来、臆病者です。あのような惨事に遭わなければ平凡な村人で一生を終えていたと思います。…ところで王子」
「何だ」
「レイラ皇女が何を仰ったのかは知りませんが…皇女ばかりを甘やかされていると、サラ様が黙ってはおられませんよ」
「サラが何か言っていたのか?」
「私にではなくマイリにですが。サラ様も腕白盛りの皇子達を相手にされていて、相当お疲れなのでしょう。そろそろエルマ皇女の顔が見たい、と話されていたようです」
その言葉の意味を正確に理解したクレイは急に立ち上がる。
「今日は僕が皇子達の稽古をつけよう」
「王子自らですか?」
「そうだ。サラとレイラも呼んでくれ。それからサラの剣と防具の準備も頼む」
「サラ様はともかく…レイラ皇女もですか?」
「ワイルダー公国の王家の血を引く唯一の姫が、剣も握れぬようでは困る。幸いにしてサラは剣の名手だ。レイラにとっても良い機会だろう」
あれほど娘を危険から遠ざけようとしていたクレイの態度の豹変ぶりに、デラは笑いを噛み殺す。
「良いのですか? お淑やかな皇女に育てたいと仰っていたのは王子だったと記憶していますが」
「いいんだ」
慌ただしく執務用の上着を脱いで稽古用の服に着替えたクレイは、一振りの剣を握った。
「もしサラがお淑やかな女性だったら、僕はサラと結婚することなどなかった。レイラもお淑やかな姫を好む王子とは結婚したくないだろう。レイラには自分の目で、自分に相応しい相手を見極めて欲しい。その為には先ず、色々な経験をさせ、色々な世界を見せて自ら決めさせることが必要だ。我が国が争いと切っても切り離せない関係にあることは、この国の皇女ならば知っておかなければならない事実だ。レイラが望むのなら剣の稽古をつけさせよう」
極端から極端へ走るようなクレイの言葉に、デラは不安顔になった。
「王子とサラ様の間に生まれた姫ですから、それはお強くなられることでしょう。しかし、それではご縁談が…」
「そんな事は諸国でも織り込み済みだ。レイラが結婚を望まないのなら、それもいい。滅多な男に、嫁になどやるつもりもない」
「まさかお父様と結婚したい、という言葉を真に受けておられるわけではありませんよね?」
デラの冷めた口調にクレイはぎくりとする。
「…どうしてそれを」
「マイリも幼い頃は村長によくそう言っていたそうです。そう言われた村長は傍目から見ても面白いほどに相好を崩し、呆れるほどに機嫌が良くなったそうです。恐らくレイラ皇女もクレイ王子にそう言っているだろう、とサラ様が仰っておられました。幼い娘の無自覚な戯言に父親がどれほど踊らされるかなど、当の本人には全く与り知らぬことだとも」
「無自覚な戯言…」
デラの言葉を鸚鵡返しに繰り返したクレイは、ぐぐっと剣を握る手に力を込める。
「王子に姫を手放す覚悟がおありなら、それで良いのです。では、参りましょう」
クレイの為に執務室の扉を開けたデラは、そのままクレイが通り過ぎるよう促した。
勿論、クレイの肩が僅かに震えていたことをデラが見逃す筈がない。
このお話のレイラは3〜4歳くらいです。
ワイルダー公国初の皇女なので、当然レイラは周囲からちやほやされています。きちんとレイラを叱れるのはサラとマイリとデラくらい。
そしてサラが「実家に帰る」ことはクレイにとって「レイラと離れる」ことと同義なので、クレイが慌てるわけですね。