私VS王子そして勝者ヴァネッサ
「ルカ・リントヴルム」
しばしの硬直から解放された私は、ルカをぎりりと見据えた。ルカはぴくりと肩を動かす。
奴が恋人のいるヴァネッサに横恋慕しているのは分かっていたが、だからと言って親友にもらった宝物をくれてやる義理は全くない。
更には同情もしない。
「とりあえず、そのブレスレットを返してもらいましょうか!」
私は地面を蹴り、ためらいなく王子に飛びかかった。
「ちょっと、君っ! 待って………」
まさか襲いかかられるとは思っていなかった彼が上ずった声で何か言ったが、そんなものは華麗にスルーした。
女性相手に完全に油断していたらしい彼は、あっさり私に押し倒される。
私は驚きのあまり動きが止まっている彼の手から無事に腕輪を取り戻した。
「そうそう。勘違いしているみたいだから言わせてもらいますけどね。
ヴェニーの一番はマルコでもあなたでもなくて私だから。
それと恋人でもないのに気安く愛称呼びしないで下さるかしら」
彼の男性にしては滑らかな白い肌がカッと朱に染まる。いや訂正しよう。薔薇色に染まった王子の肌は並の女性のものよりも遥かにきめ細かく綺麗だった。
女として腹立たしい限りである。
形のよい眉と切れ長の目をきりりと釣り上げて。紅を塗ってもいないだろうに鮮やかに赤い唇を噛み締め、負の感情のまま私を睨みつけるその顔は壮絶に美しい。
不本意ながらその憤怒の表情に見惚れた。
いつも村の女性に振りまいている芝居がかった笑顔しか見たことがなかったが、初めて見る本物の、それも激しい情熱を秘めた表情に私は完敗した。
彼の行き場のない情熱を何とかしてあげたいと思ってしまったのだ。
それが隙につながったのか。
「ふざけるな!」
彼の荒々しい叫びとともに私の視界がくるりと回り、気付けば私と彼の位置が入れ替わっていた。
私を組み敷いた彼は吠えた。
「今も昔も変わらずヴェニーは僕の物だ! あの男の物でもなければ君の物でもない! ヴェニーを愛称呼びする人間なんて皆僕の敵だ!」
私を灰にしようとしているのか。彼は茶色の目に燃えるような光を宿して、ギラギラとした炎の視線を私に注いでいる。
我が村では女性を愛称呼びにしていいのは、家族か同性の友達、異性であれば恋人に限る。
ヴェニーを愛称呼びする権利がない、という事実を王子はよく理解しているはずなのに、こんな風に食ってかかってくるなんて。
ヴァネッサにきっぱりと拒絶されて理性が崩壊したとみた。
「それを決めるのはヴェニーよ。あなたじゃない」
殺されんばかりの視線で睨まれても私は怯まなかった。
私は間違っていない。
「十五年だ! 十五年もの間、僕はヴェニーだけを思ってきた。なのに僕が王都に行っている隙にあの男がっ! 僕のヴェニーを!」
「何度も言わせないで。選ぶのはヴェニーよ。幼馴染で誰よりも長く側にいたはずのあなたが恋人になれなかったのは、あなたが選ばれなかっただけのこと」
ルカの顔色が一瞬青ざめ、直後、薔薇色に変化する。
こんなに怒り狂って。私は彼の頭の血管が切れないか真剣に心配した。
ヴァネッサに対する罵詈雑言は激し過ぎる愛着の裏返しだ。
それを理解していても、彼がこれまでヴァネッサにぶつけてきたひどい言葉の数々を許すわけにはいかない。
だから私は自分の言葉の刃が彼の柔らかい心を容赦なく切り裂くと分かっていても、言わずにはいられなかった。
私に馬乗りになった彼が怒りに任せて手を振り上げるのが見えても、私は逃げなかった。
私は間違っていない。
殴られる。覚悟した私がそっと目を閉じたその時。
「やめて! ルカ!」
「ヴェニー………」
叫びに目を開けると、ルカの腕にすがりついたヴァネッサの姿が見えた。
「アンリちゃん大丈夫?」
「うん。私は大丈夫。ねぇ、ヴェニー誤解しないで? リントヴルム殿だけが悪いわけじゃないの。私が彼を怒らせ」
「ルカを庇う必要なんてない。私が今まではっきり言わなかったのがいけなかったの」
ヴァネッサはルカの腕を放すと、彼の身体の下から私を引っ張り出し、改めて彼と対峙した。
「ルカひどいわ。いくら私のことが嫌いだからって、アンリちゃんを殴ろうとするなんて」
「僕がヴェニーを嫌い………?」
呆然と呟くルカの絶望に気付かずにヴァネッサは残酷な言葉を放った。
「私が嫌いなら私だけを攻撃すればいいのよ。なのに私の大事な友達を傷つけようとするなんて。最低だわ………。
ルカなんて大嫌いよ。もう顔も見たくない」
ルカに何を言われても怒らなかった温厚なヴァネッサが静かに激怒している。
それだけ彼女が私を大切にしてくれているのだと思うと嬉しいが、気がかりはルカだった。
私に手を上げたルカは確かに悪い。でもその原因は私にもある。彼だけが責められるべきじゃない。
ヴァネッサは私の腕を引くと駆け出す。
彼女に引っ張られながら振り返ってルカを見ると、彼は母親に置き去りにされた子供のような顔で放心してへたり込んでいた。
その姿は雨に濡れた捨て犬にも似て、哀れを誘う。
私は前を走るヴァネッサに一声かけようとし、その表情を見てハッと胸を突かれた。
ルカを攻撃したのはヴァネッサのはずなのに、まるで彼女の方が手酷く傷付けられたかのような憔悴した顔をしていたのだ。
それから私とヴァネッサは午後の授業に戻ったものの、教師の講義は全く頭に入ってこなかった。
放課後。
魂が抜けた状態の親友を連れて、私は隣村へ向かった。
私たちの村から隣村まで歩いて二時間はかかる。
約束なしで急に訪れた私たちをマルコは驚きとともに迎えたが、ヴァネッサの様子を目にして、気遣わしげな表情になった。
「ヴェニー? そんな顔をして。一体何があったんだい」
「………………………」
黙って唇を噛み締めているヴァネッサをマルコは労わるように抱き寄せた。
しばらくして、マルコの胸に顔を押し付けたヴァネッサが、嗚咽を漏らし始める。
「原因はリントヴルムよ。ヴェニーが彼と喧嘩したの」
「かわいそうなヴェニー。またあいつにひどいことを言われたの?」
彼女の背を優しく撫でて、マルコは温和な彼に似合わない剣呑な目付きになった。
私は慌てて説明を試みる。
「それが今回は違うのよ。ヴェニーがリントヴルム殿に反撃したの。大嫌いって言って。おかげであのお坊ちゃんは再起不能よ」
「なるほど。彼には同情するけどこれまでの報いを受けただけだ。それなのにヴェニー。何故君がこんなにも傷付いているんだい?」
マルコがあやすように尋ねると、ヴァネッサは途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
「わたし。ルカに、ひどい、こと」
「彼が長年、君に言ってきた言葉の方がひどいと僕は思う」
「言葉の量や内容じゃないの。わたしの、わたしごときの短い一言で、ルカが死にそうな顔をしたの。あんな顔するなんて。古くからの付き合いなのに。初めてで」
マルコは優しく彼女の髪を撫でながら尋ねる。
「どうしてリントヴルムが君に暴言を吐くのか。どうして今まで君にひどいことばかりを言ってきた彼が、君のたった一言で激しく打ちのめされるのか。その理由は分かるかい?」
ヴァネッサはかぶりを振った。
「分からない。彼の考えていることが私には全く分からないわ」
「君は後悔しているかい?」
「後悔?」
「幼馴染の彼ではなく、僕の恋人になったこと」
ぐっと彼女を抱く腕に力をこめたマルコは、苦しげに顔を歪めた。
「どうして? 私は貴方が大好きなのに。大好きだから恋人になれて幸せなのに、どうして後悔なんて言葉が出てくるの?」
「それは彼が」
「ルカが?」
「彼が君を」
「待って!」
私はマルコを遮った。
「駄目。マルコ、それはフェアじゃない。リントヴルム殿の気持ちは彼自身の口から告げるべきだよ。貴方が悔しく思う気持ちも分かるけれども。このままだと、リントヴルム殿の想いが亡霊になってしまう」
ルカの恋心にきちんと決着をつけさせたい。
私は先ほどの彼との短いやり取りの中で、彼の燃えくすぶり続ける心に触れた。こんなにも熱く、悲しい想いを目の当たりにしてしまったら、もう放っておくことなんて出来ない。
心配げに私を見るヴァネッサとマルコに向かって、私はどんと胸を叩いてみせた。
「ヴェニー。マルコ。私に任せて。リントヴルム殿が正直な素直な気持ちを貴女に伝えられるよう、私がしっかり特訓するから。だから私たちに時間とチャンスをちょうだい」
真剣な私の表情に二人は頷いてくれた。