プロローグ
うんざりするほど長い夜に別れを告げるために、
半年前から早朝のコンビニでバイトを始めた。
夜11時には寝て、朝の5時には起きる。
朝ごはんはバナナとかヨーグルトとかで済ませて
まだ太陽の差さない道を自転車で、颯爽と通り抜ける。
おかげで肌もきれいになったし、
少し出ていたお腹も、締まってきた気がする。
お昼に上がって、大学に行って、適当に友達と話を済ませたら
あっという間に溜まっていた疲れが顔を出し、眠くなる。
そう、今のわたしは
夜が夜になる前に、眠くなる。
健康的だし、理想的。
だけど、本当は分かっている。
こんなことじゃ、解決していない。
こんなことは、答えにならない。
渦巻く疑問を、とりあえず後回しにしているだけ。
そう、今のわたしは
夜がやってくるのを、ひたすらに避けている。
その日、目が覚めたのと同時に異変を感じた。
ぱっと開くはずのまぶたが、やけに重く、熱い。
起き上がろうとして、それが体中に蔓延していることに気づいた。
ずきずきと痛む頭を抱えて、1階に降りていくと、
しーんとしたリビングの棚から体温計を取り出し、脇に挟んだ。
ごんと、支えきれなくなった頭をテーブルに落とすと、
ほっぺたにあたるビニールのクロスがひんやりとして、とても気持ちいい。
やがて、電子音で知らされたその体温を見て、驚いた。
38.9℃
一人になってから、初めて風邪を引いてしまった。
しばらく、そこでいろいろと考えをめぐらしてみたが、
コチコチと進む時計の針に押されるように、
とりあえず2階の自分の部屋へと、戻ることにした。
今日は、バイトなのに。
時間までは、まだ十分あるけど、これでは働けそうもない。
休むことはできても、迷惑をかけてしまう。
わたしの働くコンビニは、周りに学校が3つもあって、
それでいてオフィスビルもあったりするものだから、朝はなかなか忙しい。
3人で入っても、いつもキリキリなのだ。
わたしは、ベッドにうわっと倒れこむように戻ると、
近くに置いてあった携帯に手をかけた。
「・・・もしもし。」
意外にも3コールで坂下くんは出てくれた。
「もしもし?」
「あの・・・原田だけど・・・。」
「原田さん?どうしたんすか?声ガラガラっすよ。」
「熱が・・・あって・・・。」
「え〜、大丈夫っすか。相当苦しそうですよ?」
「うん。苦しい・・・。」
坂下くんは、早朝組のシフトの子ではないが、
同じ大学に通うサッカー好きの、かわいい感じの後輩だ。
「もしかして、バイト入ってるんですか?」
「うん・・実はそれで・・・替わってもらえないかと思って・・・。」
「あぁ〜・・・。」
坂下くんは、明らかに困った感じでトーンを下げた。
「あ、、無理なら・・・」
「いや、俺はちょっと1限あるんで無理ですけど、他あたってあげますよ。」
「いや、でも・・・」
「いいですからっ。ちょっと待っててください。」
他、
そう言って切れた電話を握り締めながら、
わたしには一人の男の子の顔が浮かんでいた。
賀谷恭平
坂下くんが「他」をあたるとしたら、あの人しかいない。
わたしは、うつぶせのままだった体をごろんとひっくり返すと、
携帯をパチンと閉じた。
賀谷くんは、同じ歳の深夜組みの人で、
いつもシフトの入れ替えの時に挨拶を交わす。
坂下くんと仲のいい人。
それだけ。
だけど、それだけではないことを、わたしは知っている。
好きなのは、クリームがけのコーヒーゼリーと古谷実。
嫌いなのは、酔っ払いとスポーツ新聞。
わたしと、一緒だ。
ぼんやりと浮かんでいた賀谷くんの細かいディテールを思い出そうと、
熱い額をさすっているところに、メールの着信音が鳴った。
2007/4/25 5:16
subject 賀谷です。
坂下くんから聞きました。僕、大丈夫なんで替わります。
店長にも伝えとくんで、ゆっくり休んでください。
熱い体が、さらに熱くなるのを感じて、
わたしは再びうつぶせになった。
枕元に置いてあるくまが、こっちにフフフと笑いかける。
「いや、違うんだよ。くまくん。」
わたしは、ぎゅっと手を伸ばすと
くまの顔をつかんで、たぐり寄せた。
「違うさ。これはそんなんじゃない・・・。」
力なく抜ける独り言が、熱い息に変わる。
「だって、もう懲りたじゃん。あたし。」
くるっと、くまの顔を自分の方へ向けると、わたしはその手でくまを頷かせてみた。
「そうそう。・・・なーんにも始まらないよ。」
くたくたになったくまくんを握り締めると、
わたしはゆっくりと目を閉じ、再び、眠りについた。