魅惑の夜会ー7
それはあまりにも刹那の間に起きた。
闇に沈んだ庭園を眺めていた音恋の目の前に、彼女は音もなく舞い降りたのだ。
ダイアが散りばめられた仮面で目を隠した薄桜色のドレスの女性。音恋にはそれだけしか、記憶できなかった。
声を出す暇も与えられず、隣にいた黒巣から引き離される。瞬きする前に庭園の中に連れてこられたかと思えば、背後に回られ首を握られた。
そこでようやく自分の危機を理解して、音恋は息を呑んだ。
すぐにいなくなったことに気付いたリュシアン達が駆け付けた。瞬き一つの間、遅れて黒巣も駆け付ける。
音恋はなにも言わなかった。取り乱さないように冷静を心掛ける。
リュシアン達が飛び掛からないためだ。
一番は、黒巣のため。
音恋のためなら、最強の吸血鬼にも無謀でも立ち向かい救おうとする黒巣が、音恋の怯えた表情に耐えきれず飛び掛かることを防ぐためだ。
音恋は黒巣を見つめた。
黒巣はぐっと堪える。
音恋の首が握られているのだ。リュシアン達は迂闊には動けない。
「……奇怪な匂い」
音恋の背後に立つ女性が、口を開く。
その魅惑的な声が耳に吹きかかり、音恋は微かに震えた。
「人間と吸血鬼……完全に混ざりあっていない匂い……。まことに、奇怪ね」
クスリと優美に笑うと女性は親指で、音恋の首筋を撫でた。
音恋の特異質に惹かれて、手を出したのだ。
リュシアンは目を細めて、見据えた。
「放しなさい。彼女は我々の連れだ。……傷をつけたら、ただでは済まない」
鋭く忠告を告げる。
こんな風に音恋にちょっかいを出されることは予想外。しかし、対処する自信があるこそ連れてきた。
リュシアン、アメデオ、ヴィンセント。この力のある吸血鬼を相手に勝つことなど不可能に等しい。
「あらあら」
音恋の後ろに立つ女性は、可笑しそうに笑って首を傾げた。
「数百年でもうわたくしの声を忘れたと言うのかしら? リュシアン」
仮面を外してにっこりと微笑む女性は、リュシアンとよく似たオッドアイを細めている。
「……姉上っ?」
同じオッドアイを見開いて、リュシアンは彼女を姉と呼ぶ。
音恋も黒巣も、目を見開く。
ヴィンセントはただ見据えた。アメデオもリュシアンを一瞥するだけで、姉を名乗る彼女を見据える。
リュシアンの姉であろうとも、音恋の首を握る吸血鬼だ。音恋に危害を加えようとするなら、許さない。
散々吸血鬼に痛め付けられてきた黒巣も、油断できなかった。
傲慢な吸血鬼がどんな行動をするか、わかったものではない。
「お久しぶり、リュシー」
クスクス、笑いながら姉は音恋にダイアの仮面をつけた。
音恋はまだ身構えている。
「……アリシアン……ふざけないでください。彼女を放してください」
リュシアンは息をつくと、音恋の解放を頼んだ。
姉、アリシアンは笑った。そして音恋の髪を両手で持ち上げては撫でる。
「その前に答えなさいよね。この子は、なに? 吸血鬼と人間のハーフ? でも貴方に近い匂いがするわ。……あなたの娘?」
「見当違いですよ」
「ぶふっ!」
音恋の特異質の理由を、アリシアンはそう推測した。当然、違う。リュシアンは呆れて否定する。
アメデオは豪快に吹き出して、リュシアンの背中を叩いた。
「リュシアン……」
黒巣が音恋を心配して、リュシアンを急かす。
「彼女はボクの血が体内に入っているうちに死にかけましたが、人間として蘇生されたのです。中途半端に吸血鬼に成った人間。大事な人間なのですから、解放してください」
黒巣に目を向けてから、リュシアンはアリシアンに頼んだ。音恋の正体を簡潔に明かした。
「……あらあら。中途半端な吸血鬼?」
アリシアンはやっと音恋から手を離す。そして音恋から仮面を外して、踊るようにターンをさせた。
「大事な友人?」
「……はい」
優雅に問うアリシアンに、音恋は静かに頷いてリュシアンの友人だと認める。手を重ねたまま、音恋はスカートを摘まんでお辞儀をした。
「宮崎音恋です」
「あら、礼儀正しい子。気に入ったわ。恋人じゃないの?」
ご機嫌な様子でアリシアンが音恋の手を放した途端、黒巣は飛び込んで音恋を抱き締める。音恋も黒巣を抱き締めて安堵して息を吐いた。
「彼女は彼の恋人ですよ」
リュシアンはそれを横目で見て告げる。
「友人は吸血鬼、恋人は鴉天狗、吸血鬼であり人間である少女。本当に奇怪なこと」
アリシアンもそれを見て、可笑しそうに口元を緩めた。
「噂の鴉天狗かしら? ああ、学園の理事長を務めるのは白い翼の鴉天狗だったわね」
「……俺の祖父ですが」
「まぁ! リュシーったら、いい子ね。会いたかったのよ、噂の学園の鴉天狗に」
漆黒鴉学園を経営する鴉天狗の孫。それを聞いて、アリシアンは喜んだ。
黒巣は身構えて、音恋を庇うようにアリシアンから後退り離す。
経験上、吸血鬼の頼みはろくなものではない。そして拒否権はないのだ。
パン!
リュシアンは手を叩いて、アリシアンの気を引いた。
「数百年ぶりに再会した弟に、他にかける言葉はないのですか? そもそも、どこからそんな噂を耳にしたのですか?」
黒巣を庇うように、リュシアンは情報源を問い詰める。
ロンドンまで漆黒鴉学園のどんな噂が届いているというのか。
アメデオだけは完全に警戒を緩めて、ポケットに手を入れて会話を眺める。
学園に関することで、音恋と黒巣、そしてヴィンセントはまだアリシアンを警戒した。
「耳にも届くわ。だって」
アリシアンはほくそえむとパチンと指を鳴らす。
「狩りの標的にされた吸血鬼を庇う学園だもの」
その指が差す先は、アメデオ。
ほぼ同時に真っ黒な闇から音もなく男が背後に降り立ち、アメデオの首を掴んだ。そして捩じ伏せようとした。
瞬時にリュシアンはアメデオを掴む男の手を掴んだ。
ヴィンセントも動き、男の首に爪を立てて動きを封じた。
「レディの前で……何をなさるつもりですか?」
ヴィンセントは男に問う。
夜会の参加者であろう男は、髪をオールバックにして、黒いコートに身を包んでいた。
アメデオを屈ませている男が、二人に掴まれていても動じない。沈黙して鋭い眼差しで見据えた。
リュシアンは姉に目を向け、視線で問い詰める。
何のつもりか。
そこで、不可思議な音が吸血鬼達の耳に届く。
音恋も気付いて、顔を上げる。
闇夜の空に、音が響く。まるでワイヤーが擦れる音とそれを巻き付けるモーター音。
リュシアン達の頭上からその音を発するものとともに人が落ちた。
ドスンッ!
屈んでいたアメデオの背中に着地するなり、二つの銃口をリュシアンとヴィンセントの額に突き付けた。
小柄な少年らしき人物は、黒い革のジャケットと、黒いブーツ。白いズボンを履いていて、それが不気味に浮かぶ。
「オレの相棒を放してくれるー? 紳士諸君」
そう言ってコートの男の解放を要求した。
「ちょっとー? 重いんだけど、勝手に乗らないでくれるー? 殺しちゃうよー?」
「オレの体重ぐらい我慢しなよー、指命手配のアメデオ・アルーノ君」
首を掴まれ捩じ伏せられ背中に乗られているアメデオは、殺気立ちながらも笑みを浮かべる。
「黒巣くんっ!」
「!」
突如現れた二人の狙いはアメデオ。音恋は黒巣を呼んで頼んだ。
黒巣はすぐにアメデオの上に乗る少年を風を起こして吹き飛ばす。
両手が塞がった少年は転がり落ちる。瞬時に音恋は覆い被さり、銃を持つ両手を押さえた。
「!」
音恋は目を丸める。
少年は人間だ。人間にも関わらず、夜にサングラスをつけていた。人間の目には、なにも見えなくなるはずだ。なのに見えているようだった。
なにより驚いたのは、その少年は――。
少年がニヤリと笑った。
途端、逆転し音恋は地面に捩じ伏せられ、少年が上に跨がり銃を突き付けた。
「お嬢さん、ちょっとじっとしていてよねー」
懐から取り出したのは、小さなナイフが二つ鎖に繋がったもの。
それを音恋の首を挟むように地面に突き刺した。銀が弱点である吸血鬼の動きを封じたつもりだ。
しかし、音恋にそれは通じない。すぐにひき抜いて音恋は立ち上がる。軽くドレスを叩いて、整えるとアメデオの前に立つ。
「あっれー? なんでシルバーが効かないの?」
向き合うように立つ少年は、可笑しそうに口元をつり上げて首を傾げた。
「何故ハンターが吸血鬼の夜会会場にいるのですか?」
音恋は質問を向ける。
身のこなしからしてハンターだ。それも凄腕。微かに吸血鬼の血がする。恐らく吸血鬼の血で身体能力を上げているのだろう。
「アメデオを狩るためですか?」
そして相棒が吸血鬼とその口が言った。
吸血鬼と手を組んで、アメデオを狩りにきたのだろうと推測する。
黒巣も庇うように、音恋の隣に立ち手を握り合う。
「人殺し吸血鬼は狩らないと、お嬢さん。鴉天狗くんも退いてくれないと、撃っちゃうよー?」
そう笑って脅しを言うが、二人に銃口を向けない。
「アメデオは狩りの対象から外れました。何のつもりですか?」
リュシアンは怒りを込めて、姉に問い詰めた。
「兄上が半年前ほどに、わたくしの元に来たの。アメデオ・アルーノに匿っているのかと疑ってたわ。まさか、貴方が匿っていたなんてね。貴方こそ、何のつもりなの、リュシアン。グールを作った吸血鬼よ」
「アメデオは問題の狼人間の群れからハンターを守り、ハンターと吸血鬼の戦争を防いで救ったのです。人殺しもしない、償いのためならどんな条件も呑むと誓い、ハンターから狩りの対象外にしてもらったのですよ」
アリシアンから兄がアメデオを探していると聞き、動揺が走るがリュシアンは噛みつくように言い返す。
「狼の群れを退治したのはリュシアン、貴方でしょう?」
歌うようにアリシアンが問い掛けた。
大半の狼人間を退治したのはリュシアン。その功績をアメデオに全て渡した。
それを見抜かれている。
「吸血鬼とハンターの戦争を防ぎました。情状酌量の余地があると、判断されました。だから放していただけませんか?」
そこで音恋が口を挟んだ。
「争いたくはありません。しかし貴女がアメデオを処刑すると言うのならば、私達はアメデオを守るために全力で戦います。大事な友人なのです。どうか、解放してください。お願いします」
こちらの意思をはっきり告げて、音恋は静かに頼む。
「恋ちゃん……」
アメデオは顔を上げようとしたが、押さえ付けられていて叶わなかった。
「理解に苦しむわ……罪深い彼にそこまでする魅力があるのかしら?」
アリシアンはゆるりと首を振ると、微笑んで音恋に問う。
「……えっと……んーと……ええーと……」
音恋は顎に手を当てると、俯いた。緊迫の状況が沈黙する。
アメデオの魅力について考えて黙り込んでしまった音恋に、一同が注目した。
アメデオの長所。それがなかなか出てこない音恋は唸る。
一同が待っている間に、一分、二分と経過してしまった。
「そこはすぐに言って、恋ちゃん!」
音恋のフォローを待ち焦がれていたアメデオが、沈黙を破る。
「無理をなさらないでください、音恋さん」
「そうだ、ないものを無理に言う必要はないよ」
ヴィンセントとリュシアンはこれ以上は考えなくともいいと声をかける。
アメデオに長所はないとも遠回しに言った。
「お前ら、絶対に殴るから覚えておけ」とアメデオがまた殺気立つ。
「ぷはははっ!」
緊迫の空気が吹き込んだその場に、笑い声が響く。ハンターだ。
サングラスを外したハンターは、音恋達と変わらなそうな年齢。女性に見える綺麗な顔立ちで、瞳は琥珀色。
無邪気に笑って、手にしていた銃をしまった。
「あー、おっかしー! 夜会の吸血鬼と違うじゃん。いいね、気に入ったぜ。はいはい、ここらでお開きとしよう。アメデオ・アルーノを試したかっただけなんだぜ」
「こら、ハリー。ネタバラシが早すぎるわ」
「女の子がいるんだから、ここらへんにしようよ。アリシーさん」
ハリーと呼ばれたハンターは、アリシアンに笑いかける。アリシアンは残念そうに肩を竦めた。
「ロンドンに来たって目撃情報が入ったから、アメデオ・アルーノが本当に改心したのか、確かめたかっただけなのさ。許して、お嬢さん」
音恋に歩み寄ると、ハリーはそっと音恋の頬を撫でる。その手を黒巣は叩き落とした。
その行動に音恋もハリーもキョトンとする。
やがてハリーは可笑しそうにニヤリと笑った。
「ウィル、放してやれよ」
音恋の肩越しに、ハリーがコートの男に言う。
アメデオを睨むように一瞥すると、ウィルと呼ばれた男は彼の首を放した。
リュシアンもヴィンセントも、続いて手を離してウィルを解放する。
「オレは始末したいがな」
ウィルは本心をはっきりと告げた。
背伸ばしたアメデオが、振り向くとにっこりと笑みを浮かべて彼に歩み寄る。そして間近で、殺気立つ翡翠の瞳で睨んだ。
「やってみろよ」
「……」
アメデオとウィルだけが一触即発の険悪ムードになる。
「お止め、ウィル」
「アメデオも……」
半分呆れながら、アリシアンと音恋が止める。
ウィルはしぶしぶ。アメデオはコロッと無邪気ぶった笑顔になると、音恋に抱き付こうと両腕を広げた。それをヴィンセントが襟を掴み、阻止する。
「アメデオを、見逃してくれるのですね? 姉上」
リュシアンは確認した。アリシアンは笑う。
「ええ、リュシーの数少ない友人だもの」
「……」
「でも兄上は始末する気でいるわ。わたくしが以前グールを作った吸血鬼を仲間にしたから、アメデオもそうかと疑っていたの。次は許さないって、殺気立ってたわ」
リュシアンに兄のことを話すと、アリシアンはうんざりしたように息をついた。
吸血鬼を狩り続けている兄の話を聞き、リュシアンは顔を曇らせる。
「……その吸血鬼は……もしや、百年前にロンドンでハンターに追い回されながらも……令嬢を愛した吸血鬼ですか?」
音恋はグールを作った吸血鬼の話に食い付き、今回の旅行の目的である例の吸血鬼かもしれないと問う。
アメデオとヴィンセントも反応して、注目した。
「あらあら? もしかしてあの本を読んだの?」
「知っているのですかっ? 姉上」
アリシアンは歌うように笑い、頬に手を当てて首を傾げた。リュシアンが食い付き問う。
「もしや、令嬢を吸血鬼に変えたのですかっ?」
運が良ければアリシアンと出会い、吸血鬼に変えてもらい、永遠に愛し合えたかもしれない。
そう願って、ここまで来たリュシアン達は、アリシアンの返答を待つ。
期待の眼差しを受けて、アリシアンは見目麗しい顔に笑みを浮かべた。
「ええ、その通りよ」
肯定。
令嬢は吸血鬼となり、永遠に結ばれた。小説には描かれなかったハッピーエンドを向かえたのだ。
リュシアンとアメデオは顔を合わせ、無意識に口元を緩めた。
「二人に会わせていただきたいのです。いいですか?」
興奮を抑えながらもリュシアンは、アリシアンにお願いをする。
アリシアンは手袋に包まれた指先で唇の下をなぞりながらクスクスと笑った。
「もう会っているじゃない」
その指先が、ウィルを指差す。
「ウィルフレッド。彼がその吸血鬼よ」
百年前のヨーロッパで暴れ、令嬢と出会い、愛した吸血鬼。
注目されたウィルフレッドは、その視線に興味がないと言わんばかりそっぽを向いた。
◯12月24日水曜日に、本編の一部を下ろすことをお知らせいたします。ご了承くださいませ。◯
20141215