運動音痴
幾度も、想像したことがある。
自分の身体を、思い通りに動かすことを、想像した。
ワックスでピカピカの体育館の床を、バスケットボールを叩き付けながら蹴り上げて進む。
まるで狭い部屋でボールの弾む音が響いているかのように、ダムダムと耳元で大きく聴こえた。
阻もうとする手を避けて、目指していたゴールの前で、キュッとシューズでブレーキをしてそのまま上へと飛ぶ。
掌で大きなボールを押し上げるようにゴールの中へと投げて、シュート。
――――今までは想像するだけだったそれが、容易く実現できてしまう。
そんなことをしてしまっては、どんなことになるかは予想が簡単なのに、今度の身体は脳の指示に従順すぎる。
「…………」
ダムダムと跳ねては転がっていくバスケットボールを目で追いかけたあと、一緒にコートで試合していた生徒達と目を合わせた。
半吸血鬼化の身体を上手く動かすことができるまで、体育の授業は見学をしていたけれど、元気ならばと雪島先生に参加することを強制された。
だから今日は、半吸血鬼になってから初めての参加。
人間のフリは苦労せずにできた。でも、運動音痴のフリはできない。
人間のフリは想像するのが容易いけれど、運動音痴は難しい。
身体能力が優れた私には、運動音痴を演じることは難しかった。
「ネレンすごーい!!」
体育館の生徒達が唖然としている中、親友のサクラだけが手放しで喜び、コートの外から手を振ってきた。
ぱちぱち、と唖然としつつも生徒達が拍手をしてくれる。
おず、と頭を下げておいた。
「ふふ」
「……私が失敗して楽しんでるでしょ」
「そんな、まさか」
体育の授業が終わり、片付けも済んだ体育館から生徒達が次々とあとにする中、リュシアン・モルダヴィアが口元に拳を当てて笑っていた。
笑みを隠そうともしない彼は、またちゃんとジャージを着て体育に参加した。
ジャージを着ていても、薄い白金髪でオッドアイの麗しい美少年だ。
「雪島先生に、サボるなと言われ、全力を出すなと言われ、どうすればいいのやら……」
「ボクに聞かれてもね。ボクは運動音痴なんて経験したことがないから」
雪島先生には無茶な要求されてしまい、項垂れる。リュシアンは肩を竦めた。
「そもそも運動音痴というものは自分の身体の動かし方がわからない頭の悪さと、身体能力の低さが原因らしい。君の場合、身体能力が補われて、頭はいいから、運動音痴は克服したということだ」
「それは嬉しいけれど……」
私はリュシアンの袖を摘まんだ。
「これでは怪しまれる……なにか、案はないですか?」
運動音痴は周知の事実。
それがいきなりドリブルしてシュートを決めてしまっては、学園の秘密の発覚の恐れが高まる。
迷惑をかけないように、対策を練らなくちゃ。
摘ままれた袖を見てから、リュシアンは「そうだね……」と顎に手を当てて考えてくれた。
「そう焦らなくとも、バレた時はボクが暗示を使えばいい。君は思う存分、前世の分まで楽しめばいい」
私の前髪を撫でると指先でそっと耳にかけるリュシアンは微笑む。
最近、リュシアンがよくする仕草。
アメデオの方がスキンシップが激しいから気にしなかったけれど、彼に見られたら…――――。
ぐいっ。
右腕を掴まれて、後ろへと引っ張られた。
振り返れば、リュシアンから引き剥がした黒巣くん。
見られていました……。
「暗示は禁止だということを忘れたんですかー?」
ギロリ、とリュシアンを睨む黒巣くん。
例え秘密がバレても無闇に使うことは禁止されている。
「忘れていないよ。でも、宮崎さんを守るためなら、そのルールは破る」
黒巣くんの反応を見て、面白そうに口角を上げたリュシアンは私の左手を握ると、今度は黒巣くんから私を引き剥がした。
引っ張られた勢いで、リュシアンの腕にぶつかる。
「吸血鬼はすぐ能力を使いますねっ。そんなことせずとも、隠し通せますよ!」
黒巣くんはカチンときた様子で、私の右腕をまた掴むと自分の方に引き寄せた。
今度は黒巣くんの胸に額をぶつける。
「自分の秘めたい想いすら隠し通せない君が、どうやって隠すと言うんだい?」
リュシアンはまた私の左手を掴むと、私を引っ張り背中に隠した。
「文化祭の舞台で、宮崎がダンス紛いのアクションをしたじゃないですかっ……舞台のために運動音痴を治したとその辺のファンに言えば、簡単に誤魔化せます!」
黒巣くんはリュシアンの後ろに回ると私の腕をまた引っ張る。でも今回、リュシアンは私を放さなかったから、二人の間で綱引き状態になった。
「ふふ、頭の悪い生徒ばかりだから、その程度で対処できるんだ? 生徒会も楽勝のようだね」
「能力を酷使してきた貴方からすれば、すこぶる楽勝に見えますよねっ」
からかって皮肉を言うリュシアンに対して、黒巣くんも皮肉で返す。
始祖の吸血鬼と知ってもそんな反応をするから、面白がられてるのですよ。黒巣くん。
「あれ、宮崎さんが、遊ばれてる……」
「違うよ、黒巣くんがリュシアンくんに遊ばれてるんだよ」
近付く声に目を向ければ、緑橋ルイくんと橋本美月ちゃん。
いそいそとジャージの袖に腕を通している緑橋くんは、頭の上で束ねている前髪を気にしている。
隣の美月ちゃんは、黒髪を一つに束ねたゴムを外しながら私に穏やかな微笑みを向けた。
「なんだか、音恋ちゃんとリュシアンくん、雰囲気似てる」
私とリュシアンが似ている。
そんなことを言われて、ちょっぴり焦りが走った。
美月ちゃんは、目敏い。
見た目よりも、雰囲気の変化に敏感に反応するものだから、美月ちゃんの前では絶対に失敗してはいけない気がする。
「ボクの血で吸血鬼になったんだ。似るのは当然だろ?」
気を付けようと思った矢先に、リュシアンがとんでもないことを美月ちゃんに向かって言い放つ。
美月ちゃんはきょとんとするけれど、私と黒巣くんと緑橋くんは息まで止めて固まる。
美月ちゃんは私達の反応を横目で見て、首を傾げた。
「……ああ、すまない」
ハッとしたように目を丸めたリュシアンは、謝罪を口にすると魅惑的な微笑を浮かべる。
「今読んでいる本に吸血鬼出ていたから、その話をしていたところだったんだ。橋本さんにわからない冗談だったね、すまない」
「あ、そうなんだ。人間が吸血鬼になるお話?」
「そう、吸血鬼の血で麗しい娘が吸血鬼になってしまうお話だ」
リュシアンは上手く誤魔化した。
納得して頷く美月ちゃんを見て、誰よりも緊張した緑橋くんは胸を撫で下ろす。
「じゃあボクは失礼するよ」とリュシアンは私の腕を放すと、先に体育館を出た。
私は美月ちゃん達に軽く会釈をしてから、リュシアンを追う。
「すまない。ボクはてっきり…………秘密を知った上で交際しているとばかり思ったんだ。軽率だった」
追い掛けてくるとわかっていたリュシアンは、渡り廊下を歩きながら私が問うより先に言った。
緑橋くんと美月ちゃんは交際している。でもまだ、緑橋くんは自分の正体と学園の秘密を明かしていない。
リュシアンは美月ちゃんが既に関係者になっていると思い込んで、うっかり口にしてしまったみたい。
「緑橋くんにもあとで謝っておくから、君まで責めないでくれ」
リュシアンがひらりと手を振るから、私は足を止めて見送る。
謝罪をするなら、私もなにもいいません。
緑橋くんが一番焦ったでしょう。
「謝るのはいいけど、態度でかすぎ」
真後ろから黒巣くんの声。
黒巣くんも謝る時は、大半ツンデレでしょ。
そう思いながら振り返ると。
ちゅ。
黒巣くんの唇が前髪に押し付けられた。
驚いて目を丸める。
誰もいないとはいえ、まさか彼から校内で、渡り廊下で、キスをされるとは夢にも思わなかった。
「運動音痴治したって噂、広めておくから心配するなよ。もっと楽しんでもバチは当たらない」
ぐしゃぐしゃと私の頭を少し乱暴に撫でると、黒巣くんは先に更衣室へと行ってしまう。
少し乱された髪よりも、黒巣くんの唇が触れた前髪が気になり左手で押さえる。
黒巣くんの背中を見送りながら、私は微笑みを溢した。