さぁ行こう。想いを叶える為に。
柵に囲まれた世界。柵の向こうの世界。
それが僕の世界の全てだった。
どうして自分は柵の中なのだろう、と考えた事は何度もあった。
疑問には思ったけど、出たいとは思わなかった。
……柵の向こうを僕が見ているように、興味深そうにこっちを見ていた彼女に出逢うまでは。
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……今のは?
夢……?
「気が付いたか?」
夕日に照らされた部屋の中、ベッドの傍の椅子にあの人が座っていた。
フードは取っていて、肩までの艶やかで真っ直ぐな黒髪が露わになっている。……黒髪の中から尖った耳のような物が覗いている。
声をかけられて、起き上がろうとした……けど。
……身体に力が入らない。頭が軽い。
「無理に起きようとするな。お前は今、体内の血液をほとんど失っていて、『普通の』人間ならば死んでいる」
『普通の』?
じゃあ、僕は『普通』ではないと言う事……?
首筋に無意識に手が行き、そこにあった2つの傷痕に触れ気絶する前の事を思い出した。
「あの……貴方は一体……?」
「……少し長い話になるが?」
大丈夫と言う代わりに、僕は頷く。
まだ少し上手く口が回らなかったし、喋れるような元気はあまりなかったから。
「……先程見せた通り、私は『吸血鬼』と呼ばれる種族だ」
吸血鬼……。人間の血を糧とし、夜の闇に紛れて現れる生き物……。
場合によっては血を吸われた人間は、同じように吸血鬼になってしまうと言われている。……あまり確かな事ではないけれど。
ぼんやりとそんな事を思い出した。
僕の考えている事が分かったのか、彼は少し顔をしかめる。
「……何を考えているのかは、何となく分かる。だが、人の世で囁かれているような力は我等にはない」
そもそも人間など我等の同士にして何の意味がある、とかなり嫌悪感を込めて続ける。
「が、そんな噂の所為で愚かな一部の人間が我等を住処から追い出すようになった」
ニンニクや十字架でも持って彼らを追い回したのか……。
そんな事を考えたけれど、
「あんな無意味な物を振り回して、本当に我等を祓えるとでも思ったのか……? 確かに聖なる物は不得手ではあるが……、それでも我等を祓えるだけの力はない」
とブツブツ呟くのが聞こえて、どうやらそれらが煩わしくなり逃げ出したようだ。
僕がジッと自分を見ているのに気付いたのか、彼はコホンと咳払いを1つ。
「まぁ、そんな訳で住処を追われた我等は食事ができなくなった。動物の血では命を延ばす事はできても、腹が膨れる事はない。……そして我等は本意ではない方法で、人間から血を頂く事になった」
彼は自分の指先を、懐から取り出したナイフで少し切る。
僕と同じ、赤い血がプックリと玉になる。
「……我等の血には、『他者を従わせる力』と『不老不死の力』がある。量によっては他者を自分の意のままに操る事ができるし、永遠の命を与える事ができる。だが……私は他者を無理矢理従わせたいとは思わない。……不死であるが故の孤独と言う物も、知っている」
ここで彼は初めて『私』と言う1人称を使った。
「無論そう考える者が多数だったが、そうしなければ生き残れないと自覚はしていた。その考えを強く持つ一部の者達の言い分に従うしかなかった。……そして、我等は各地に散り散りになった。強硬派が名付けた、我等の血を飲ませた人間……『餌』を探す為に」
「……じゃあ、あの飲み物の中に?」
「……『深淵の淵』を彷徨っていたお前を、私の『餌』にしたのは悪く思っている。だが、そうしなければならないほど私は困窮していた」
本当に申し訳なさそうに彼は言った。
『深淵の淵』……。この世とあの世を繋ぐ、境のような場所。
……この世に未練のある魂が行きつく場所。
「私は……お前の魂を無理矢理この世に引き出し、血を飲ませ、確固たる存在にした」
「……じゃあ、僕は……」
「……本来ならば死してあの世に行く筈だった魂。お前が内に秘める想いと、私の力でこの世に繋ぎ止められてしまった死者」
死者。そう聞いても、特に何も感じなかった。
あぁやっぱりそうだったんだな、と、そう思った。
「……『深淵』で彷徨う魂は、想いが強ければ強い程輝きが増す。特にお前の魂はその中でも抜きん出ていた。……何がお前に未練を残させた?」
未練……後悔……悔恨……。
ぼやけた誰かの顔が思い浮かぶ。
誰かは分からないけど、とても大切だった……。いや、今でも僕は大切に……想っている……?
離れていた時間が長かったから、よく分からない。
でも、誰かが助けなければとは思う。……それはきっと、僕にしかできない。
「……誰かを、救いたいんです。とても大切な、誰かを」
「誰か……?」
「誰だったのかは……分からないんです。でも、助けられるのは、僕しかいないと思うから……」
「…………」
彼は真っ直ぐ僕を見つめていた。
紅い瞳からは何を考えているのかは分からない。けれど、視線をそらしてはいけないと思った。
「……その誰かの名も居場所も分かっているのか?」
「いいえ。でも、この世界のどこかにいる筈なんです」
「お前がそうだったように、もうこの世にいなかったら?」
「……そうだったとしても、知り合いとか家族とかがいるなら、会って話を聞きたいです」
「……意思は固いようだな」
その言葉に、僕は頷く。
もういなくても、誰が助けてくれたのか。どのような最期を迎えたのか。幸せだったのか不幸だったのか。
せめてそれだけでも知りたい。
「……幸い、私はお前がいれば食事に困る事はない。お前も、大抵の事では死ねない身体になってしまった」
「え……?」
「この世界のどこかにいるのなら、捜しに行けばいいだけの事。例えこの世にいなくとも、その足跡を辿ればいい」
「それじゃあ……」
「捜しに行くぞ。……お前の未練の元凶を」
目の前が開けていくような、そんな感覚を覚えた。
曇天だった空が、やっと晴れ間を覗かせるような……。
……これを嬉しい、って言うのかな……?
「……ありがとう……ございます。……えっと……」
「あぁ、まだ名乗っていなかったな。私はヴァイス。……ヴァイス・ミラージュ」
ヴァイス・ミラージュ……。
「白の、幻影……?」
「……そう呼ばれるのは、あまり好きではない」
ヴァイスと名乗った彼は少し顔をしかめる。
真っ黒な外見なのに、『白』を冠する名前……。
それでからかわれる事があったのだろうか。
でも、僕は良い名だと思った。……何て言うんだろう、響きがキレイ、って言うのかな……?
「……お前は?」
「え?」
「お前の名は?」
……僕の、名前?
僕に、名前なんてあったのかな?
ぼやけたままの記憶を探ってみたけれど……、思い出せそうにない。
「覚えて、ないです」
「……そうか」
ヴァイスは顎に手を当て何かを考えているような表情になる。
夕日が影を作り、少し憂いを含んだ表情に見えなくもない。
……こんなに他人を美しいと思ったのは、初めてかもしれない。覚えている中で。
「……ルカ」
不意に呟くようにそう言った。
まるで、ここにいない誰かを呼ぶように。
「ルカ、と言う名はどうだろう。……お前が自分の名を、思い出すまで」
その後の言葉も、どこか夢見心地のような声音だった。
僕を見つめる紅い色も、どこか遠くを見つめているような……。
「……はい」
その紅に引き込まれそうになりながら、僕は答えた。
ルカ……、ルカ……。何度も口の中で呟くうちに、昔からそう呼ばれていたような……そんな気がした。
今日から僕は……、ルカ。
ヴァイスは、そんな僕の様子をずっと眺めていた。
「……今日はもう遅い。いくら不死に近い身体になったからとて疲労には勝てないし、お前の体力もまだ良好とは言えまい。ここを発つのは明日だ」
「あ、はい……」
「それと……」
「?」
「敬語は……止めてくれないか?」
消え入りそうな声でヴァイスはそう言った。
気のせいか、ヴァイスの顔が赤い気がする。
夕日が照らしているせいなのか、それとも……。
「はい……。あ、うん……?」
「……まぁ、無理にとは、言わないが……」
……敬語じゃない話し方、ってどんな感じなんだろう……。
無理に変えなくていいなら、これからの旅で覚えてからにしようかな。
あ、まだヴァイスに色々聞きたい事があったな……。
……あれ、僕、どうしてこんなに、眠いのかな?
「……無理もないな。今日は色々な事が起こり過ぎた。……今日はゆっくりと休むがいい」
ヴァイスの手が僕の額に触れる。
……とても冷たい。だけど、何だか懐かしいような優しいような……。
昔、誰かにこうされたことがあるのかな……?
思い出そうとしたけれど、睡魔が僕を優しく包み込んで……。
そのまま僕は夢の中に落ちて行った。